31・舞踏会の夜①
「お似合いですよ、お嬢さま」
ばあやに言われて、わたしは鏡の前でくるりと回った。
鏡に映っているのは、武竜学院の寮の鏡で見る逞しい赤毛のイオアンとは違う、薔薇色の髪のイオアンナだ。
髪と同じ薔薇色のドレスが部屋の灯りを反射して煌めく。
薄い緑色の髪飾りは、窓の外に広がる初夏の新緑を思わせた。
比較対象がユーリアでなければ、まあ、まあまあといったところではないかしら。
今夜は王宮で舞踏会が開催される。
婚約を破棄されたとはいえ、バグローヴィ辺境伯令嬢であるわたしイオアンナにも当然招待状が来た。
一度は断ろうかとも思ったが、招待状が届いたのと同じ日の夜、ユーリアからも密書が届いた。舞踏会には絶対に出席してほしい、そこにはそう書いてあった。
この前──といってもかなり前だけど──彼女が邪神の巫女の娘であるという話を聞いたところである。
ユーリアが来てほしいというのなら、断る理由はなかった。
時間が経ったとはいえ、相変わらず好奇の目で見られるのは覚悟の上だし、ユーリイ国王陛下の婚約者だったころから武竜の話を始めるとそういう目で見られていたので、慣れているといえば慣れている。
武竜学院でもそんな感じだし。
……ううう。みんな武竜が好きで勉強しに来たんじゃないの?
って、貴族の場合は家の相続がかかってるから自分の意思じゃなかったりするものね。
──でも。
なんのための舞踏会なんだろう、ふと思う。
武竜祭(気がつけばもうすぐだ)の近い今の時期に、王宮で舞踏会が催されるなんて異例のことだ。季節ごとの舞踏会なら毎年武竜学院の長期休暇の終わりごろに開催されて、年ごろの貴族子女たちの社交界デビューの場になっている。
あのときのユーリアの言葉が気になるものの、新しい婚約を発表するための舞踏会だという告知はなかった。
あったらもっと騒ぎになっている。
逆に国王陛下の嫁取り舞踏会だという話も聞かない。
手紙で聞いても誤魔化されるし……ユーリアめ。フォマーが言った通り、わたしは彼女を甘やかし過ぎたようだ。
王宮で会ったらガツンと、ガツンと──ユーリイ国王陛下が、気楽なバグローヴィ辺境伯令嬢とは比べものにならないほどの重責を背負っていることは知っている。
やっぱり今回は許してあげよう。
そういえば、あれからフォマーはずっと武竜学院を休んでいる。
食堂で聞かされた言葉の意味がなんだったのかは、まだわからない。
ユーリアの言葉もフォマーの言葉も、今夜の舞踏会へ行けば意味が分かるのかな。
わたしは暗くなっていく窓の外に目を向けた。
「ばあや、お父さまはまだなの?」
「婿さまはおいでになりませんよ」
昔からバグローヴィ辺境伯家に仕えている人間にとっては、家を継いで何年経とうとも、我が家の正統な当主はお母さまであり亡くなったお祖母さまだ。
もし……もしダヴィートが婿に来てくれても、ずっと『婿さま』扱いなんだろうな。
彼のことを思い浮かべた途端胸に湧き起こってきたいろいろな感情を飲み込んで、わたしはばあやに尋ねた。
「あらまあ。ではもしかして、お祖父さまがいらっしゃるの? 王宮で騒ぎを起こさないか心配だわ」
「まさか」
「ふふ、そうね。いくらお祖父さまでも王宮で騒ぎを起こしたりはしないわよねえ?」
「いいえ、お嬢さま。そうではありません。ご隠居さまもいらっしゃいません。この舞踏会の話自体が耳に入らぬよう、お姫さまと婿さまが領地で頑張ってくださっています」
「そうなの? ではわたしがバグローヴィ辺境伯の名代というわけね」
責任重大だ。
「わたしの付き添いはどなたにお願いしたの?」
お父さま、バグローヴィ辺境伯とつき合いのある貴族か彼らの後継者だろうか。
……んん? ちょっと待って。
ユーリイ国王陛下に婚約破棄されたわたしがそんなことをしたら、当てつけのように思われてしまうのではないの?
隣国で革命が起こって、今も国際情勢が混沌としている時期なのに、自国ラヴィーナ王国の国王陛下にケンカを売るような真似をする貴族がいるかしら?
かといって貴族令嬢がひとりで王宮の舞踏会へ行くなんて論外。
第一ばあやが、わたしにそんなことをさせるとは思えない。
いきなり急病で休ませるつもりなら、ドレスや髪飾りを新調したりもしないはず。
「……ばあや?」
恐る恐る顔色を窺う。
ばあやは年を取っても色褪せない美貌に微笑みを浮かべた。
玄関でベルの鳴る音がする。
「お待ちかねの方がいらっしゃいましたよ」
だだ、だれ? だれなの? だれが来たの? だれがわたしの付き添いなの?
もしかしてヴェニアミンさま?
アドリアナ嬢の事件の際に骨折した足はもう完治していて、学校にも復帰している。
舞踏会でダンスを踊るのに支障はないだろう。
でも最近のヴェニアミンさま、なんだか呆けているのよねえ。
フォマーがいないから、ダヴィートが世話役をしている。
……坑道で穢された武竜を見たのが衝撃だったのかな。
わたしもたまに思い出して、悲しい気分になる。
今のところは武竜学院で頑張るしかできることはないのだと理解して頑張っているけれど、相変わらず数学とは仲良くなれないし……
「どうぞ」
部屋の扉を叩く音が耳朶を打ち、わたしはばあやに促されて入室を許可した。
……さあて、だれが、だれが……だれ?
そこには見知らぬ男性が立っていた。
しなやかな体躯をどこか異国風の礼服に包み、黒と見紛うほど深い青の瞳にわたしを映す。
目の前に跪いた彼は、豪奢な帽子を取って優雅な仕草でお辞儀をする。
ドクン、と心臓が高鳴った。
「ご機嫌よう、美しきイオアンナさま。今宵の貴女の輝きには、あの月ですら負けを認めることでしょう。このダヴィート、貴女の付き添いを依頼されたことを一生の名誉として記念に思います」
「ダヴィート?」
「……」
驚きのあまり叫んだわたしは、横のばあやに睨まれて口を噤んだ。
「……こちらこそ。貴方のような素晴らしき殿方に導かれることを光栄に思います」
形式的な言葉とともに差し出した右手を掴まれて、そっと唇を落とされる。
……そうだけど! ラヴィーナ王国ではそういうしきたりになってて、ユーリイ国王陛下やお父さまに付き添われるときも同じことをされてるけれども!
ダヴィートにされたというだけで、なんでこんなに心臓が早鐘を打つんだろう。
そもそもなんでばあやが彼を……ああ、御者が伝えたのね。
上手く伝えてって言ったのに。
ううん、上手く伝えてくれた結果がこれなのね。
そしてばあや……王家に当てつける気ね。
そうね、バグローヴィ辺境伯家に関係する人間の中で、一番お家主義で過激なのはばあやだったわね。……どうしよう。今からでも欠席できるかしら。
「ダ、ダヴィート、せっかく来てくれたのだけど、今夜は……ダヴィート!」
「どうなさいました、我が月光」
なな、なに言ってるの? じゃなくて!
「顔どうしたの? 引っ掻き傷!」
わたしの指摘に、彼はニヤリと笑う。
「なあに。貴女の美しさに惑わされた恋敵との戦いの残り香に過ぎません」
「恋敵?……ヴェニアミンさまにはもう愛想を尽かされてると思うんだけど」
「おやおや。我が月光はご自分の魅力がわかってらっしゃらない。貴女に恋い焦がれる男がふたりだけだとでも?」
ゲンリフは、パーヴェル司教が勝手に言ってただけでしょう?
ダヴィートは片手を上げて、歌うように呟きながら指を曲げ始めた。
「アントン、ヤーコフ、ヨーシフ。それからカルル」
「え……?」
ダヴィートは立ち上がりながら、わたしの耳元で囁いた。
──低くて、甘い甘い声で。
「……もちろん一番あんたを愛している俺の勝ちだったけどな……」
ばあやの眉が吊り上がりきる前に、彼がわたしから体を離す。
「それでは参りましょうか、我が月光」
気がつくと、わたしは差しのべられた彼の手を取っていた。
バグローヴィ辺境伯令嬢が付き添いなしで舞踏会へは行けないし、そもそも欠席なんかできるはずがない。ユーリアが直々に頼んできたのだもの。
でも……だけど。
これから王宮までの間馬車でダヴィートとふたりっきりなのだと思うと、口から心臓が飛び出しそうなわたしだった。




