10・蠢く影
「待って」
「へ?」
わたしはダヴィートに駆け寄って、彼の腕に抱きついた。
こうしていたら、振り下ろせない。
「あなたのことだから、なにか理由があるんだと思う。思うけど、子どもを殴るのは良くないわ」
「ど、どなたですか?」
「どなたって……あ」
ダヴィートはイオアンナを知らない。
(あなたにイオアンにしてもらってから、話しかければ良かったかしら)
(女の服がパッツンパッツンになるぞえ?)
武竜が心の声で、呆れたように言う。
……そうでした。
男性の体になると、元の体から外に向けて圧が生じる。
着ている女性の服が内側から押されて、光の竜王姫の言う通り、パッツンパッツンになるだろう。下手したら破けてしまう。というか、そもそも女装の筋肉少年になるし。
ダヴィートは顔を真っ赤にして、わたしから視線を逸らした。
「あの、手ぇ離してくれる?」
「でも……」
「殴らねぇ。殴らないから、その……胸に当たってる」
わたしは慌てて彼の腕から手を離した。
顔が熱い。わたしの顔もきっと、今は赤くなっている。
「えっと……アントンの知り合い?」
「知らない」
殴られかけていた少年が、頭の後ろに両腕を回して飄々と言う。
ダヴィート以外に四人いる子どもたちの中で一番大きく、髪の色が薄かった。
セーヴェル大陸の人間の髪は基本茶色で、色が濃ければ黒か赤、薄ければ金や銀に見えるって感じなんだけど、アントン少年は茶色と金の中間、金茶色って感じかな。
青い瞳をくるくると動かして、不思議そうにわたしを映す。
「おい、どうしたんだ?」
揚げパンの入った袋を両手いっぱいに抱えたお父さまが、わたしたちを覗き込んできた。
ニンニクを効かせた挽き肉の美味しそうな匂いが漂ってくる。
うん、そうだ。閃いた!
「お、お父さまに聞いたの、さっき。あなた、ダヴィートでしょう? お兄さまの手紙でも知っていたから、初対面に思えなくて」
「お兄さま?」
首を傾げるお父さまの足を、さりげなく踏む。
「ぐっ……そうかそうか、お兄さまね。っと、ダヴィートじゃないか」
「バグローヴィ辺境伯閣下。ということは、イオアンナ、さま?」
「そうです、そうです! さまはいりません、イオアンナでいいです」
「いや、それは……」
困惑した顔のダヴィートの横で、子どもたちが口を開いた。
「イオアンナ?」
「イオアンナ」
「イオアンナ」
「イオアニャ」
一番小さな子は、まだイオアンナと言えないようだ。
金茶、赤茶、赤茶、焦げ茶の髪の色。
中間のふたりは双子だとひと目でわかるそっくりぶりだった。
そういえば弟は五人いると聞いていたのに、ここには四人しかいないみたい。
子ども好きのお父さまが目を細める。
わたしも弟か妹が欲しかったなあ。
まあ、騎士団員の子どもたちが、弟や妹のようなものなのだけど。
「おう弟か? 可愛いなあ。……ところでダヴィート、ちょうどいい教えてくれ。一カ月ほど前に、あっちの礼拝堂が焼けちまったんだろ? 併設されてた孤児院のガキどもはどこで世話してる? 大した量じゃないが、この揚げパンを差し入れしようと思ってな」
礼拝堂が焼けた?
ラヴィーナ王国の王都には、地下に眠る邪神の封印を強化するために、竜神教の礼拝堂が多数設置されていた。孤児院や病院、学校などが併設された民の憩いの場でもある。
契約者のいない武竜も保管されているしね。
暗い面持ちで、ダヴィートが首を横に振った。
「どこにも預けられてません。あの礼拝堂の司教さまも孤児院の子どもたちも、火事の炎と災霊の出現で、みんな……」
わたしは息を呑んだ。
こんな町中に災霊が出現するなんて。
ううん、地下に邪神が封印されているのだもの。礼拝堂による浄化がなくなれば、ほかの土地よりも出現しやすいのかもしれない。
お父さまの声が悲しみに包まれる。
「……そうか。王都の情報は、大まかにしか入ってこなくてな。火事と災霊のことは聞いていたが、まさか礼拝堂の人間が全滅していたとは」
お父さまの視線を感じて、わたしはうな垂れた。
一ヶ月ほど前は、婚約破棄されたり武竜学院入学の準備をしたりで、ほかのことには全然気を回していなかった。もっとも国王の許婚のままだったとしても、すべての情報が入ってくるわけではないのだけれど。
ちなみにお父さまはユーリアの秘密を知らない。
婚約破棄については、わたしの武竜好きを満足させるためだと説明している。隣国の革命を理由にしても納得してくれただろうが、ユーリアが言い出したと聞けば絶対文句を言うと思ったので、わたしのワガママだと押し切った。
ただでさえ側にいられなくなる上に、辺境伯のお父さまがユーリアに反感を持っているような状況にはしたくなかったのだ。
そのとき、契約していない武竜とも心の声で話せるということも打ち明けていた。
こちらについては、お母さまやお祖母さまの態度から薄々察していたみたい。
「おじさん」
「おう、なんだ坊主」
「その揚げパン、余ってるなら俺がもらってあげようか?」
すかさずダヴィートの拳が唸る。
あまりの速さに、今度はわたしも止められなかった。
かなり痛そうに思えるのに、アントン本人は全然平気そうだ。
「アントンお前、弟たちの揚げパン食っといて、なに言ってやがる」
「あなた、みんなの揚げパンを食べちゃったの?」
わたしから視線を逸らし、口笛を吹き出したアントンに代わって、ほかの三人が説明してくれる。
「ちぃ兄ちゃん、ひと口だけって言ったの」
「でもひと口で全部食べちゃったの」
「ちゃたの!」
「ダヴィート兄ちゃんがいない間おとなしかったから、油断しちゃったね」
「油断しちゃったよ」
「ちゃったー……」
ふうん。わたしはアントンのほっぺを突いた。
彼の肌は白く、ふわふわのほっぺはリンゴみたいに真っ赤だ。
「お腹空いてたの?」
「当ったり前じゃん。兄ちゃんがいない間、俺が長男なんだもん。弟たちの世話で、毎日疲労困ぱいだよ」
「だからって弟たちから奪うのは良くないぞ。ほら、チビたち食べなさい」
あげる相手がいなかった揚げパンを、お父さまは双子たちに渡す。
それでも残ったので、お父さまは周りの人たちに配り始めた。
「今日は俺の奢りだ。明日からは自分で買ってやってくれよ」
アントンは通行人に混じって揚げパン奪取を試みたが、そこはお父さま、上手く動いてけっして渡さなかった。それを見ていたダヴィートが吹き出す。
「さすがバグローヴィ辺境伯閣下」
「ん?」
ようやく揚げパンを諦めて、アントンがダヴィートに駆け寄った。
「バグローヴィ辺境伯閣下って、俺知ってる」
「そりゃ知ってるだろ、有名人だ」
「こないだ兄ちゃんが言ってた人だろ? バグローヴィ辺境伯閣下の娘を誘惑して、婿養子に収まる計画なんだよな? そうしたらお金持ちになって、揚げパンも食べ放題だって」
「おい、こらアントン!」
空になった袋を手に、お父さまがダヴィートを睨みつけた。
「……それは、どういうことだ?」
「あ、いえ、ただの冗談で……」
青ざめたダヴィートが後ずさったとき、さっきお父さまが話していた焼けた礼拝堂があった方角から男が走ってきて、大声で叫んだ。
「災霊だ! 礼拝堂跡地に災霊が出たぞ!」