第1話 俺に妹はいない。
俺に妹はいない。
しかし、ソイツは堂々と俺の目の前に、三杯目のお代わりの茶碗を差し出していた。
コイツは一体、誰なんだ。
朝、起きたときには何も変わりはなかった。
いつものように目覚まし時計で目を覚まし、
いつものようにベットから這い出て、制服に着替えて、トイレに行って、顔を洗い、朝ご飯を食べようと台所へ向かったんだ。
階段を降りると廊下にはいつものように香ばしい味噌汁の香りが漂っていた。
「おはよ…」
なんてまだ目の覚めきらない間抜けた声で台所へ行くと、食卓テーブルに新聞を広げながら朝ご飯を食べていた親父が「おう」と短く返事を返してきた。
その奥では母さんがリズミカルにトントンとネギを刻み、ジュゥっとネギ入り卵を焼き上げた。
そんないつもと変わらない朝。
ただ一つ、見知らぬ女の子が居ることを除いては。
その女の子はテーブルの、一番テレビの見やすい、いつもは俺が座る椅子に座っていた。
お客さん…かな?なんて思ってたけれど、俺はそんな考えを頭を振って否定した。
大体こんな朝早くに家に来て、テーブルに座って、親父と一緒に朝ご飯を食べるお客さんなんているはずがない。
その女の子は、見た目は俺と同じ年くらい、高校生くらいの女の子。
髪は長く艶やかで腰の近くまであった。
背は俺より二回りは小さい。
顔はちょっと可愛い。
いや、そんなことはどうでも良い。
問題はその子の服装だった。
なんとその子は俺のジャージを着て、しかも何食わぬ顔で、厚かましくも堂々と三杯目のご飯のお代わりを要求していたのだった。
その茶碗も俺の物だった。
全く厚かましい、誰だコイツ。
俺は仕方なく、ソイツの向かいの席に座り、不機嫌さ全開で睨み付けた。
「なぁ、お前誰だよ。」
自分でも驚くぐらい不機嫌な声が出た。
もちろん勝手に人の物を使われて腹が立ってたし、まして俺のジャージを着てるなんて腹立だしさを通り越して怖い…、いや不気味なくらいだ。
それに寝起きの掠れた声が重なって、とんでもなく不機嫌な声になった。
けど、ソイツはケロリとした表情で目をパチクリさせて、「咲だよ。」と、エヘヘと照れ笑った。
…駄目だコイツ。
俺は仕方なく咲の差し出した俺の茶碗を受け取ると、ご飯をよそうために椅子から立ち上がって流し台に向かった。
そして隣で弁当を三つも用意している母さんに、咲には聞こえないように小声で話しかけたんだ。
「なぁ、あの咲って言う子、誰?」
まぁ、《居候、三杯目にはそっと出し。》なんて言うからな、居候ではないのは確かか。
なんて冗談を思い浮かべながら俺は、多分何かの用事で泊まり込みに来た親戚の子か何かだろう。と、当たりを付けていた。
しかし、返ってきた母さんの返事は俺が予想だにしなかったものだった。
「何、あんたたち。また喧嘩したの?」
えっ?なに?《また喧嘩したの?》って言った?
俺はご飯をよそいながら考えた。
俺はあの子と会ったことがあるのか?
それも母さんの口振りから想像すると、よく会って度々喧嘩してるような間柄だ。
そんな子、居たかな?
俺はてんこ盛りに盛った茶碗を咲に手渡すと、咲の顔を見た。
いや、知らない。いくら考えても心当たりがない。
従姉妹?姪っ子?又従姉妹?、それとも昔遊んだ田舎の近所の子?
そんな事まで考え始めたらキリがない。というか、顔を憶えているはずがない。
そんな風に考え事をしながらマジマジと咲を顔を見つめていたものだから、気が付けば咲の方もジッと俺の方を見ていた。
そうして視線が交わったとき、咲はまたエヘヘと笑みを浮かべて言ったのだ。
「どうしたの?お兄ちゃん。」と。
《お兄ちゃん》
その言葉を聞いて俺は、背中に大きなナメクジが這い回ってる様な悪寒に襲われた。
変だ。おかしい。絶対に変だ。
俺は一人っ子。妹どころか弟もいない。
親戚には年下の女の子もいるが全員顔を憶えているし、俺の事を《お兄ちゃん》と呼ぶ子はいない。
俺の名前は翔だから、親戚の人は全員、俺の事をかーくんと呼ぶのだ。
だから、俺は今まで一度も誰からも《お兄ちゃん》なんて呼ばれた事はない。
「お前、いい加減にしろよ!」
言った言葉は震えていた。
怒りと苛立ちと少しの恐怖が混ぜこぜになって、うっすらだけど目頭には涙さえ浮かんでいた。
「お前、一体誰なん…」
「翔、いい加減にしろ!」
そんな俺の言葉を遮ったのは、いままで隣で黙って朝ご飯を食べていた親父だった。
「翔、昨日何があったか知らんが兄妹喧嘩を明くる朝まで持ち越すな。
お兄ちゃんだろ、少しは辛抱しろ。」
「はぁ?親父まで何言ってんだ。」
親父はそんな俺の言葉を聞こえなかったかのように無視して、いつものテレビの天気予報を見てから椅子から立った。
「母さん、弁当。」
「えっ。あ、あなたご免なさい。
今日はちょっと支度に手間取っちゃって、まだお弁当が出来ていないのよ。
もう少し待って貰えるかしら?」
「いや、バスに間に合わなくなる。
弁当はいい。済まんが俺の分はお昼のおかずにしておいてくれ。
じゃあ行ってくる。
翔、夜までには仲直りするんだぞ。」
そう言って親父は、この食卓に咲が居ることに何の疑問も感じずに仕事へと出て行った。
なんだ。なんだよ。
兄妹喧嘩?
何、訳の分かんないこと言ってんだよ。
居なかったじゃん。居なかった。
俺に妹なんて居ないじゃん。
それに、コイツ、なんで俺の服着て、俺の茶碗で、俺の席で飯食ってんだよ。
おかしいだろ。絶対おかしいだろ。
思えば思うほど怒りが沸いてくる。
「なぁ!答えろよ。お前は誰なんだよ!
どうしてここで、俺の服着て、俺の茶碗で飯食ってんだよ!」
「翔!いい加減にしなさい。」
怒りに任せて口から怒声が溢れ出る俺に母さんの声が飛んできた。
「何をそんなにカリカリしてるの?
咲ちゃんが勝手にジャージ着た事を怒ってるの?
それなら、咲ちゃんの服がなかったから、あんたの使っていないジャージを貸してあげたのよ。
分かったらもう仲直りしなさい。」
はぁ?何言ってんだよ。服がなかった?
何ふざけた、訳わかんねぇ事言ってんだよ。
そんな訳…ねぇ…だろ…。
母さんの顔を見て俺の怒りは恐怖へと変わっていった。
母さんは真剣だった。
真剣に、女の子が男の俺のジャージを着るぐらい、一着の服もない。そんな話をしてるのだ。
有り得ない。そんな有り得ない事を、マジに、真剣に、言っているのだ。
これ以上はヤバい。
なにがどうヤバいかなんて分からない。
けど俺の頭の中で警鐘がガンガンと鳴っていた。
もう良い。学校へ行こう。この子の話は夕方にでも聞けば良い。
とにかく今はもう家を出よう。
「母さん、俺も弁当は要らない。
もう学校に行くから。」
俺は朝ご飯も食べずに椅子から立った。
適当に教科書を詰め込んだ鞄を持って玄関に行くと、後ろから「もうすぐ出来るから」と母さんの声が聞こえた。
でももう俺には、弁当が出来るのを悠長に待つような余裕はなかった。
「要らない。」
そんな言葉を「行ってきます」の代わりにして、俺は逃げるように家を出た。