第20話 空っぽ
十数分、何本も電車を見送って、ようやく気を取り直して乗った電車は何の異常も無く、光明池駅に向かって走っていた。
お喋りに夢中な女子高生。赤ちゃんを抱っこするお母さん。スマホをいじるサラリーマン。
そんないつも通りの和やかな光景の中でも、私の鼓動はいつまでも鳴り止まないままだった。
もし今、丑虎の鈴が鳴ったらどうしよう?
もし今、鬼が現れたらどうしよう?
線路を走る電車はまるで鍵の掛かった檻のようで、こんな所で鬼に襲われたら逃げる場所もない。
そんな事を考えていたら、隣に座ったサラリーマンも大きな笑い声を上げている学生も、この車両にいる全員が鬼が化けているような気がして、
私は誰とも目を合せるのも怖くなって、ただただジッと足元の床に目を落として、鳴らないで、鳴らないでと祈るような気持ちで丑虎の鈴を握りしめていた。
隣の車両から人がやって来る。駅で人が乗り降りする。電車が隣の道路の自動車を追い抜く。
その度に私は息が止まるような思いで、光明池駅までのほんの五分ほどの時間がとても長く長く感じられた。
『光明池。光明池でございます。』
車内放送の声とともに電車は速度を落としてホームへと入っていく。
そして私は電車の扉が開いた瞬間、弾き出されるように真っ先に駆け降りると一気に駅の改札を抜けた。
もうここまで来たら安心よね。
駅から駆け足で緑道の歩道橋を渡り、ようやく一息ついたのはその先にある新檜尾公園の入口まで来た時だった。
公園の入口では子どもたちがボール遊びをして、お母さん達がベンチに腰を下ろしてお喋りをしていた。
そんな普段と変らない平和な光景を見て、やっと私の気持ちは落ち着きを取り戻した。
大丈夫。今まで誰かが鬼に襲われたなんて話、聞いたことない。
だから、急に鬼に襲われる事なんてない。大丈夫だ。
そんな何の根拠もない理屈を並べて、一つ深く深呼吸をして心を静める。
そう、今のうちにこの丑虎の鈴で鬼を見つけて、お祖父ちゃんに伝える。そうすればきっと、昔と同じようにお祖父ちゃんが鬼を封印してくれる。
だってあの時お祖父ちゃんは「儂は三琴が鬼に食べられんように鬼の事を勉強しとるんや。」って、そう言ってくれたんだから。
だからお祖父ちゃんを信じて和田川のお社に行こう。
和田川のお社に行って、鬼の居場所を突き止めて。
そして誰かが鬼に襲われる前に、もう一度、鬼を封印するんだ。
和田川のお社はこの緑道のずっと先、赤坂台にある。
スマホでお社の場所を確認して、私は緑道を歩き出した。
緑道の両側に植えられた木々からは季節外れの蝉の声が鳴り響いて、まぶしい太陽の光に照らされた梢が風になびいて、心地よい木陰が揺れていた。
健康のために散歩するおじいちゃん。三輪車にまたがりお母さんと一緒にお出かけする子供。
微笑ましくて平穏でそんな優しさに包まれた世界を守るため、私は恐怖と責任感に駆り立てられて、駆け出しそうになる気持ちを抑えて緑道を歩き続けていた。
駅から赤坂台までの緑道は緩やかな下り坂で、いくつかの車道をトンネルで潜り歩道橋で越えていく。
ときどき気持ち良さそうに滑走していく自転車に追い抜かれて、三十分ほど歩き続けると、長く続いた下り坂の先で大きな道路に突き当たって、そこで緑道は終わりを告げた。
赤坂台六丁。
泉北ニュータウンの光明池地区の北の端。
その一番端っこにある住宅街の片隅に和田川のお社がある。
その住宅街の中にあるお社は、けれど住宅街からは入れないようになっていて、その入口は住宅街の裏手を流れる和田川沿いの砂利道に向かって開いている。
こんな不思議な立地になったのは、このお社がニュータウンが出来る直前に建てられたかららしい。
当時、道と言えばこの和田川沿いの砂利道しかなくて、ニュータウンの広い道路はまだ工事中。
だから住宅街が出来上がる前に建てられたこのお社は、昔のままの砂利道に入口を向けてを建てられたそうだ。
それ程までに、急いで、慌てて、強引にこのお社は建てられたんだ。
そう、鬼を封印するために。
信号が青に変わった。
今はもうアスファルトの所々に亀裂が入ったその道路を渡ると、正面には躑躅の垣根に囲まれた児童公園がある。
その向こうには住宅街の家の屋根が建ち並んでいて、公園の右手には住宅街への道路がある。
けどそっちからはお社には行けない。
私は横断歩道を渡って住宅街とは反対の左手へと足を向けた。
児童公園の垣根に沿って歩いて行くと、公園の向こう側には和田川があって、その公園と和田川の間に昔からある川沿いの砂利道がある。
その砂利道こそお社への道なんだ。
公園の角を曲がり砂利道に足を踏み入れると、公園の茂みの向こうには赤い鳥居が見え隠れしていた。
鬼は……いないよね。
思わずリュックに吊した丑虎の鈴を手に取って、振ってみても爪弾いてみても丑虎の鈴はカラともコロとも鳴らなかった。
アスファルトの道路から川沿いの砂利道へと足を入れる。
一歩一歩、歩くたびジャリジャリと鳴る砂利の音。
鬼はいない……鬼はいない……。
まるで鉱山の中をカナリアの鳥籠を持って歩くみたいに丑虎の鈴を手に持って、恐る恐る鳥居を潜ると、見慣れた光景の片隅に工事用のオレンジと黒の縞々フェンスとショベルカーが置かれているのに気が付いた。
そっか、もう工事が始まってるんだ。
そのいつもと違う風景を見て、なぜだかホッと気が抜けた。
大丈夫。丑虎の鈴は鳴ってない。
鬼は近くにはいない。
丑虎の鈴を握り直して、一つ深呼吸すると少し心が落ち着いた。
よし、行こう。
一歩一歩落ち着いて、それでも用心深く。
お社の取り壊しはもう始まっていた。
境内の玉石はショベルカーのキャタピラで荒らされてアチコチで地面がむき出しになって、剥がされた瓦がお社の傍らに積み上げられていた。
工事の人はお社の中にも入ったみたいで、お社の扉は開きっぱなしで木階段には靴底の泥汚れがいくつも残っていた。
私はいつもの習慣でお社に一礼して靴のまま木階段を上がるとお社の中をのぞき込んだ。
いつもは堅く閉ざされているお社の扉。
それが今は開けっ放しになっていて、ギィギィと風に揺れている様子はまるで私を手招きしてるみたいだった。
怖くはなかった。
扉が開け放たれたお社は奥まで日の光に照らされて、空っぽになってるお社の中はまるで畑の納屋か物置のようだったから。
そんな空っぽのお社の真ん中に、あの御神木、いや古木に姿を変えた鬼を封じていた宮殿が寂しそうにポツンと取り残されていた。
その宮殿の前に立って、ゴクリとツバを飲み込んでからお祖父ちゃんから預かった鍵を取り出す。
どこにでも売ってるような小さな南京錠。
そのくすんだ鍵穴に鍵を差し込んで回すと、カチリと小さな音がして錠が開いた。
もう一度耳を澄ませて丑虎の鈴の音を確認する。
うん。鳴っていない。
私は、近くに鬼がいないことを確かめてから両手を宮殿の扉に添えた。
スウと一度息を吸って、ゆっくりと力を込めると、宮殿の扉はギシギシと音を立てながら軽く開いた。
中は空っぽだった。
宮殿の中には長く古木を置いていた跡が残っているだけ。
ほかは横にも上にも砂埃が積もっているだけで何もなかった。
この間、遷座して古木を取り出した後はそのままにして、誰も触ってもないんだから当たり前か。
でも、これじゃあ……どうしよう?
試しに丑虎の鈴を中に入れてみても、鈴はカラともコロとも鳴らない。
今まで鬼に出遭いたくなくて、鳴らないで。鳴らないで。って考えていたけど、鳴らないは鳴らないで問題だった。
手掛りがないのだ、鬼を探すための。
鳴らなくて良かったっていう安堵の思いと、どうしよう?っていう焦りが混ぜこぜになって押し寄せてくる。
そっかぁ、そうだよ。なんで気が付かなかったんだろう。
「もう和田川のお社に鬼はいない。」
確かにお祖父ちゃんはそう言ってたのに。
それを勝手にここに来たら何か手掛りがあるなんて思い込んじゃってた。
もう一度鳴らない丑虎の鈴を指で弾いてみて、仕方なく空っぽの宮殿に頭を下げて扉を閉める。
扉を閉ざした宮殿はそれ自体が御神体のようで、私は木階段を下りるとお社に向き直って柏手を打った。
どうか鬼が見つかりますように。
それから、鬼には見つかりませんように。
結局、和田川のお社に手掛りはなかった。
帰り道の緑道は、来た時とは反対に長い長い上り坂で、気持ちの沈んだ足取りは重く、駅に着く頃には日は高く昇っていて、お腹がグゥとお昼を知らせた。
時計を見ると時間は十一時半。
ざっと計算しても一時間以上歩き続けていたことになる。
お腹が減るのも当たり前かぁ。
とにかく、疲れた足を休めて昼食を取ろうと、混み合い始めたマクドナルドに入った。
腹が減っては戦は出来ぬ。だ。
「さて、どうしようか?」
頼んだフィレオフィッシュバーガーを頬張りながら考えるのは、この後の事。
頼りにしていた和田川のお社には手掛りはなかった。
じゃあ、次はどこに行こう。どうやって鬼を捜そう。
いくら考えても、鬼の居場所なんて心当たりがあるはずもなくて、
一番に思い付いたのは泉ヶ丘に戻る事だった。
確かに今朝、あの時、泉ケ丘駅のホームで丑虎の鈴はなった。
だから泉ヶ丘に戻って、そこで鬼を捜すのも一案だ。
でも、丑虎の鈴が鳴ったのはもう三時間も前の事。
今さら戻ったところで鬼がいるなんて思えない。
ああ、あの時にちゃんと鬼を捜してれば良かった。
……なんて、そんなの無理だ。
私はオレンジジュースのカップにストローを差し込んで、あの時のことを思い出してみて首を振った。
駄目だ。あの時にそんな事出来たはずがない。
例えるなら、蛇に睨まれた蛙。ライオンに見付かった子鹿。
大自然の中で天敵に出遭った動物はきっとあんな風になるんだろう。
人間の天敵は鬼なんだ。
その天敵に睨まれた私の心臓は、まるで巨大な掌に鷲掴みされたみたいに脈打つたびにズキズキと痛んで今にも止まりそうだった。
ううん。出遭ったんじゃない。ただ擦れ違っただけだ。
それでも全身からは冷や汗が吹き出して、喉の奥はカラカラに乾いて、手足の震えは止まらなかった。
だからきっと、もし本当に鬼に出遭ってしまったら……、手足どころじゃない。心臓すら動きを止めて、私はただただ立ち竦んだままで鬼に食べられちゃうんじゃないか。そんな気さえする。
もう鬼なんて捜すのは止めようかな。
そんな弱気が頭をよぎる。
ううん。これは弱気じゃない。本能だ。
この世界のどこに蛇を探し回る蛙がいる?ライオンとの出遭いを求める子鹿がいる?
きっと体中の細胞に染みこんだ本能が「馬鹿なことは止めろ。」と叫んでいるんだ。
でも……。
止めたところで鬼がいなくなる訳じゃない。消えてなくなる訳じゃない。 鬼は泉ヶ丘にいた。
家から自転車でたった二十分の、いつも学校へ行く時に通る駅にだ。
だから、鬼を捜すのを止めても何も変らない。
ううん、むしろ危険かも知れない。
だって明日にだってバッタリと鬼に出遭うかも知れない。
私の知らないところで鬼に襲われる人がいるかも知れない。
だから鬼を捜すのを止める訳にはいかない。
それより捜し出して、もう一度封印するしかない。
そう、私はただ蛇やライオンに襲われて食べられるだけの蛙や子鹿じゃない。
逆に鬼を封印することだって出来るんだ。
だったらコレは私に与えられた使命。運命かも知れない。
だって、鬼が本当にこの世に居るって知っていて、鬼をもう一度封印できるのは、私とお祖父ちゃんしかいないんだから。
私は袋の中に残ったフライドポテトを食べながら、そう決意を固めた。
昼食を食べ終わってから私は駅前に戻った。
別に行き先が決まった訳じゃない。
ただ食事が終わったのにいつまでもお店のテーブルを占領しているのが気が引けて、仕方なく駅前に戻ってきただけだった。
どこに行けば良いんだろう。
駅の改札口の上にぶら下がっている電車の案内板を眺めながら、難波、中百舌鳥、和泉中央と行き先を想像してみてもピンと来ない。
どうもそこに鬼がいるようには思えなかった。
じゃあ、やっぱり泉ヶ丘?
行き先を決められずに改札口から振り返れば、改札口の向かい側の壁に掛けられた大きな地図が目に入った。
人の背丈ほどある大きなその地図には、柔らかな色彩で和泉市の名所やお寺神社の名前が書かれていた。
特に行くアテもなくただ呆然と地図を眺めていた私が、その地図から目を離せなくなったのは、その地図の中に『鬼』の文字を見つけたからだ。
『父鬼』
それは和泉市の南部。和泉山地の北にある集落の名前だった。
たしか昔、お父さんが夏に川遊びに連れて行ってくれた場所だ。
……父鬼。
鬼の文字があるからって本当に鬼と関係あるとは思えない。
普通に考えればある筈がない。
でも、気にはなる。
行って……みる?
どうせ、アテがある訳じゃない。
丑虎の鈴が鳴った泉ヶ丘だって、この後にまた鳴るとは限らない。
アテがないのはどちらも一緒だ。
だったら、今日は父鬼に行くのが正解かも知れない。
だって、泉ヶ丘にならいつでも行ける。
今日の帰り道にだって泉ケ丘駅は通る駅だ。
ならこの後は、父鬼に行ってみよう。
行って、鬼がいるのかいないのか、ハッキリさせよう。
そして一つハッキリさせたら次は泉ヶ丘で鬼を捜そう。
アテはないんだから、一つ一つモヤモヤを晴らしていくしかない。
そう昔、お祖父ちゃんに詰め寄った横山さんのように。




