1・婚約破棄は突然に。
数多のシャンデリアが頭上で煌めき、王宮の大広間を照らしている。
ラヴィーナ王国の長い冬の終わり、春の始まり。
今宵は、先日先代陛下の喪が明けて戴冠式を済ませた新国王ユーリイのお披露目舞踏会。
ついでにわたし、バグローヴィ辺境伯令嬢イオアンナと、ユーリイ陛下の結婚式が三か月後におこなわれるという報告も兼ねている。
五歳のときに出会って、婚約してから十三年。
ずっと王宮で暮らしてきたし、ユーリイのことは大好きだ。
結婚したからといって、なにかが変わるわけではない。
思いながら、隣に立つユーリイを見る。
銀の髪に紫の瞳、透き通るような白い肌。
幼いころは病弱だったのに、最近はすっかり元気になった。
世界で一番美しい国王陛下が、細く形の良い眉の間に皺を寄せる。……ん?
「イオアンナ」
ユーリイは、苦渋を滲ませた表情で言葉を続ける。
「……君とは結婚できない。婚約を破棄させてくれ」
一瞬で、大広間は沈黙に包まれた。
おしゃべりな貴族たちが、呼吸すら止めてわたしたちを見つめている。
色とりどりの瞳に浮かぶのは、わたしに対する同情と、それを上回る好奇心。
「そうなのですか?」
状況が飲み込めなくて、わたしは首を傾げてユーリイに尋ねた。
もしかして、わたしの国王陛下は、あのことを告白するつもりなのかしら。
「突然のことですまないが、許してもらえないだろうか」
それだけ言ってユーリイは、薔薇色の唇をきっ、と結ぶ。
これ以上話すつもりはなさそう。じゃあ告白はしないんだ。
手袋に包まれたユーリイの細い指が、絹の袖に覆われた右腕に触れている。
えぇっと、今夜の変身はプラーヴァヤにお願いしたから、これはつまり本当の姿でわたしと話したいということね。ふむ、王宮を出て実家の別邸に行けばいいかな?
「かしこまりました、陛下」
わたしは銀の煌めきを放つ白いドレスの裾をつかみ、ユーリイにお辞儀した。胸には紫水晶の大きなブローチ。
最初からユーリイ色に染まっているわたしなんだから、妙な真似をするなら最初から言っておいてほしかったわ。
たぶん、舞踏会の直前に想定外のことが発生したんでしょうけど。
……そういえば、お父さまの姿がなかった。
隣国で大規模な暴動が起きていると聞くから、国境に面した辺境伯領でなにか起こってるのかもしれない。
考えていても仕方がないので、素直にこれからの予定を告げる。
「王宮を下がり、城下にある辺境伯家の別邸へ戻らせていただいてもよろしいでしょうか」
「ああ、かまわないよ」
お辞儀して扉へと歩き始めたとき、甲高い声が大広間をつんざいた。
「おそれながら陛下!」
大広間で一番派手なドレスを着た、ビェールィ侯爵家令嬢ヴァルヴァーラさまだ。
黄金の巻き毛がシャンデリアの光を反射して、眩しいほど輝いている。
最近流行っている踵の高い靴を鳴らして、ヴァルヴァーラさまが国王陛下の前に立つ。
「公衆の面前で婚約破棄だなんて、あんまりですわ。一国の王のなさることとは思えません!」
ヴァルヴァーラさまは、真面目で正義感のお強い方だ。
おまけに感情の起伏が激しいので、ときどき大胆なことをなさる。
子どものころ、お招きされたお茶会で水をかけられたこともあったっけ。
あれは、わたしが悪かったんだけど。
ヴァルヴァーラさまに糾弾されて、ユーリイがわたしに視線を送る。
はいはい。後でちゃんと事情を説明してよ? まさかお父さまが王家に反旗を翻した、なんてことではないわよね。やっぱり隣国関係かなあ。
思いながら大きく息を吸い込んで、
「おやめになって、ヴァルヴァーラさまっ!」
「……イオアンナさま」
「人の心は縛れるものではありません。……陛下、ご多幸を!」
恋物語の主人公になった気分で、わたしは身を翻した。
取り囲む人込みが、左右に割れて道ができる。
衛兵が開けてくれた大きな扉から、廊下へと飛び出す。
「別邸までお送りいたします」
すかさず扉を閉めた衛兵たちが、廊下へ出たわたしに跪く。
ユーリイが手配してくれていたのだろう。
元許婚さまはそつがない。
「……お願いします」
用意された馬車に乗り、わたしは城下の別邸へと向かった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「国王が処刑されて、隣国の暴動は革命になったよ。革命政府が樹立されたんだ」
明朝、城下にあるバグローヴィ辺境伯の別邸を訪れたユーリイが、わたしに告げた。
昨日は夜中まで舞踏会だったから、ユーリイ国王陛下の本日のお仕事はお休みなの。
ううん、ユーリイじゃない。
本当の姿だから、彼女はユーリアだ。
天幕を降ろしたベッドに寝転がるわたしたちは、ドレスを脱いだ下着姿で寛ぎ気分。
お行儀の悪さは承知の上で、大皿いっぱいのお菓子も用意している。
ユーリアがお土産に持ってきてくれた、王室御用達のお菓子屋さんのメレンゲは、わたしの大好物だ。
泡立てた卵白にお砂糖を加えて焼くだけで、どうしてこんなに美味しくなるのかしら。
自分で作ろうとしても、甘い白身焼きにしかならない。
硬くてもろいメレンゲが、口の中で甘く溶けていく。
メレンゲを齧りつつ、隣に寝転がったユーリアに目を向ける。
薄い下着から透けて見える背中には、六弁の花びらが円を描く赤紫色のアザ。普段、男性の体でいるときのユーリイ国王陛下にはないものだ。ないというか見えなくなってる。
「隣国の革命が、わたしたちの婚約破棄と関係あるの?」
素のわたしの口調は、理想的な令嬢とはほど遠かった。
たぶん下町で暮らす庶民の娘に近いと思う。
辺境伯のお父さまは婿養子に入っただけで下町生まれ下町育ちの生粋の庶民だし、王宮に来る前のわたしは、荒くれ揃いの騎士団の宿舎に武竜目当てで入り浸っていたので、これは仕方のないことだ。
それにしても隣国で革命、国王が処刑、か。
辺境伯領は大変だろうなあ。だからお父さまは、昨夜の舞踏会を欠席していたのね。
「うん、目くらまし。隣国の革命政府は貴族制度を廃止したんだ。この国でも革命が起こって身分を奪われるのではないかと怯えた貴族が平民を抑圧したりしないよう、退屈しのぎの醜聞を用意したわけ。自分の娘や一族のだれかが君の後釜に座れるんじゃないかという、期待も与えられるしね」
セーヴェル大陸の最北端にありながら、ラヴィーナ王国は豊かな国だ。
王妃になれば苦労もあるけれど、実家ともども得るもののほうが多いだろう。
「じゃあそれが落ち着いたら、また婚約するの?」
「うん……今の状況のままならね」
本来女性のユーリアが、光の竜王姫の力を纏って男性の体となり、ユーリイと名乗っているのは普通の状況ではない。
「わたしは光の竜王姫たちもユーリイのことも好きだから、結婚もイヤじゃないわ。でもユーリアが国民を騙しているのが心苦しいのなら、女性でも王位を継げるように法律を変えて真実を明かすか、あるいは王位を放棄して麗しの大公に継いでもらったら?」
言ってはみたものの、わたしだって簡単に解決する状況とは思っていない。
王妃の命と引き換えに生まれてきた王女の性別についての先代陛下のウソは、もう真実を明かしてどうこうできる段階を過ぎている。
坂道を転がる石の速度は増大して、だれにも止められなくなってしまった。
シーツの上で頬杖をついて、ユーリアは紫色の瞳に長いまつ毛の影を落とす。
「……そうだねえ」
「ユーリアを責める人がいたら、わたしが国中の武竜に呼びかけて守ってあげる」
「はは、ありがとう。そうだ。武竜バカのイオアンナ嬢に提案があるんだが」
「武竜バカ?……否定はしないけど」
「だよね。さっきも私の名前よりも先に光の竜王姫たちが出てきたものねえ」
くすくすと笑いながらユーリアが持ち出した『提案』は、わたしがずっと夢に見ていたものだった。
ずっとずっと夢見ていた、絶対に叶うはずのない夢だ。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
ここはラヴィーナ王国。
セーヴェル大陸の最北端にある国。
かつてこの大地を氷雪で包んでいた邪神を封印した、傭兵王が起こした国。
傭兵王とともに戦った武竜、竜の魂が宿った武器が生まれ出でる国。
封印された邪神が、今も王都の地下に眠る国──