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28・令嬢救出作戦(後編)

「早く、早く逃げなさい! 早くっ!」


 金茶の髪に緑の瞳、泥まみれのドレスを纏った令嬢が叫ぶ。

 真っ暗な坑道で、わたしの武竜怠け者(リェンチャイ)が浮かばせた炎に照らされたドレスをよく見れば、布を汚しているのは泥だけでなく固まった血液もあるようだ。

 死体で見つかった御者や護衛たちが、彼女を守ったときのものかもしれない。

 護身用の短刀を握り締めて、令嬢はひたすら逃げろと繰り返す。

 よほど恐ろしいものを見たのだろう。

 正気を失っているようだ。


「……シエールィ男爵家のご令嬢アドリアナさまでいらっしゃいますね」


 静かな声で尋ねたのは、令嬢の前に跪いたダヴィートだった。

 その所作は優雅で美しく、武竜学院の作法教師であっても減点のしようがなさそうに思える。

 王宮で育ってきたはずのわたしも、現辺境伯であるお父さまも到底真似できそうにない。


「私はダヴィート。ビェールィ侯爵家令嬢ヴァルヴァーラさまの要請を受けた武竜学院の生徒として、このイオアンとともにあなたさまを救出に参りました」

「ダメです! 先ほども武竜学院の生徒の方たちとお会いしましたが、彼らもアイツにやられてしまいました。私がひとり逃げてきたのは、あの方たちが我が家の御者や護衛のようにアイツに食われてしまわないようにです」


 ダヴィートが冷静に話しかけたのが良かったのか、興奮は収まっていないものの、アドリアナ嬢は意味のある言葉を返してくれた。

 その言葉を聞いて、わたしとダヴィートは顔を見合わせる。


「ほかの武竜学院の生徒……」

「自己紹介をしている時間もございませんでしたが、おひとりはヴァルヴァーラさまの弟君ヴェニアミンさまでいらっしゃいました。もうひとりは小柄な方。ヴェニアミンさまの従者でしたのかしら?」


 ヴェニアミンさまたちのほうが早く彼女と出会ったらしい。

 だけど……やられた?

 アドリアナ嬢は興奮気味に頭を振り乱して、わたしたちに言う。


「アイツはとても危険なのです。早く! あなた方は早く私と違う道へお逃げなさいっ!」

「アイツ……とは? 狂信者たちのことですか? あなたを巫女にするために攫った者たち?」

「いいえ! アイツは人間ではありません。それに……巫女? 私は生け贄にされるのだと言われました。この地下迷宮でアイツに追われ、恐怖という邪気に満たされた状態で食われてしまうのだと……」

「イオアン! ご令嬢をお守りしてくれ。俺は武竜に、一番近い出口を探してもらう」

「……わかった」


 弓を構えたままの姿勢で、わたしはアドリアナ嬢に近づいた。

 男性の作法ではダヴィートに敵わないけれど(淑女の作法なら勝てるんじゃないかと思う、たぶん)武竜とともに戦うことならば互角、だといいな、うん。

 怒鳴られるかと思ったが、アドリアナ嬢はわたしが側に立ってもなにも言わなかった。

 会話をしたことで落ち着いたのかしら。


 ……ううん、そうじゃないわ。


 呟きが耳に入って気づく。

 彼女は両手で自分の顔を覆い、ブルブルと震えていたのだ。


「来るわ。アイツが来る……アイツが」


 アドリアナ嬢の震えが伝染したのか、地下迷宮全体が小刻みに震え始めた。

 地上の王都にまで影響が及んでいないといいのだけれど。

 頭の上から土くれが落ち、前方の複数の道を隔てていた細い柱が折れた。

 そして、彼女の言う『アイツ』が現れた。


「災……霊?」

「……違う」


 ダヴィートの呟きに、わたしは首を横に振った。


 ……許せない。こんなの絶対許せない。


 それは明らかに人ではない。でも死体に邪気が宿った災霊でもない。

 現れた存在は金属を思わせる体を持っていた。

 武竜が宿る武器と同じ、竜鉱石でできた体。

 黄金色の樹木が絡み合って、人間よりもひと回りほど大きなトカゲの姿を形作っている。

 いや、トカゲじゃない。

 翼のない竜の姿だ。

 現れたそれは、ゴトフリート先生が言っていた邪気を与えられて闇の属性となった武竜だった。

 おそらく元は狂信者の使っていた黄金の杖だったに違いない。

 穢されて異質の存在になったのだ。

 いきなり体積が増えるとは思えないので、杖だった竜鉱石が枝分かれして中空の体を編んでいるのだろう。

 空っぽの体を支えているのは、重なっている武竜の幻影。

 紫色で、腐った死体のように見える。

 眼窩は空虚で目玉がなく、大きく開けた口の端からはドロリとした液体が滴っていた。

 いや、その液体は幻影ではない。

 犠牲者の血だ。

 潰された肉片も混じっている。

 編まれた黄金の体の隙間からも垂れ落ちていた。

 ゴトフリート先生は、邪気を与えられて穢された武竜は心が壊れて意識がなくなると言っていたけれど、わたしにはそれの心の声が聞こえた。


(……食イモノ、我ノ食イモノ……)


 誇り高い武竜だったはずのそれは、災霊と同じく永遠の飢餓に突き動かされていた。

 だが心で望んでいるほどには早く動けない。

 紫色の幻影を纏った黄金の体は、狭い坑道にぎゅうぎゅう詰めの状態なのだ。

 わたしはダヴィートに告げた。


「……ダヴィート、あれは……武竜の成れの果てだ」

「そうか、わかった」


 ダヴィートは銀の鞭を腕に巻きつけ、下町でお父さまと一緒に災霊と戦おうとしていたときのように、自分の左足に手を伸ばした。

 これまで見せたことのない、隠していた武竜とともに戦う気のようだ。

 わたしも光の竜王姫(リェーヴァヤ)に呼びかける。


光の竜王姫(リェーヴァヤ)、わたしたちも!)

(ダメじゃ)

(どうして? このままじゃダヴィートが!)

(下町のとき、そなたが言うたであろう? 契約者以外の避難も大切なことだと)

(脱出経路がわかるの?)

(いや、今大事なのは契約者以外の警護じゃな。それに、わらわは浄化が得意ではない。ここで戦って力を使い果たしたら、この娘を救うことができぬ)

(……そうだ、邪悪の鱗! 今すぐ浄化することはできないの?)


 震え続けるアドリアナ嬢の顔色は土気色に変わっていた。

 隣国リョート王国の人間よりも耐性があるといっても、放っておいて良いとはとても思えない。


(今は無理じゃ。この娘は穢された武竜とつながっている。浄化しても鱗から邪気を注ぎ込まれるだけよ)


 わたしは唇を噛んだ。

 銀の弓を構えた手に力が籠る。

 なにもできない自分が歯がゆい。

 だけど今は、アドリアナ嬢がダヴィートと穢された武竜の戦いの巻き添えにならないよう守るのがわたしの役目だ。

 ダヴィートの左足に巻きついていた黄金の竜環がほどけ、ふたつに別れて彼の両腕に絡みついた。

 手首を中心にして円盤に変化する。

 外周が刃となった武器のようだ。

 円盤はダヴィートの腕の動きに合わせて、すうっと上昇していった。

 穢された武竜は狭い坑道で、周囲を壊しながら彼ににじり寄っていく。

 口や体の間から血肉を滴らせながら。

 クルクルと指先で円板を回していたダヴィートが、穢された武竜の首を目がけてひとつを投げた。


(……食イモノ、ジャナイ……)


 首を曲げて避けたところへ、もうひとつの円盤を投げる。

 ふたつ目も避けられた。


「ダヴィート!」

「大丈夫だ、動くなっ!」


 援護をしようと思ってのわたしの呼びかけに、ダヴィートは首を横に振った。

 穢された武竜は頭の位置を戻して、再びじりじりと近づいてくる。

 血と肉の匂いが鼻孔に忍び込み、吐き気を誘う。

 紫色の幻影を纏った黄金の頭蓋骨に当たる部分が、突然体から切り離されて転がった。

 さっき避けられたふたつの円盤が、穢された武竜の背後の壁に当たって跳ね返ってきたのだ。

 ダヴィートは初めからそれを狙っていたらしい。

 黄金の体から、なんともいえない毒々しい色をした煙が立ち昇る。

 邪気だ。

 災霊の場合は、死体に満ちた邪気がどこかで凝固して邪悪の鱗の塊となり、それが体を動かしている。人間の心臓と同じで、それを潰されれば動けなくなる弱点だ。

 そして、倒した後はバラバラになった邪悪の鱗が残る。

 吹き出す邪気は血液のようなもののはずなのだが。

 穢された武竜の首から吹き出した邪気は蠢いて、転がった頭を掴もうとしていた。

 首に弱点がなかったのだとしても、吹き出した邪気があんな風に動くだなんて。

 早く邪悪の鱗の塊を見つけて攻撃しないと。

 しかしわたしが矢を放つ前に、ダヴィートの円盤武器に宿る武竜の幻影が吹き出した邪気を吸い取り、穢された武竜は動きを止めた。

 紫色の幻影が消える。

 転がった黄金色の体が、折れた杖へと変わっていく。


「あ!」


 鈍い音がして目をやると、アドリアナ嬢が倒れていた。

 興奮と緊張、恐怖と疲れが一度にやって来たのかもしれない。

 顔色は土気色のままだった。一刻を争う状態だ。

 左足に手を伸ばそうとしたとき、ダヴィートがこちらを向いた。

 彼はふたつの円盤を拾っていたようだ。


「そのご令嬢の鱗の邪気も吸い取っちまおう。ラヴィーナ王国の人間だからといって、大丈夫ってわけじゃなさそうだ」


光の竜王姫(リェーヴァヤ)、任せても?)

(……そうじゃな。さっき邪気を吸い取ったのを見るに、わらわよりも上手じゃろう)


 心の声で光の竜王姫(リェーヴァヤ)に確認を取ってから、わたしは頷いた。


「……頼む」

「……ああ」


 彼の円盤に宿っていた武竜の幻影は、彼が倒した穢された武竜と同じ紫色の姿をしていた。

 邪悪の鱗から邪気が吸い取られて、土気色だったアドリアナ嬢の頬に赤みが戻っていく。

 もしかしてゴトフリート先生が言っていた、闇の属性になっても心を失わなかった一柱の武竜なのかしら。

 あ、そうか。

 武竜学院に入学して間もなくのころ、もらった水筒の中身が冷たかったのは、この武竜に冷やしてもらったからだったのね。

 竜母さまが氷雪を放ったくらいだから闇の属性にはものを冷やす力があるのだろう。

 いろいろ尋ねたいことはあったものの、わたしは言葉を飲み込んだ。

 今はアドリアナ嬢をここから連れ出すのが最優先だもの。


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