3・未来の侯爵さまは恋に恋してる?
「……好きなんだ」
連れてこられた裏庭で、ヴェニアミンさまはわたしに言った。
校舎の陰に立った大きな木の下、木漏れ日が彼を浮かび上がらせる。
陽光を集めて紡いだような黄金の巻き毛に、白皙の肌、緑玉の瞳。
物語から出てきた王子さまのように美しい殿方だ。
そりゃあ世界で一番美しいのはユーリイ国王陛下だけど、本当はユーリアで殿方ではないものね。
ヴェニアミンさまの凛とした涼やかな声が、言葉の続きを奏でる。
「私は、バグローヴィ辺境伯のご令嬢、イオアンナさまを愛しているんだ」
そんなことを言われても、どうにも反応しようがない。
だってわたしはバグローヴィ辺境伯令嬢イオアンナであって、イオアンナではないのだもの。昨日から、わたしは武竜学院の新入生イオアンだ。
ユーリアをユーリイに変えたように、わたしは光の竜王姫の力で男性の体になっている。
ラヴィーナ王家に受け継がれてきた武竜は二柱。
傭兵王と契約していた左の竜王姫リェーヴァヤがわたしに同行し、彼の妃と契約していた右の竜王姫プラーヴァヤはユーリアを守っている。
実は二柱の竜王姫の契約者は、ユーリイ国王陛下ではなくわたしなのだ。
わたしの元許婚さまは武竜と契約していない。
できない体質なのだと言っていた。
性別が関係ないのはわたしや傭兵王のお妃さまが証明しているし、光の竜王姫たちがユーリアを嫌っているわけでもない。武竜と契約できない体質って、どういうことなのかしら。
自分がそうでなくて良かったと、ちょっとだけ思ってしまう。
ひとつ年上の彼女が武竜学院に通っていないのは、そのせいだけでなく、王太子のころから多忙だったからだけど。
──バグローヴィ辺境伯家には、百を超える武竜がいる。
どこの貴族も複数の武竜がいて竜将以上の武竜には爵位も付随しているが、十を越える家はほかにない。
我が家は特殊なのだ。
その影響か、わたしは幼いころから、契約してない武竜とも心の声で話すことができた。
普通なら自分の契約している武竜としか話せないのに。
とか言いつつ、お母さまとお祖母さまも同じことができるので、わたしにとっては当たり前のことだった。ちなみに話ができても、契約しなければ武竜の力を借りることはできないし、ほかの人間と契約している武竜とは武器の形のときしか話せない。
契約していない武竜は、最初から武器の形しか取れないんだけどね。
わたしがユーリアと婚約させられたのは、この能力を見込まれたからだろう。
先代国王陛下は、床に頭を擦りつけるようにして、渋る辺境伯一家を説得した。
お父さまとお祖父さまも知らなかったことを先代国王陛下が知っていたのは、わたしがユーリアと初めて会ったとき──それはともかく、
「……ヴェニアミンさま、どうして、それを俺に?」
なるべく声を殺して尋ねる。
いくら光の竜王姫でも、声までは変えられない。甲高い女の子の声のままなのだもの。
わたしの質問に、ヴェニアミンさまは緑玉の瞳を丸くした。
「それは……イオアン。君は周囲に気づかれてないつもりなのかい?」
「えっ」
息を呑む。
もしかしてみんな、わたしが本当は女性だってこと気づいてるの?
武竜学院入学式は昨日で、さっき初めての授業を受けて、今は昼休み。
まだ午後の授業も受けてないのに?
ど、どうしよう!
これをきっかけに、ユーリイがユーリアだってことまで気づかれてしまったら……。
いくらユーリアが勧めてくれたからって、男性の体になってまで武竜学院に来たのは間違いだったんだわ。せめて明日の午前中にある武竜学の授業を受けてから気づかれたかった。武竜学の授業初日は、組中の生徒が自分の契約武竜をお披露目するっていうのに。
でも本当は三カ月先、長期休暇直前の武竜祭までいたかった。
そうしたら、違う組や上の学年の生徒の契約武竜も見られたわ。
武竜にはふたつの形がある。
ひとつは竜鉱石から作られた武器としての形、もうひとつは契約者の腕や足に巻きついた環の形だ。これを竜環という。契約者がだれかを守るときは、相手に竜環を託すこともあった。
そして武器の形で力を使うときの武竜は、滅びた竜を思わせる幻影を浮かび上がらせる。
ああ、見たかったなあ。
硬直したわたしの耳朶をヴェニアミンさまの声が打つ。
「だれにだって、ひと目でわかるよ。君がバグローヴィ辺境伯の隠し子だってことは。そんなにそっくりなんだから」
……そっちかー!
安堵の息を吐いたわたしに、ヴェニアミンさまは不思議そうな顔をする。
うん、そっちなら大丈夫。ちゃんと想定して、設定も作ってきた。
だって武竜の力による変身は、自分で姿を選ぶことができない。
もとの女性の体を覆う武竜の力で勝手に決まってしまう。
今のわたし、イオアンはお父さまの若いころにそっくりな筋肉少年だ。
身長も横幅も目の前の少年よりも高く広く、薔薇色だった髪は燃え盛る赤毛、春の新緑色の瞳は深く暗い緑色、白い肌は浅黒く変わってしまっている。
ユーリアとユーリイは、大きさ以外変わらないのになあ。
視点が高くなったのは面白いんだけど、元の体が覆われているだけなのに、身長が前より頭ふたつ分は大きくなっているのは、どういう仕組みなんだろう。
あー良かった。最初にイオアンナの名前が出てきたから、焦っちゃったわ。
わたし、イオアンは首を横に振った。
「違うのかい?」
「……俺は、父が辺境伯になる前、下町にいたころ作った子ども。母は俺を産んで亡くなったので、婿入り先の辺境伯の領地で育てられた。年齢は妹よりふたつ上の二十歳だ」
貴族の跡取りは十八歳で武竜学院に入学するのが通例だが、平民が竜神教の礼拝堂で偶然出会った武竜と契約する場合もある。
そんなときは十八歳以上でも入学が許された。
十八歳以下のときは、ほかの契約者に弟子入りするか騎士隊の見習いをして入学年齢になるのを待つ。辺境伯領なら、騎士隊じゃなくて騎士団の見習いね。
「そうか。全然噂を聞かなかったな。辛いことを話させてしまったのなら、すまなかったね。……イオアンナさまにつながる人だと思ったら、どうしても気持ちを抑えられなかったんだ。許してもらえるだろうか」
「……出生のことは、かまわない」
うん。この見かけでバグローヴィ辺境伯と無関係だなんて、だれも信じないってわかってる。
「それよりイオアンナ……妹を好きとは?」
ヴェニアミンさまの白皙の肌が朱に染まる。
王宮の舞踏会で何度かお会いした覚えはあるものの、それほどお話しした記憶はない。
「幼いころ、姉のお茶会に招かれたイオアンナさまとお会いしたことがあるのだが」
……なんとなくイヤな予感。
話を続ける前に、ヴェニアミンさまは溜息を漏らした。
「私の姉、ビェールィ侯爵家のヴァルヴァーラについて知っているかい?」
存じております。
心の中でだけ言葉を返し、わたしは無言で首肯した。
「姉は……気が荒くてね」
お、おう。さようでございますか。
身内の表現は容赦ないなと思いつつ、ヴェニアミンさまの言葉を待つ。
「その日も癇癪を起して、お招きしたイオアンナさまに水をかけるという非礼を仕出かしたんだ。侯爵令嬢の自分ではなく、辺境伯令嬢のイオアンナさまが殿下の許婚になったことに腹を立てたんだろう」
「……違う」
「え?」
「……ヴァルヴァーラさま、悪くない。悪いのは、イオアンナ。殿下との婚約を武竜目当てだと正直に言ったから、怒られただけだ」
今はちゃんと、ユーリアも好きですよ?
でも当時のわたしは今より子どもで、武竜のことしか頭になかった。
緑玉の瞳を丸くした後、ヴェニアミンさまは微笑んだ。
「そうか。イオアンナさまは、噂通りの武竜バ……武竜好きでいらっしゃるのだな。武竜学院が女人禁制でなければ、机を並べて勉強できただろうに」
してます。
というか、遠慮なく言ってくださってかまいません。
わたし、武竜バカです。
「話が逸れたね。そのとき、私は武竜好きのイオアンナさまに謝罪したくて、我が家の武竜庫に案内したんだ」
はい、そうですね。
本当はとっくに思い出してました。忘れたかったんです。
ヴェニアミンさまの制服の袖口から覗く黒曜石の竜環が、あのとき飾られていた斧の武竜、大地の竜王でございますね。
ヴェニアミンさまは、幼いわたしの愚行を語り続ける。
「私は病弱で、内気な子どもだった。家臣たちはみな、私を竜神教の聖職者にして、姉に婿養子を取ればいいと陰で囁いていた。だけど、あのとき」
絹の袖をそっと上げ、ヴェニアミンさまは黒曜石の竜環を撫でた。
武竜も人間も複数の相手と契約できるので、貴族の家に受け継がれる武竜は当主と後継者、ふたりと同時に契約していることが多い。後継者のヴェニアミンさまが武竜学院に来ている間、ビェールィ侯爵はべつの武竜と行動しているのだろう。
「武竜は私に語りかけてくれた。契約者、侯爵家の跡取りとして認められたんだ。大好きなおとぎ話の主人公になった気分だったよ」
「……あー、イオアンナ関係ない」
「そうかもしれない。でも私は、武竜の声が聞こえたとお伝えしたときの、あの方の笑顔が忘れられないんだ」
ごめんなさい、もうやめてください。
大地の竜王の幻影が見たかったんです。
さすがにビェールィ侯爵にお願いするのは失礼だとわかっていたから、どうせいつかは契約するのだしと、大地の竜王に跡取りのヴェニアミンさまと契約してと頼んじゃったんです。黒曜石の斧は重いけど、契約したら子どもでも持てるから。
ヴェニアミンさまはすぐ大人へ報告しに行ったので、彼に大地の竜王の幻影を見せてもらうことはできませんでした。
すみません、反省してます。もうしません……たぶん。
「だからイオアン。君、私の姉と結婚して、ビェールィ侯爵家に婿養子として入らないか? バグローヴィ辺境伯家には、私が婿養子に入るから」
「……ヴェニアミンさま」
「なんだい?」
「……イオアンナ、婚約破棄で傷ついている。そんなこと、考えられない」
「わかってる。だから卒業まででいいんだ。二年もあればお心も晴れるだろう。週末の休みのときにでも、ときどきイオアンナさまの様子を探ってくれないか」
「……」
緑玉の瞳が輝いている。
彼の情熱に、わたしは頷くしかなかった。
隣国の情勢が落ち着いて、ユーリイ国王陛下との婚約が蘇ったら、ヴェニアミンさまも諦めてくれるだろう。
本当のわたし、バグローヴィ辺境伯令嬢イオアンナは、さっき伝えたように婚約破棄で傷ついて、王都にある別邸で閉じ籠っていることになっていた。
そういうことにして武竜学院に通ってみたらどうかと、ユーリアが言ってくれたのだ。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「……ふう」
武竜学院は全寮制で、食堂は校舎から離れた寮にしかない。
昼食は寮に戻って食堂で食べる、朝の食堂でパンかなにかをもらってくる、学校から出て町で食べる、のみっつから選択できる。
友達と外で食べるので一緒に来ないかと誘ってくれたヴェニアミンさまを丁重にお断りして、わたしは彼が去った後の裏庭に座り込んで溜息をついた。
まあ、自分が蒔いた種なんですけどね。
それにしても、もしヴェニアミンさまが婿養子に来るとしたら、大地の竜王はどうなるのかしら。同行するんだったら考えてもいいかな。
大地の竜王の幻影は漆黒の鱗を持った逞しい竜で、二本の角を持っている。
あのとき、ヴェニアミンさまに呼ばれてきたビェールィ侯爵がわたしの武竜バカを知っていて、快く見せてくださったのだ。最初から素直にお願いしておけば良かった。




