第10話 鬼なんていない
この世に鬼はいる?
そんなものはいない。当たり前。
ただ、世の中には幽霊だとか、宇宙人だとか、神様だとか。
そんなのがいるって、本気で信じてる人がいる。
もちろん、信じて心の拠り所にするには構わない。
そういう意味なら、私も巫女として神様を信じている。
ただ問題となるのは、そういうものが本当に存在していると信じていて、周りに迷惑を掛ける人間で。
厄介なのはお祖父ちゃんがそういう人間だってこと。
三琴は自宅の玄関でハァと溜息をついた。
溜息の原因は家族のこと、お祖父ちゃんのこと。
この間夜通しで大喧嘩した和田川のお社の話を、昨日またお祖父ちゃんが蒸し返したのだ。
「遷座は失敗だった。
やはりお社は移すべきではなかった。
今からでもあの土地を買い取って、御神体を手厚く祀らんといかん。」
突然とんでもないことを言い始めたお祖父ちゃんにお父さんが涙を浮かべながら大激怒。
修羅場となった昨夜のことを思い返して三琴を憂鬱に空を見上げた。
見上げれば空には灰色の雲が薄く覆っていて、小さな雨粒がパラパラと降り続いていた。
「じゃあ頼んだわよ。」
お母さんが差し出した傘を受け取って、三琴は仕方なく頷いた。
お父さんは完全に意固地になっているし、お母さんだって冷静でいられない。
それに私がお祖父ちゃんっ子だって自分でも分かってるから、こういう話をするのには一番相応しいってことは分かってる。
三琴は傘を広げて家を出た。
三琴の家の隣の神社。
その神社の鳥居の前で三琴は軽く会釈した。
もし本当に神様がいるのなら力を貸して下さい。
思わずそんなことが頭に湧いてきて、三琴はまた溜息をついた。
鳥居を潜ると、前には玉砂利の広場があって、その奥に社殿、左手には社務所がある。
お祖父ちゃんがいるのは社務所の奥の私室。
三琴はシャリシャリと鳴く玉砂利を踏みしめて社務所に向かうと、古くなった引き戸をギギギと開けて中へと入っていった。
社務所の中に漂う匂い。
古い社務所の木の匂い。それに混じって漢方の独特の匂いがした。
匂いの出所はお祖父ちゃんの私室。
神社の社務所の奥にあるお祖父ちゃんの部屋には沢山の古書や古道具、漢方の薬なんかがあるからだ。
お祖父ちゃんは周りの人たちに「神道の研究。神様の事を勉強しておるのです。」なんて言っていたけど、それは嘘だと知っていた。
昔、小さかった頃、悪戯心にお祖父ちゃんの部屋に忍び込んで、こっそりと古書を盗み見したことがあったから。
手に取った古書の文字は達筆な毛筆書きで何が書かれてるのか分からなかったけど、そこには人々を苦しめるオドロオドロしい地獄の鬼の絵が描かれていた。
幼かった私は驚いて逃げるように部屋を出た。
けどその夜、私は鬼に追われて食べられる怖い夢を見た。
私は泣き叫びながら、お祖父ちゃんにこっそり古書を盗み見したことを打ち明けて謝ったっけ。
そうしたら、おじいちゃんはとびきりの優しい笑顔で「三琴が鬼に食べらんように、お祖父ちゃんは鬼のことを勉強しとるんやで。」と髪を撫でてくれた。
これがただの幼い日の思い出話で済めば、まぁ微笑ましいエピソードで済んだのだろう。
ただ問題なのは、この時のお祖父ちゃんの言葉が本気の本心からの言葉だったからだ。
この世に鬼がいる。お祖父ちゃんは本気でそう信じているのだ。
そして、あの和田川のお社はその鬼を封じたお社だという。
そんな漫画みたいな話を本気で信じているなんて、そりゃお父さんの目尻にも涙が浮かぶわよ。
社務所の中に入って廊下を奥へと進む。
中庭からの薄明りが廊下を照らすその奥、廊下の突き当たりにあるのがお祖父ちゃんの私室だ。
「お祖父ちゃん、いる?」
そう声を掛けて三琴は古い硝子の障子戸をガラガラと開けた。
そこは昔、蔵として使っていた場所。
昼間でも日の光が届かない蔵に蛍光灯を取り付け、物置棚を本棚に仕立てて、板の間に畳を敷き、こたつを置いたお祖父ちゃんの私室。
そんな薄暗い部屋でお祖父ちゃんはずっと長い間、鬼の研究をしてたんだ。
「お祖父ちゃん。入るわよ。」
そう言って、私室に足を踏み入れると、古くなった床板がギシリと音を立てた。
テーブルの上にはいくつもの古書が乱雑に読み散らかされていて、その隙間に湯飲みが置かれていた。
テーブルの向かいにあるテレビは付けっぱなしで明日の天気予報が明日も引き続き雨模様だと告げていた。
「お祖父ちゃん、居るんでしょ?」
三琴が私室の奥を覗き込むと、電灯の明りも届かない私室の隅の戸棚の奥からなにやらゴソゴソと埃まみれの木箱を取り出しているお祖父ちゃんがいた。
「おお、三琴か。ええとこに来た。
ちょっと渡したい物があるんや。」
お祖父ちゃんは木箱に上に積もった埃を払いのけると、その木箱を大切そうに持って来てテーブルの端へと置いた。
「ええか、三琴。
これは丑寅の鈴ゆうてな、鬼除けの鈴や。」
お祖父ちゃんが木箱から取り出したのは、手の平に乗るぐらいの大きさの、形は牛なのに虎柄をした変わった陶器の鈴だった。
「ちょっとお祖父ちゃん。話を聞いて。」
「分かってる。鬼なんて馬鹿馬鹿しい事を言うのを止めって言うんやろ。」
お祖父ちゃんには三琴がどうしてここに来たのかお見通しだった。
仕方ないなぁ。なんて言葉が聞こえてきそうな態度でお祖父ちゃんは丑虎の鈴を木箱に戻すと、ドカリと三琴の向かいに腰を据えた。
「言いたい事は分かる。
俺でも鬼なんか信じてなかったんやから。
せやから俺もお前らに信じろとは言わん。言っても無駄や。」
どうも風向きが悪い。
お祖父ちゃんを説得するなんて簡単にはできないと分かってたけど、『言っても無駄。』とまで言われれば取り付く島もない。
これでは説得どころか話も出来ない。
なにか話の切っ掛けを作らなければ。
「じゃあ…
じゃあ、お祖父ちゃんはどうして鬼なんか信じるようになったの?
初めは信じてなかったんでしょ?」
そうだ。
どうしてお祖父ちゃんは鬼を信じるようになったんだろう?
どうしてこんなに古書や古物を集めて鬼の研究なんてするようになったんだろう?
苦し紛れの言葉だったけど、口に出してみるとそれは素朴な疑問になった。
お祖父ちゃんは今、ハッキリと『信じてなかった。』と口にした。
だとすれば、きっと何か切っ掛けがあったはずだ。
三琴はお祖父ちゃんの目を見つめてジッと返事を待った。
その三琴の眼差しには打算や計算の色はなく、ただ純粋にお祖父ちゃんと鬼の話が聞きたい。という気持ちが表れていた。
「なんぼ口で言っても、実際に経験せんと分からんわ。
せやけど、言わんと分からんわなぁ。」
三琴の気持ちが通じたのか、おじいちゃんは参ったなぁとでも言いたげな仕草で顎を撫でると、溜息混じりにそう言った。
お祖父ちゃんは話をしたからといって、理解して貰えるとは思ってないようだった。
誰かに理解して貰えるとも理解して貰おうとも思っていなかった。
それはお祖父ちゃんの自分に対する言い訳なのかも知れない。
期待していなければ、期待を裏切られることも無い。
そうお祖父ちゃんが考えていると思い当たったとき、三琴の胸の奥がチクリと痛んだ。
誰にも理解されずにいるのは孤独だ。
たとえそれがどんなに馬鹿馬鹿しいことでも、周りから理解されず頭から否定されるのはどんなに辛いことだろう。
それでもお祖父ちゃんは良いという。
鬼なんて信じていないのが当たり前だから。と言う。
それでも自分は信じてるくせに。
三琴は、ヨイセと重い腰を上げたお祖父ちゃんを目で追った。
そのお祖父ちゃんはテーブルの後ろにならんだ書棚から一冊の古いスクラップブックを取り出して来ると、「これが一番古いヤツや。俺が鬼なんかを信じる切っ掛けになった記事や。」と開いて見せた。
その一番初めのページに貼り付けられた新聞記事には、『いよいよ泉北ニュータウンの開発が始まる』という見出しが一面に載っていた。




