第2話 俺に妹がいる!!
外に出ると夏の日差しが襲いかかってきた。
朝の清々しい空気なんてどこにもない。
むせかえるようなアスファルトのムアッとした空気が全身を包み込むと、数歩も歩かないうちに額からは汗が流れ出してきた。
暦は9月。
しかしこれだけ熱いんだからあと一週間は夏休みを延長してくれても良いと思う。
そんなどうしようもないことを考えながら、隣の佐山さんのおばちゃんに朝の挨拶をして、愛犬のポールをなでて、住宅街の裏の公園を横切れば、赤く塗装されたアスファルトの遊歩道へ出た。
遊歩道の両脇に植えられた街路樹からはミンミン、ジージーと蝉が大合唱していたけど、並んだ街路樹の木陰を選んで歩けば熱さもいくらはマシに思えた。
緑道と呼ばれるその遊歩道の両脇には木々が生い茂っている。
ニュータウンの端から駅まで、ニュータウンの真ん中を貫いているくせ、まるで山の中の散策道のようだ。
大きな道路は陸橋で渡り、トンネルで潜り、信号は一つもない。
そんな便利で気持ちのいい緑道だから、朝には駅まで歩いて通勤通学する人が方々(アチコチ)から緑道に集まって来る。
ネクタイを緩めて首元を手で扇ぐサラリーマン。
ハンカチで額の汗を拭く女性。
熱さに負けず駆けて行くランドセル姿の小学生。
そんな合間を危なっかしく自転車がすり抜けて行く。
俺はそんな川の流れのような緑道に合流して、「何なんだよ。アイツは」と呟いた。
朝の忙しい時間帯。
一学生の独り言なんかに構う人はいない。
駅へ向かうサラリーマンや学生は競うように先を急ぎ、物思いに更けながらボチボチと歩いている俺の横を通り抜けて行く。
そんな当たり前の空気の中に浸って、ようやく俺は大きく息を吐いて人心地付いた。
まぁ、知らね。
どうせ学校から帰る頃には居なくなってるだろう。
そんな何の根拠もない予想に期待を寄せて、いつもの通学路を歩いていると、いつもの見た顔が俺の前を通り過ぎた。
「おい、無視すんなよ。」
軽く鞄をぶつけて挨拶を交わすと「熱い上に数学の田西がアホほど宿題出しやがって、声も出ないくらい元気ねぇーよ。」なんて愚痴をこぼす同級生。
駅へ向かうの緑道の二つ目のトンネルを抜けた頃には、いつもの通学メンバーが勢揃いして、テレビの話や野球の話でヤイのヤイの盛り上がり、田西がどうの言ってた里中が、「夏休みの宿題がやべー」なんて言ったらみんなで腹を抱えて笑った。
おいおい、夏休み終わって何日経ってんだよ。
そんな風に、もう家での事なんか頭から消えてなくなった頃、「お兄ちゃん」と後ろから聞き覚えのある声がした。
俺に妹はいない。
今朝まで誰からもお兄ちゃんなんて呼ばれたことはない。
だから無視した訳じゃない。
ただ本当に自分が呼ばれたんだって気が付かなかったんだ。
まぁ、俺達の事だよな。
俺達のグループの誰か、竹田とか妹いたよな。なんて考えてると、「ねぇ、お兄ちゃん、待ってよ。」と苛立ち混じりの声が俺達に追いついて来た。
その声の主はあの咲だった。
俺のジャージを着て、手にはエコバック。中にはノートと筆記用具が入ってるらしい。
なんつぅ格好だよ。
まるっきり学校へ行く女子の格好じゃない。
まるで買い物帰りのオバチャンと見間違えそうな格好をしている咲なのに、誰もそんな格好を気にしてなかった。
「おお、咲ちゃんか。おはよう。
なんだ、今日は翔とは一緒じゃなかったんだ。」
「うん。おはよう。サトチン。
今日はお母さんがお弁当作るの遅くなっちゃって、それでお兄ちゃんは先に出たんだけど、私はお弁当できるの待ってから来たの。
あっ、お兄ちゃんのお弁当も持ってきてあげたよ。」
明らかにおかしい格好で学校へ行こうとする咲に、何の疑問も抱かずに普通に話し掛ける奴ら。
蝉の声が鳴り止まない残暑の中で、俺の奥歯はガチガチと小刻みに震えて、背中は脂汗でグッショリと濡れていた。
「なぁ、お前ら、コイツの格好見て何とも思わない訳?」
言いながら、俺はなんて馬鹿な事を聞いてるんだと心の中で呟いた。
だって、変だと思っていたら誰かが何か言ってるだろう。
だって、何とも思ってないから、普通に話ししてるんだろう。
心臓がバクバクに脈打って、喉から飛び出そうになる。
それでも俺は言わずにいられなかったんだ。
「何言ってんの。
昨日、咲ちゃんの制服がなくなったって大騒ぎしてたじゃん。」
予想の通りまるで俺の方がおかしいような冷たい視線を送って答えた里中の答えに、横で竹田が首を振った。
「いや確か、田んぼの中に転んで泥だらけになってクリーニングに出してんだろ?」
「えっ、なんか盗まれたって聞いたぜ?」
「サイズが合わなくなって買い替えるんじゃなかったっけ?」
更に間木や山西が間に入って口々にいい加減な事を言い合って、収拾が付かなくなると二人は鞄を振り回し「馬鹿馬鹿」とジャレあっていた。
どれが本当でどれが違うのか。
本当はどれも違うのに、もう俺にはそうと言う気力は残されていなかった。
「ちょっとお兄ちゃん。
お弁当持ってきてあげたんだから、お礼くらい言ってよ。」
全ての元凶にそう言われても、もう言い返す元気もない。
「どうしたんだよ。兄妹喧嘩?」と茶化しながらも探りを入れる里中に、「冷戦中。」とだけ答えて、もう俺は何も言わなかった。
光明池駅から電車に乗って一人。俺は車窓の向こう側に見える道路の車を目で追っていた。
後ろからは里中と竹田と間木と西山と咲の笑い声。
窓に映る五人の影の見ているといつもの俺の立ち位置にアイツが笑顔で立っていた。
もう、「どうして?」なんて疑問も出なかった。
ただただ何もなかったかのように俺の日常に紛れ込んで笑顔を振りまいているアイツが不気味で怖くて、早く学校の教室でいつもの退屈な授業を居眠りと共に受けたくて仕方がなかった。
早く、いつもの日常に、アイツのいない日常に戻りたい。
電車が深井駅に着いて、バスに乗り換えた。
ゾロゾロと同じ高校の制服を着た学生が同じバスに乗り込むけど、誰もジャージ姿の咲のことを不審には思わない。
もういいや。そんな事はどうでもいい。関係無い。
早く教室に入って俺の日常を取り戻そう。
バスが止まる前から運賃箱の横に立って、止まると同時にバスから飛び出す。
駆け出すようにして通用門を潜り抜けて、上履きに履き替えて教室に入り、席についてようやく俺はホゥと息を吐いた。
なんなんだアイツは。
咲なんて見た事も聞いた事もない。
だったらなんで里中たちはあんなに親しくしてるんだ?
それに親父も母さんも知ってるみたいだった。
いや、もうアイツのことはいいや。
ようやく訪れた平穏な退屈に浸り、俺は机に覆い被さるようにして伏せ寝を決め込んだ。
嗅ぎなれた油臭い机の臭い。
耳に付く女子達の騒がしい声。
どうしてだろう。
昨日まで気にしたこともない当たり前の日常がこんなに心地良いなんて。
なんか涙が出そうだ。
キンコンカンコンと予鈴がなる。
ガラガラと扉の開く音がする。
もう田西が来たのかと教壇に耳を傾ければ、聞こえて来たのは田西のガラガラ声ではなく、今朝から聞き続けた「みんな、おはよ~」とかいう間抜けたアイツの声だった。
なんで?
慌てて顔を上げた視線の先にいたのは間違いなくあの咲だった。
俺のジャージを着て、鞄の代わりにエコバックを持って、足元は上履きじゃなく来校者用のスリッパを履いて。
そんな異様な格好の咲なのに、咲が明るく「お早う」なんて言って教室の中に入っても、誰も咲のことに疑問も抱かずに「お早う」と挨拶を返していた。
なんで?どうして?おかしい。昨日までお前なんて居なかったじゃないか!
俺はこの訳の分からない現実から逃げるように額を机に押し付けた。
そんな事にも気が付かないで咲は、同級生達と挨拶を交わしながら教室を一周して、そして素っ頓狂な声を上げた。
「ねえ、私の机がないよ。」
その声にクラスのみんなが騒ぎ出した。
「え~どうして?」「ありゃ、マジだ」「誰かどっか持って行ったんじゃねぇ」
初めっから無かったよそんなもん。
俺のクラスの一番後ろの机の数は三つ。
間違えるはずがない。
その内の一つ、教室の一番後ろの窓側の特等席が俺の席なんだから。
しかし、咲の声を聞いて、誰も初めっから咲の席が無かったって事に気が付く奴は居なかった。
みんながみんな、最後尾の席は四つだったと信じて疑わず、終いには端から順番に机を確認する奴までいた。
「やっぱりないね。」「なんでないんだろう?」「誰か廊下にでも持って行って返すの忘れてるんじゃない?」「ちょっとマジで?イジメとか洒落になんないよ。」
もう俺には朝から続くそんな騒ぎに違和感を感じる気力すら無かった。
端から順番に机の数を数える里中、隣から聞こえてくるキーキー煩い高崎の声、全部がテレビの向こうの出来事のように現実感を失っていた。
もうドウデモイイ。
机が無くなったと騒ぎ立てる同級生達を無視して、俺はもう一度伏せ寝を決め込んだ。
「ねぇ、お兄ちゃん。私の机がないよ、どうしよう?」
耳元で頼りない声が聞こえた。
「ねえ、私の机がないの。お兄ちゃん知らない?」
困り果てて弱々しく泣き出しそうな声。
煩い。知らん。机どころかお前自体知らん。どっか行け。消えろ。
「ねぇ、お兄ちゃん。」
机に伏せた俺の肩を掴んで咲が俺を揺さぶり起こした。
「ウザイ!」
俺はその咲の手を払いのけて咲の顔を睨み付けた。
「知らねぇ、知らねぇ、知るかよ。
何なんだよお前は、朝から。
お兄ちゃん、お兄ちゃんって。
俺はお前なんて知らねえんだよ。」
目頭が熱くなって、言葉が止まらない。
考えるより先に言葉が出てきて、咲は俺の目の前で立ちすくんで涙を浮かべて、クラス中の同級生が声を失って俺を見つめていた。
なんで、なんで俺がそんな風に見られなきゃいけないんだよ?
悪いのはコイツじゃないか。
「ちょっと泉君、謝んなさいよ。言い過ぎよ。」
何も知らない高崎が今にも泣き出しそうな咲の隣に立って俺を睨みつける。
うるさい。うるさい。うるさい。
何も、何も、知らないくせに。
頭に血が上り、目頭に涙が浮かぶ。
「ちょっと、何とか言いなさいよ。」
人の気を逆撫でする高崎の言葉。
何をどう説明すんだよ。
咲は昨日まで居なかっただろ!?
もし、そう本当の事を言っても誰も聞いてくれねぇだろ。
指先が膝先が怒りでブルっと震える。
その瞬間、腹の底がギュッと縮んで、喉の奥から込み上げるものがあった。
鼻の奥に迫る酸い臭い。
…
もう物を考える余裕もなかった。
俺は口を押さえて立ち上がり、
目の前の咲の肩を押し避けて、
慌てて教室から出ようとした。
「ちょっと泉君。逃げる気?」なんて見当違いの金切り声を上げる高崎の言葉はもう耳に届かなかった。
いや、ダメだ。トイレまで持たねぇ。
酸っぱい苦味が喉元に迫っていた。
目の前に掃除用具を入れたロッカーがある。
俺は無我夢中でロッカーを開けると、中からバケツを引っ張り出した。
ホウキやモップが音を立てて倒れてくるが、そんなの関係ねぇ。
俺はバケツを抱え込んで、胃の中の物を全部吐き出した。