咲いて、足跡
道草家守先生の「和モノ春花企画」に大遅刻しました!!
「……それで、このD判定の模試の結果をお祓いすれば、成績が上がると思ったの?」
桜の舞う神社で、巫女のお姉さんは呆れたように問いただした。
「は、はい。証拠隠滅にもなりますし……って、あ」
「やっぱりそっちが目的じゃない!!」
巫女さんは手に持った僕の模試をばしん、と僕の胸に叩きつけた。
「模試の結果はちゃんと親御さんに見せる!成績は勉強して上げなさい!!」
痛い。紙じゃなくて、正論が痛い。
「わ、分かってるんです、それは!!でも、少しでも確率をですねぇ……!」
「神社にそんな効能ないわ!!」
「巫女さんがそれを言います!?」
そんな巫女のコスプレしておきながらなんて言い草だ。
「あ、今『巫女のコスプレしてるくせに』とか思ったでしょ」
「うっ」
思っていることを言い当てられて、言葉に詰まる。というか、言われ慣れてるんじゃないか、この人。
「まだ春なんだから、成績なんてどうとでもなるでしょ。こんなオカルトに頼らなくたって」
「分かってますよ。でも、不安なんです。未来のことが、何にも見えないことが」
僕は高校3年生になった。やりたいこともなんとなく見つかって、行きたい大学も決まった。でも、いざ模試を受けてみればD判定だった。
結果が悪かったことは仕方ないと思ってる。
でも、僕は気づいてしまったのだ。自分の思い描いたような未来には辿り着けないかもしれないという、当たり前の事実に。
怖くなった。真っ直ぐに続いてると思っていた僕の道は、途端に真っ暗になって、何も見えなくなった。
だから、頼りたくなったのだ。オカルトにだって。いや、オカルトだからこそ。
「神社を人生相談所か何かと勘違いしてない?まあいいわ、ここまで来たのも何かの縁だし……はい、これ」
巫女さんはお守りのような何かを差し出してきた。いや、形はお守りそのものなんだけど、ところどころ糸がほつれていたりして、少し形が崩れている。
「これは?」
「お守りよ」
見れば分かる。でも、よく見ると、何のお守りなのかが書かれていなかった。
「これはね、ウチの神社で作った『見えないものが見えるようになる』お守りの試作品よ」
うわあ、とてもうさんくさい。
「これを持っていれば午前二時に望遠鏡を覗き込む必要もなくなるわ!!」
「懐メロの歌詞を引っ張ってこないでくださいよ」
「なつっ……ま、まあいいわ。とにかく、これをあげる。迷える子羊にはいい道しるべになってくれるでしょう」
「本当かなぁ……」
巫女さんの顔が引き攣ってるのは何でだろうか。
「ほら、早く帰りなさい。もうすぐ雨が降るわよ。今日の分はタダにしてあげるから」
「雨?今日はずっと晴れの予報じゃ……って金取る気だったんですか!?」
結論だけ述べると、巫女さんの言う通り雨が降った。完全に油断していた僕は、雨に濡れながら畑道を走る羽目になった。
「うわぁ、結構な降りだな」
春の雨は痛いほど冷たくて、僕は雨宿りするために、近くにあるバス停の待合所に潜り込んだ。
木とトタンでできた小さな待合所には、当たり前のように僕しかいなかった。スカスカの時刻表は見てもいないが、夕方5時を過ぎた今から来るバスは、当分ない。
「どうしよう、このまま止まなかったら迎えでもお願いしようかな」
とはいえ、家から歩いて10分ほどの距離で、わざわざ迎えを呼ぶのも気が引ける。僕はしばらく様子を見ることにした。
「雨、強いなぁ」
小さな小屋に、雨垂れがトタンに跳ねる音が響く。不規則に聞こえるその音は、不思議と心地よかった。
ふと、道路を挟んだ小屋の反対側が目に入った。田んぼのすぐ脇で生い茂る雑草の中で、ひとつだけ鮮やかな何かがある。
「たんぽぽだ」
それは、どこにでも咲いているようなたんぽぽだった。どこにでもあるはずなのに、なぜかその鮮やかな黄色が、目に焼き付いた。
たんぽぽに思い入れがあるかと言われれば、全くない。せいぜい、子供の時に綿毛を飛ばして遊んだくらいだろうか。遊ぶものに乏しいこんな田舎では、子供にとってはそれでも十分な娯楽だったのだけれども。
だけど、今までに見たどんな花よりも、そのたんぽぽは美しく見えた。
僕はそれに触れようと小屋から出た。雨に濡れるのも構わず、小さな花に触れようとして――――
「おい、勝手に儂に触ろうとするんじゃない」
後ろから、声がした。
びくっとして慌てて振り返るとそこには、花のように鮮やかな少女が立っていた。
花畑をそのまま映したような和服と、それに不釣り合いな煌めく金の長髪をなびかせながら、少女はただ立っていた。
降り続ける雨に、濡れもせずに。
「ん?お前、儂が見えて――――」
「ゆ、ゆーれいだああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!」
それはもう、全力で走った。大して体育が得意ではない僕だけど、今なら徒競走で一位になれる気がした。
雨は気にならなかった。途中で鞄を置き忘れたことに気が付いたけど、もう止まることはできなかった。
手ぶらで、しかもびしょびしょに濡れながら帰った僕を、母さんは呆れた表情で出迎えた。
鞄を取ってこいと言われたが、必死に否定する僕を見て「じゃあ明日の朝でいい」と許してくれた。幸い財布は制服のポケットに突っ込んでいたので、あの鞄には教科書一式くらいしか入っていない。この田舎であんなものを盗む人などそうそういないだろう。
とにかく、あの夢みたいな出来事をすぐに忘れたかった。春の雨が見せた幻だと、信じたかった。
「いや、まさか幽霊なんて見るとは思わなかった」
当然だけど、僕に霊能力なんて無いし、今まで幽霊を見たことだって無い。
それが、なんだって今日いきなり……。
「いや、気にしない方がいいか」
僕は頭を振って階段を昇った。二階のどこかの窓が空いてるのか、雨の匂いが漂ってきた。音はしないから、雨はもう止んだらしい。
「でもあの幽霊、和服なのに金髪だったな」
あの幽霊は誰だったのだろうか。明治あたりにこっちに来た異人さん、とか……?
「ちゃんとは見てなかったけど、あの幽霊、ちょっと可愛かったかも」
喉元過ぎればなんとやら、早くも不謹慎なことを考えながら自室のドアを開けると――――
「勝手に幽霊扱いするんじゃない。可愛い、に関しては認めるがな」
窓の空いた部屋の真ん中に、少女が立っていた。僕の鞄を持ちながら。
花を映した着物と、煌めく長い金の髪。夕方のときはちゃんと見ていなかったが、その顔つきは可憐な少女のようでありながら、どこか大人びた艶やかさを帯びていた。
部屋には雨上がりの匂いと、花の蜜のような甘い香りが漂っていて、脳の奥が甘くしびれるような、夢のような気分にさせられる。
だけど、僕を真っ直ぐに見つめる、右の黒と、左の蒼、色の違う二つの大きな瞳が、僕の意識を否が応でも現実に引き戻すのだった。
「ゆっ、ゆうれ……っ!!」
「だから違うと言うておるに」
少女の幽霊(本人は違うと言っているが)は、呆れた顔をして僕の鞄をこちらにぽい、と投げ捨てた。というか今日の僕は色んな人に呆れられ過ぎじゃないだろうか。
投げ捨てられた鞄は地面に落ちた衝撃で蓋が開き、内容物が少しだけ散らばった。
その中に、昼間に神社でもらった不格好なお守りがあった。
少女はそのお守りを拾うと、物珍し気に眺め始めた。
「儂の姿は普通のやつには見えないはずなんだがな。これは何やら妙な気を発しておる」
「それ、神社のお守り……って、まさか、『見えないものが見えるようになる』って、そういう事!!?」
未来的なものじゃなくてスピリチュアル的なものかよ!!騙された!!!
「ほう、面白いものを作っとるやつがいる様じゃの」
「そ、そんなことより、あなたは何なんですか!?僕を見つけて、どうするつもりなんですか!?」
「別にどうするつもりも無いわ。ただ、儂が見えるのが面白いから興味が出た、それだけじゃ」
少女は子供のように、にかっと笑った。その姿だけ見れば年相応だとは思うんだけど、明らかにただの子供ではないことだけは確かだった。
「儂のことは、まあまた明日話せばよいじゃろう。それでは、達者でな」
少女は笑顔のままお守りを放り捨てると、後ろにとん、と跳ねてそのまま開け放たれた窓をから落ちていった。
慌てて窓から下を覗き込んでも、そこにはいつも通りの景色が広がっているだけだった。
「なんなの、本当に……」
突然のことに、僕の脳内は混乱しきっていた。これが全部ただの夢だと言われても、信じてしまうくらいには。
ただ、全ては現実だったのだと、床のお守りと花の蜜の香りが告げていた。
放課後、講義の終わりと同時に一目散に教室を飛び出した僕は、その足で昨日の神社を目指した。
鞄には、例のお守りも入っている。
昨日と違って雲一つない晴天の中、巫女さんは昨日と同じように、鳥居の真下で僕を出迎えた。
「あら、昨日の子じゃない。何かあった?」
「何かあった?じゃないですよ!!何ですかこのお守り!!」
「あら、もしかして何かいいことあったの?」
「いい事じゃないですよ!!なんかよく分からない幽霊みたいなのがいきなり出てきて……っ!!」
巫女さんの表情が驚きに変わる。
「え、あれ本当に効果あったの!?……じゃなくて、どうやら効果が出てきたようね!」
「誤魔化すの下手!!未来じゃなくて幽霊が見えたってどうしようもないですよ!!」
「だから幽霊じゃないと言うおるだろうに!!」
その瞬間、例の少女がまるで最初からいたかのように、僕と巫女さんの間に現れた。
「うわあ、出たぁ!!」
「その反応を止めんかい!まったく……」
「あら、あなたは……」
慌てて後ずさる僕に対して、巫女さんは少女を見て何か気づいたようだった。
「安心しなさい、少年。この子は何にも怖い存在じゃないし、幽霊でもないわ」
「え……本当に?」
「ずっとそうだと言っておるのに……」
じゃあ、彼女は何だというのだろうか。
「彼女は、そうね――――『精霊』とでも言うべき存在かしら」
「精霊?」
「そう。太古の昔から、草木や川、自然のあらゆるものに宿っている、人知を超えた自我を持つ存在。それが精霊よ」
ゲームの召喚獣みたいなやつかな。僕の知識ではそれくらいしか思いつかないけど、本当に存在していたとは。
「かつては八百万の神、なんて呼ばれて人と共存してきたって言われてるけど、今では人との交流はほぼ絶たれていて、見える人もごくわずかって聞いてるわ。私も、見るのははじめて」
「そう、なんですか。じゃあ、何で僕は見えるように?」
「それは、お守りが偶然霊気を帯びちゃったから……じゃなくて、私の作ったお守りのパワーが発揮されたからね!!」
偶然かい。もうこの人の言う事あまり信じないことにしよう……。
「それで、この人は何の精霊なんですか?」
僕は精霊――――らしい――――少女に視線を移した。巫女さんの言ってることに反論しないということは、多分本当にそうなのだろう。
「儂はツヅミクサ――――今だとタンポポと言うかの。その花の精じゃ」
「タンポポ……まさか、あのバス停の?」
僕は、昨日バス停で見たあのタンポポを思い出した。確かにあのタンポポは、普通のものとは違う雰囲気があった気がする。
僕の問いに、少女――――タンポポの精霊は、頷いた。
「うむ。まあ、儂は綿毛に乗って新しい花に宿れるから、あの花も儂の一部に過ぎんがな」
つまり、綿毛を飛ばして根付いた全部のタンポポに移れるのか。便利なものだ。
そう納得していると、あっ!、と何かを思いついたようだった。
「そうよ!君、この精霊に悩みを相談しなさいよ!」
「は?」
余りにも突拍子のない提案に、僕は思わず口を開いた。
「この子、見た目は子供だけど精霊だから結構なお年よ。子供の相談くらいちゃちゃっと解決してくれるわ!!」
「そんな無茶苦茶な!第一、本人の許可だってないのに……」
「儂は別に構わんよ。所詮は童の悩みじゃろう?ちょちょいと解決できるわ」
「ほら、よかったじゃない!!」
この巫女さん、何とか方向転換して自分の行いを正当化する気だ……!
「ただし、条件がある」
「条件?」
「うむ。実は儂、昔の記憶を亡くしておっての」
あれ、なんか嫌な予感がする。
「儂の記憶を取り戻す、手伝いをしてもらいたいのじゃ」
なんというか、予想通りの面倒そうなお題が出てきた。
というか、精霊の記憶喪失なんてどうやって治せばいいというのか。
「どうして、記憶喪失に?」
精霊は、目を閉じながら過去を振り返った。
「儂は綿毛を飛ばしながら旅を続けていたんだが、最近花に儂自身とよく似た混ざりものが入り込んでおってな。そのせいで儂の純度が落ちて、記憶が抜けていってしまったのじゃ」
「混ざりもの?」
「うむ。そのせいで、もともと黒かった髪もこの有様じゃ。これはこれでありなんじゃがな」
タンポポに混ざりもの。髪が黒から金。まさか、
「もしかして……セイヨウタンポポじゃ?」
「ん?なんじゃそれは」
「海外から流入してきた別の種類のタンポポです。日本のタンポポと混ざって生態系が変わってるのが問題になってまして」
「なんじゃ、よく分からんが偽物が広まっておるのか」
まあ、本物とか偽物とかそういう話ではないんだけどね……。本人はその認識が一番わかりやすいのかも。そもそも、『海外』の意味が分かるかも微妙だし。
「とにかく、そういう理由で儂の記憶も徐々に薄れておっての。なぜ儂がこうやって旅をしていたのかも忘れてしまったのじゃ」
「だから、旅をしている理由を思い出すために記憶を取り戻したいのね?」
「でも、どうやって?」
「儂がかつて宿っていた花には、それぞれ儂の意識の残滓が残っておる。だから、儂が宿っていた花を探して触れていけば、記憶も取り戻せるじゃろう……その花がどこにあったかの記憶も、薄れてしまったがな」
精霊の横顔は、どこか寂し気だった。儚げで、でもそれすらも美しく見えてしまった。
「僕が……お手伝いできることはあるんですか?」
「手伝ってくれるのか?」
「いや、そもそも僕にできることが無いような気がして……」
そんなことはない、と精霊は笑って僕に顔を寄せた。僕の肩くらいの身長なので、自然と上目遣いのようになって、思わずドキッとする。
「儂は通常だと自分の宿った花の近くにしか動けないのじゃが、お前とはそのお守りのせいで縁ができたようでの」
「それは、どういう?」
「つまり、お守りを持っているお前の近くなら自由に来ることができる、ということじゃ」
「何ですかそれ!?」
僕は慌てて巫女さんを見た。巫女さんも知らなかったのか驚いた表情をしていたが、僕の視線を感じてすぐに自慢げな表情に切り替えた。
「……お守りの効果ね!!」
「嘘だ!絶対嘘だ!!」
「いいじゃないの!おかげで精霊さんの役に立てるんだから!!」
「僕はまだ手伝うとは……!」
「駄目……か?」
精霊が、また上目遣いで僕をじっと見つめてくる。悲しそうな表情で、大きな瞳を潤わせているその姿は、卑怯としか言いようがなかった。
よく考えれば、一応無害だというお墨付きはもらったのだ。助けてあげるくらいは、いいのかもしれない。
それに、その、かわいいし。
「わ、わかりました……手伝います」
「本当か!助かるぞ!!」
精霊の表情が、ぱあっと咲くような笑顔に変わった。何かとんでもない決断をしてしまったような気がするが、もう覆すことはできないだろう。
横で僕をにやにやと眺めている巫女さんの顔は、見なかったことにする。
「まあ、やれるだけやってみます。よろしくお願いします、ええと……」
「ああ、儂に名前はないから好きに呼ぶといい」
好きに呼べ、と言われてもそれはそれで困るもので。
「何か可愛い名前つけてあげなさいよ。『精霊さん』だとかわいそうじゃない」
「うーん、タンポポの別名がツヅミクサなので……『つづみさん』、でどうでしょうか」
「つづみ、か……うむ、悪くないぞ。ではよろしくな、小僧」
花の精霊――――いや、つづみさんは、その名を持つ花のような笑顔で笑った。
「で、とりあえずはここがスタートラインになるわけですか」
予定のない土曜日の朝、僕とつづみさんは最初に出会ったバス停の前に来ていた。あの日と違って、今日は雲一つない晴天だ。まだ四月だし、と思って厚めのジャケットを羽織ったが、この天気だとしばらくしたら暑くなりそうだ。
「うむ、ここからどんどん儂の残滓をたどっていく訳じゃな」
気が付けば僕の隣にいたつづみさんが頷く。
「儂とのつながりがあるから、お前にも儂の残滓を感じ取れるはずじゃ」
「なるほど、そういえば確かに……」
僕はつづみさんとの出会いのきっかけになった、バス停近くのタンポポの花に視線を向けた。あの日のように、そのタンポポは今までに見たどんな花よりも美しく見えた。この違いが、つづみさんの残滓による影響なのかもしれない。
「でも、他にどこにあるかはわかりませんよ」
「安心せい。最近宿った花なら儂がまだ覚えておるし、昔の花でも近くまで寄れば感じることもできる」
「じゃあ、遠くにある古い花の場合はどうすれば?」
「……そこでお前の出番じゃ!」
「あれ、もしかして手探りで探せってこと!?」
思ってた以上に前途多難だった。大丈夫かな、これ。
「ほう、これは心地がいいな」
細い畑道を、自転車でゆっくりと駆けていく。後ろの荷台にはつづみさんが腰かけているが、精霊だからか重さは一切感じない。僕以外には姿すら見えないので、傍から見れば僕が一人で乗っているように見えるのだろう。
「どこまで遠くに行くかよく分からなかったので」
「人間は便利なものを作るのう」
口調もそうだけど、つづみさんって年齢的に幾つなんだろうか。というか、年齢という概念があるのかすら怪しいけど。
「それで、花は近くにありそうですか?」
「そうじゃな、この近くなはずなんじゃが……と、あったあった。その辺じゃ」
つづみさんは後ろから遠くを指差した。近くにある小さな山の登山口の方角だった。
僕は自転車で登山口まで寄ると、そこに自転車を停めてあたりを見回した。ぐるりと見渡して、そして同じようにひと際目立つタンポポを見つけた。
「これですか?」
「おお、これじゃこれじゃ。これが十五個前の代の花じゃな」
「十五年前ですか……まだ僕二歳だ」
「儂にとっては一瞬の出来事じゃよ。さて、行くかの」
「へえ……って、どこへ行くんですか?」
つづみさんは、当然のように登山口の方へ歩を進めていた。
「当然、儂のところへじゃよ。次はこの山の中じゃからな」
「えっ……」
「ほれ、早くそのじてんしゃ?とやらの準備をせんかい」
「いや、この坂は無理……っ!!」
「なんじゃ、人間が作るものも大したことないの。それなら歩いていくぞ」
……僕の体力、保つだろうか。
結局、次につづみさんの花を発見できたのは小さな山の山頂で、山を登り始めて2時間後のことだった。日はとっくにてっぺんを過ぎている。そして僕は、汗だくだ。
「これが儂が辿れる最も古い花じゃ……って何を疲れておる」
「いや、これ、きつい……」
「最近の童は体力が無いのう。儂なんかまだまだ余裕じゃぞ」
精霊だから疲れないってだけなのでは。
「さて、ここからは手探りじゃな」
「ちょ、ちょっと休憩を……」
つづみさんは不満そうだったが、「仕方ない」とつぶやいて休憩を許可してくれた。
僕はリュックからあらかじめ用意していた水筒を取り出すと、蓋を開けて飲み始めた。冷たい麦茶が乾いた喉に沁みる。
「まさか、山の中まで入ることになろうとは……」
「花なんだから山にあって当然じゃろう」
「うっ」
そういえば確かにそうだった。今後もこうやって山に入ったりするのだろうか。安請け合いを少し後悔した。
「……全部終わったら、ちゃんと相談聞いてくださいよ」
「構わんよ。というか、片手間に今聞いてやってもいいくらいじゃ」
つづみさんは「年長者の務めじゃからな」と自慢げに胸を張るが、その姿は小学生の見栄っ張りに見えなくもない。これはこれで可愛いけど。
「それで、悩みとはなんじゃ?」
僕は悩みを話した(とは言っても、つづみさんには大学とか受験とか分からないだろうから、分かるようにかいつまんだけども)。
やりたいことが見つかったこと、そのために行きたい場所があること、そこに行けるか分からないことに気付いて、それが怖いこと。
全部話終わった後、つづみさんは、はぁとため息を吐いた。
「そんな単純なことで悩むとはのぉ。まあ、些細なことで悩むからこその童とも言えるが」
「僕にとっては重大なんですよ。大事な未来の話なんですから」
「たわけ!大事なら、尚更悩んでる暇ではないじゃろう」
「あいたっ」
つづみさんは、その小さい手で僕の額を小突いた。それほど痛いわけではなかったけど、思わず反射的に言ってしまう。
「道が決まっているのなら、そこに全力を尽くすだけじゃろう」
「分かってますけど、そんなに単純にはいかないですよ」
僕だって、何も考えずに前に進めたらどれだけ楽か。
「贅沢なもんじゃ。儂はどこに行けばいいかすら忘れてしまったというのに」
「つづみさん……」
「休憩は終わりじゃ。行くぞ」
つづみさんは登山道の先――――別の麓に続く道だ――――を指差して、そのまま歩き始めた。その横顔が、どこか寂し気に見えた。
再び歩きだした僕たちだけど、空気は少しピリピリしていて、お互いに何かを喋ることはなかった。
道は下り坂になったので多少は楽になったが、それでも大変なことには変わらない。僕は必死に足を動かしながらつづみさんに遅れないように努めた。
そういえば、この山に入るのはずいぶん久しぶりだ。最後に入ったのは小学校の遠足以来だろうか。今よりずっと小さいはずなのに、よくもまあこんな道を歩けたものだ。きっと元気だったのだろう。今の僕には、ないもののひとつだ。
踏み慣らされた登山道のすぐ脇は木やら草やらで一杯だ。たまにキノコらしきものも見えるし、小さな花もいくつか咲いているのが見えた。その中にはタンポポもある。
でも、つづみさんはそれらには見向きもしなかった。それがつづみさんのものではないと、すぐに分かるからだ。
それでも、綺麗だと僕は思った。植物の名前なんてほとんど知らないけど、こうやって自然の中にいるのは悪い気はしなかった。
「何を周りをじろじろと見ておる?そこには何もないぞ?」
つづみさんが僕をジト、と睨んだ。彼女には不真面目に見えてしまったのかも知れない。
「植物が一杯ありますよ。最近山とか行ってなかったので、これはこれで気持ちいいかなって」
「儂にとってはいつもの景色だがな」
「そりゃ、植物ですからねぇ……」
「そうやって目的以外のものを見たりしてるから迷うのじゃ」
「うっ」
そう言われると痛い。
「でも、目的ばっか追い求めてたって疲れるじゃないですか。道中にだって楽しみを求めても、いいと思うんです」
「楽しみ、か……昔そんなことを言われた気がするの」
「言われたって……誰に?」
「誰、だったかな。人だったかもしれぬし、同じ精霊だったのかもしれぬ。顔も、声も、思い出せない」
つづみさんは、小さく笑った。今度は、間違いなく、寂しそうに。
「思い出したら、またその人に会えるといいですね。人だったら死んじゃってるかもしれませんけど、精霊ならまだチャンスはありますよ」
「……そうじゃな」
つづみさんはふっと笑うと、また歩き始めた。僕もそれに続いた。それっきり、僕たちはまた何も言わなくなった。
そうしてしばらく歩いて、僕たちは同時に「それ」を感じ取った。
「「ある!!」」
僕たちは同時に声を発し、そして登山道を落ちるように駆け下りた。疲れは不思議と感じなかった。
そして僕たちは見つけた。ひと際美しく見える、タンポポの花を。
……登山道の、入り口で。
「え、登山道の入り口に一本あって、山頂に一本あって……もうひとつの登山道の入り口に、もう一本?」
二つの登山道の入り口は、自転車で二十分程度の距離だ。ちなみに、今日僕が登山道を歩いた時間は、およそ三時間半に上る。
「山を!!登った!!意味!!!」
僕は叫んだ。今日の旅の意味を。盛大な遠回りの悲しみを。
「あー、そのだな……すまんかった」
つづみさんも流石に申し訳なさそうにしていた。いや、記憶を失ったつづみさんに色々言っても仕方ない部分はあるのだけれども。
「いや、まあいいです……それで、何か思い出せそうですか?」
「おお、そうじゃったそうじゃった……」
つづみさんはタンポポの花に近寄ると、指でそっとその花弁に触れた。
その瞬間、花から淡い光が差し込んで、そして僕の中に何かが流れ込むのを感じた。
『まったく、人間が作るものはまったく度し難い……なんじゃあの鉄の箱は。大きいわ速いわで、全く危険で仕方ない』
『何でここまで来たのかもよく分からんが、儂には山の暮らしの方がしっくりくるわい……儂が見える人間も、いないようだしの』
『ああ、山!!やっぱり山じゃな!!あのよく分からない床は根を張るのにも苦労するし、柔らかい土の方が快適じゃ!!』
『はあ、快適……儂やっぱり山で生きる……』
今のは、つづみさんの記憶?僕にも流れ込んできて……って、つづみさんの顔が真っ赤!!
「今の……見えたか?」
「な、なんのことですかネ……?」
「見たな!!絶対見たな!!!」
今までに見たことのない表情で、つづみさんが僕に迫ってきた。目はつり上がって、明らかに怒っていて、そしてとても恥ずかしそうだ。
「今のは忘れろぉおおおおおおおおお!!!!!!」
「う、うわぁああああああああ!!!?」
僕は勢いよく迫られたつづみさんに押し倒された。これ、他の人からはどういう風に見えるんだろうか。
「忘れるんじゃ。いいな」
「ハイ」
そんなこと当然できるわけないが、僕にはそう言うことしかできなかった。ちなみに現在横に倒れながらつづみさんが馬乗りしており、非常にその、よろしくない状態です。
そんなに恥ずかしいことだったのかな、さっきの記憶……。まあ、なんというか、少し見た目相応の動きをしていたなぁ、とは思う。普段は威厳を出すために大人ぶってるのかもしれない。
「でも、ヒントは得られましたよ。この記憶の前は都市部にいたみたいなので、隣の街にほかの花があるかも……」
「わ・す・れ・ろ!!!」
「は、はいぃ!!」
少し涙目になってる。不謹慎だけど、かわいい。
「まあ、そのなんだ……今日の働きには感謝しておる。次も頼んだぞ」
つづみさんは顔を真っ赤にして、目を逸らしながら、僕にそう感謝を告げた。
素直じゃないなぁ、と思いながら、でもそれが凄く愛おしいと感じてしまった。年上に失礼かもしれないけど。
だから、僕は笑って応えた。
「はい。僕も楽しかったです」
「……そうか」
つづみさんは、今日見た中で一番穏やかな笑顔を見せてくれた。それだけで、今日頑張った甲斐があったのだと思う。
「来週は、街の方に行ってみましょうね」
「だから忘れろと言っているじゃろう!!!」
「――――はい、ありがとうございました」
「少し難しい部分だったが、分かったか?」
「はい、なんとか……また間違えるかもですけど」
「そんときゃまた聞きに来い。――――最近やけに熱心だな。前の模試の結果が効いたか?」
「ええ、それもあるんですけど。なんというか、決意ができたというか」
「決意?」
「はい。道が決まってるのなら、そこに全力を尽くすだけだって」
「……?まあ、やる気があるのはいい事だな。分からないことがあったらいつでも来るといい」
「あの、ですね」
放課後の職員室から退出した僕は、誰もいない廊下で話しかけた。――――いや、正確には誰もいないわけではない。
「なんでずっと僕にくっついてるんですか、つづみさん」
「おや、ばれていたか」
すっ、とどこかからつづみさんが現れた。金の髪が夕日を吸って紅く煌めいている。
「つづみさんが近くにいると、花の蜜みたいな匂いがするんですよ」
「……それは本当か?儂の匂いを嗅いでたのか?変態め」
「えー」
つづみさんは自分の身体の匂いを確かめながら、僕の方をじとっ、と睨んだ。ひどい。
「それで、どうして僕の近くに?というか今週学校の中でもずっと僕の近くにいましたよね」
「む、そこまで気づかれていたか……まあ、花が近くにあればいいと思ってな。それに――――」
「それに?」
「これから相談を受ける奴の生活くらい、少しは知っていた方がいいじゃろう?」
僕は少しおかしく感じて、笑ってしまった。真面目な人なのだと、改めて思った。
「何がおかしい?」
「いや、優しいなと思って」
「たわけ。約束を守るだけじゃ」
「ありがとうございます」
「……ふん」
真っ白な肌がちょっとだけ赤く染まっているのは、夕日のせいだけではない気がした。
「そうだ、次の日曜日は街を見て回りませんか?」
「街をか?」
「はい。きっと、楽しいですよ」
「楽しい、か――――」
思い出せない誰かを思い出しているのだろうか。つづみさんは目を細めた。そうしてしばらくして、小さくため息を吐いた。
「いいじゃろう。ただし、ちゃんと花の捜索もするからな」
「はい。じゃあまた日曜日に」
「ああ。……楽しみに、しておるよ」
つづみさんはそう言って、どこかへ消えてしまった。花の蜜の匂いはもうしない。
「あれ……さっきの誘い方、なんかデートみたいだな」
つづみさんが彼女だったら。そんなことをふと思って、ちょっと恥ずかしくなってすぐにやめた。
「前から思っていたが、この『じどうしゃ』とかいうものは便利じゃな……って、なんで儂の方を見ないんじゃ?」
日曜日の朝、二、三時間に一本だけ来るバスに乗った僕たちは、それに乗って街の方へ向かった。僕は高校行くときの定期券があるし、つづみさんはそもそも見えていないので、お金は全くかかっていない。
(だってつづみさん僕にしか見えてないじゃないですか。ここで話したら変質者ですよ)
「なんじゃ、こしょこしょと小声で話しおって……」
後ろの席の、右隣に座るつづみさんは少し不満気だ。仕方ないじゃない……僕だってあと一年は使うであろうバスの中で変な真似はしたくない。
(なので、これを使います)
僕はバッグから小さい機器を取り出した。友達とのチャットで使っている、片耳に取り付けるタイプのワイヤレスのインカムだった。それを左耳に取り付けてスマホを操作するフリをするとつづみさんの方を向いた。
「……よし、これで携帯で通話しているのを装いながらつづみさんと話せますよ」
「つうわ?なんじゃ、儂と話すのにそんな面倒なことが必要なのか」
「世間体、というやつですよ、フフフ……」
現代社会は、オカルトなんかよりも周りの目の方が怖いのだ。
バスに揺られることおよそ一時間。僕たちは街で一番大きい駅に着いた。なお、一番大きいと言っても少し前にようやく自動改札が導入された程度だし、そもそも僕の地元には駅が無いので僕にとってはあまり縁のない場所だ。
「しかしここは人が多いのう」
もっとも、ずっと山にいた記憶しかないつづみさんにとっては、それでも新鮮に見えたみたいだけど。
「この辺では一番賑やかな場所ですからねぇ」
この辺では。
「しかし人が多いのは苦手じゃのう……草木も少ないし、空気も汚い」
「わかるんですか?」
「儂は草花の精霊じゃからな。草木の好む場の方が調子もいい気がするな」
そうなると、排気ガスとか多い都市部はつづみさんにとってあまりいい場所ではないのかもしれない。
「なんかキツい場所に連れてきたみたいですみません……」
「いや、別に大丈夫じゃよ。慣れれば大したことない。それよりも、今日はどこに連れてってくれるのか?」
「は、はい。えーと、花がいっぱいありそうな公園とか探してきたので、その辺回ってみようかなと」
僕はスマートフォンを取り出して、地図のアプリを展開した。いくつかの公園にピンを立ててある。
「なんじゃ、これは地図かの?」
つづみさんが身を乗り出して僕のスマートフォンの画面をのぞき込んだ。花の蜜の匂いが強くなった。思わずどきっとする。
「と、とりあえず近い場所から行ってみましょう!!こっちです!!」
僕はそれから逃げるようにして歩き始めるのだった。
なんという奇跡かは分からないが、なんと最初に向かった公園につづみさんのタンポポがあった。幸先のいいスタートだ。
「やっぱり一度ここに来たんですね」
「そのことは忘れろと言っているじゃろうが……触れるぞ」
比較的小さい公園の脇の木の木陰に咲いていたタンポポに、つづみさんはそっと触れた。前と同じように、記憶が心に流れ込む感触。
『うーん、綺麗なものといっても何が綺麗かもよく分からぬからの……』
『誰かに相談できれば楽なんじゃが……』
『おや、もしかしてあなたは精霊様ですか?人里に降りられるとは珍しいですね』
『む?お主儂が見えるのか。最近の人間としては珍しいな』
『ええ、皆精霊を見る力を失ってしまいました。私の一族でも、もう見える者はわずかです。恐らくは、私が最後でしょう』
『そういう時代なのじゃろう。――――そうだ、ひとつ訪ねたいのじゃが』
『いかがしましたか?」
『今この近くにある綺麗なものを探しているのじゃが、儂には綺麗という感覚が分からなくてな。何か心当たりはないか?』
『綺麗なもの、ですか……。私の主観でよろしければ、あちらの山の方に最近できた展望台からの眺めは、見事なものですよ』
『そうか、感謝する』
『いいえ、綺麗なものが見つかることを願っています。お気をつけて』
「おお、前と違って非常に有力な情報が得られましたね」
「いい加減忘れろ!!」
忘れられたら苦労はしないんですよ。
でも、これで有力な情報がふたつ得られた。
ひとつは、つづみさんが記憶を失う前の目的が『綺麗なものを見つけること』であるということ。
もうひとつは、『綺麗なものを探しに展望台に向かった』ということだ。
「この辺りで展望台っていうと……この辺かな」
僕はスマートフォンの地図アプリを再び開いた。展望台の場所は歩くと少しかかるけど、路線バスに乗ればそこまで遠い場所ではない。
「ここからならバスに乗って二十分あれば着きますね」
「歩いては、行けるか?」
つづみさんは、いきなりそう提案してきた。
「歩いて、ですか?二時間くらい歩けば、まあ」
「じゃあそっちにしよう。悪いが大丈夫か?」
「僕は大丈夫ですけど……どうしてですか?」
つづみさんは、なぜか恥ずかしそうに目を逸らした。
「花を探したいし――――その方が楽しいと思ってな」
まだ空は青くて、だからつづみさんの顔が赤いのも夕日のせいじゃないとすぐにわかって、だから僕はその提案を受け入れた。
「わかりました。歩きましょうか」
僕たちは歩き始めた。何か楽しいことがあればいいな、と思いながら。
「しかし一週間ほどお前について行ったせいか、『じどうしゃ』を見ても何も思わなくなったな」
「慣れって大事ですね」
『うわっ!!なんだこれは!!?鉄の……箱が……動いて、ってうわぁあああああああ!!!!!!』
「昔はこんなだったのに、立派になって……」
「やめろ、それを見るなあああああああああああ!!!」
『人間がよく分からぬものを食べているが、果たしてあれは美味しいのか……?』
「結局、これは何なんじゃ?」
「ああ、これはハンバーガーですね。食べてみます?……というか、食べられます?」
「食べる必要はないが食おうと思えば食えるぞ。それで、その『ハンバーガー』とやらに挟まっているあれは何じゃ?」
「えーと、牛ひき肉を焼いたものですね」
「儂、動物の肉は食えないからそれ抜きで」
「なんか本末転倒だ!?」
「そういえば、前も思ったが人間の服装は大きく変わったな」
「洋服って言って、外の国から伝わった服なんです」
「ふむ、なんというか……脚を大胆に出している女子が多いの」
「流行というやつですねぇ」
「儂もやってみるかの……どうじゃ、着物の丈を短くしてみたぞ」
「わ、わぁ!!駄目ですそんな!!はしたない!!はしたない!!!」
「ど、どうしたんじゃ一体!!?」
「あ、この公園にもつづみさんの花があるみたいですね」
「みたいじゃな……って犬が!!?儂の花に!!?粗相を!!?」
「う、うわぁ……これ触るんですか」
「この花が大事な記憶を持っていたらどうするんじゃ!!もちろん触るぞ!!」
『な、なんじゃこの犬!!この儂に無礼を……っ!!山にいた動物はこんなことせんかったのに!!や、やめろおおおおおおおおお!!!』
「……」
「……」
「……ぐすっ」
「つ、次行きましょうか!!」
「……色んなところ行きましたね」
「そうじゃな……あの犬め」
「それはもう忘れましょう」
時間は昼を少し過ぎた頃、僕たちはようやく目的の展望台に着こうとしていた。少し高い丘にある展望台に行くためには、それなりに急な坂を登る必要があった。流石に少し息が切れる。
「疲れたか?」
つづみさんが問う。少し申し訳なさそうなトーンだった。
「いえ、大丈夫ですよ」
僕はできるだけ元気そうに応えてみせる。実際、疲れてはいたけどあまり嫌な疲れじゃないというか、スポーツの後みたいなさわやかな疲労感だった。
「それに、楽しいですし」
「そうか。それはよかった」
「つづみさんは、楽しいですか?」
少し考えるような素振りを見せた後、つづみさんは答えた。
「正直、わからない。だが、自分の目的すら忘れてしまえるようなこの高揚感を『楽しさ』と呼ぶのなら――――そうなのかもしれない」
「なら、よかったです」
つづみさんの表情は少し嬉しそうだった。僕もつられて嬉しい気分になって、それから坂を登ることに集中することにした。
まだ四月の半ばだからか、吹き下ろす風は少し冷たい。でも、わずかに瑞々しい春の匂いが混じっていた。僕は少しずつ歩を速める。展望台まで、あと少し。
「見えてきたぞ!!」
つづみさんが、叫んだ。ぱたぱたと駆けるつづみさんに追い付くように、僕も気合を入れて走った。
やがて坂は終わって、小さな広場に辿り着いた。小屋といくつかのベンチがあるだけの、簡素な展望台だ。休日の昼間にも関わらず、僕らの他に人は誰もいなかった。
「わあ……」
小さな展望台からは、この辺り一帯が全部見渡せた。少しずつ赤みを帯びつつある陽の光が、山に囲まれた街並みを優しく照らしていた。
思わず声が出た。この展望台に行くのははじめてじゃない筈なのに、その景色は特別に綺麗に見えた。
「綺麗だな……そうか、これが綺麗か」
つづみさんは、その景色を感慨深そうに見ていた。横顔が陽に照らされて、金の髪が艶やかに煌めいた。
「このあたりにも、つづみさんの花があるみたいですね」
ここに着いた時から、花の気配をずっと感じていた。多分、前に行った時のものだろう。
「ああ、わかっている」
けれど、つづみさんは目を動かさなかった。ずっと、展望台からの景色を見つめていた。
「今は、この景色を見ていたい」
「……はい」
同じ気持ちだった。今だけは、目的とかいろんなものを忘れて、この景色を楽しんでいたかった。
「……あれ、あの辺りって」
景色を眺めていると、街並みの一部が淡く光っているのが見えた。その場所は僕たちが昼間に行った公園に近かった。
「ああ、多分儂らがさっき花を見つけた場所じゃな。あそこは確か……犬の場所じゃないか!!」
「どうしてそこを真っ先に見つけちゃうんですか」
「忘れたいものを、よりにもよって……くくくっ」
「ふふっ」
些細なやりとりが面白くて、僕たちは笑い合った。こうやって無邪気に笑うつづみさんを、僕ははじめて見た気がした。
「お前といると、退屈しないな」
「そう言ってもらえると嬉しいです」
ずっとこうしていたいと、思った。
「さて、景色を堪能したところで、本命と行こうじゃないか」
「……そうですね」
陽はもう傾き始めていた。つづみさんは何事もなさそうにしているが、僕は少し名残惜しく感じてしまった。
「なんじゃ、何を寂しそうに」
「そう、見えますか」
「わかりやすいぞ、お前」
つづみさんが悪戯っぽく笑った。少し恥ずかしくなって、思わず目を逸らした。
「さて、改めて行こうか」
僕たちは気配のする方に向かった。花は、小屋の脇にひっそりと咲いていた。
お互いに頷き合って、つづみさんは花に触れた。今日一日で慣れてしまった淡い光が、僕たちを包んだ。
『これが綺麗なもの、か』
『ああ、そうか。これが「綺麗」なのだな……』
『こんな感情になるのははじめてだ』
『後は、これを伝えに帰るだけじゃな』
『これを、伝える、だけ……』
『伝える――――誰に?』
瞬間、跳ねるように、つづみさんが走りはじめた。
「つづみさん!!」
咄嗟に腕を掴む。細くて白い腕は、震えていた。
「儂は、忘れていたんじゃ。大事な目的を、果たすべき約束を。伝える相手は、今でも待ってるかもしれないというのに、それを忘れてのうのうと遊び呆けていた!!」
「忘れていたんだから、仕方ないです」
「仕方ない、だと?」
つづみさんは振り返った。顔は、怒りと悔恨に満ちていた。
「待ってる相手は、もういないかもしれないんじゃぞ!!その約束をずっと抱えたまま、儂を待っていたのかもしれないんじゃ!!儂は、その相手に、なんてことを……!!」
目から涙がこぼれ、そのままつづみさんは崩れ落ちた。誰もいない展望台に、少女の嗚咽だけが響く。
「……謝りましょう。ちゃんと全部思い出して、それから会いに行って、全部話して、それで謝ったら、きっと許してくれますから。ね?」
つづみさんは、弱弱しく頷いた。いつも見た目以上に大人びて見えたつづみさんが、こんなに小さく見えるのは、はじめてだった。
花を探すために、来た道とは別のルートで駅に引き返す。つづみさんは僕の手を握って離さなかった。僕もその手を引いて、歩き続けた。
花の場所は、なんとなくすぐに分かった。記憶を思い出しつつあるからかもしれなかった。
すぐに花を見つける。つづみさんは、恐る恐るそれに触れた。
『……あれ、髪の色が変わっているな。なぜだろうか』
『まあ、大した問題ではない。約束を果たせれば』
『約束……何だったか?』
『!!今――――約束を忘れたのか?儂が?彼女との約束を?』
『そんな、馬鹿な……』
つづみさんの身体が強張るのを感じた。僕はそのまま手を引くと、次の花に向かった。
『記憶が、思い出せない……!!儂はどこから来た?いや、あの山だ。大丈夫だ』
『早く、綺麗なものを見つけて彼女に伝えなくては。彼女に……』
『彼女って誰だ?』
『いや、大丈夫だ。まだ思い出せる。まだ……!!』
花を、見つける。
『くそっ!!また記憶が……!!』
『急がなくては、約束まで忘れてしまう。それだけは、なんとしても避けなくては……!』
『あれ、約束って――――』
『しっかりしろ、思い出せ!!彼女との約束を!!』
『約束だけは、それだけは……!!』
『嫌だ、忘れたくない!!彼女を、彼女との約束を!!』
『他の全てはいいから、それだけは、許してくれ……!!』
『もう、ほとんど思い出せない』
『儂は何なのか』
『どこからここへ来たのか』
『でも、彼女との約束だけは覚えている』
『それだけで、いい。それだけ果たせれば、それでいい』
『約束――――思い出せない』
『儂は、なぜここにいる?』
『嫌だ、忘れたくない』
『儂の全てを忘れたら、儂はどうなってしまうのじゃ?』
『怖い。怖い』
『たすけて、さくら――――』
『さくらって――――誰じゃ?』
それは、ひとりの精霊が壊れるまでの、残酷な記録だった。
真っ暗な道を、路線バスのライトだけが照らしていた。それに対して、僕たちだけが座るバスの座席は少し眩しくて、ただ俯くつづみさんが透けてしまいそうだった。
「儂は……彼女にどうやって謝ればいいんじゃろうな」
ぽつりと、つづみさんが言った。今までに見たことが無いほど、彼女は弱っていた。
「やることは決まっている。記憶はほとんど思い出した。さくらの場所も、わかる。あとはそこに行って謝ればいい。分かっている。分かっているんじゃ。でも」
つづみさんは頭を抱えた。
「怖いのじゃ。何十年も、いや、もっと永い時も約束を――――彼女を忘れていたことを、どうやって謝ればいいのか、分からないのじゃ。彼女が許してくれるのか、儂をどう思っているのか、それが怖くて仕方ないのじゃ……!」
彼女の弱音を聞くのは、これがはじめてだった。僕の中の彼女は真っ直ぐで、気高くて、そして可愛らしい――――そんなひとだった。
そんな彼女に、僕は何ができるだろうか。
「……道が決まっているのなら、そこに全力を尽くすだけだ。つづみさんは、僕にそう教えてくれましたよね」
それは、今の彼女にとっては厳しすぎるのかもしれない。それでも、それを教えてくれたのは彼女だから。
「だったら、行くしかないんじゃないんですか。行くべき場所が分かっているのなら、その後どうなるのか分からなくても」
「そう、じゃな……。分かっているんじゃ、本当は。でも、分かっているのに、動けない」
つづみさんは上を見上げて、つう、と涙を流した。
「ああ、そうか――――お前も、そんな気持ちだったんじゃな」
そう言うと、つづみさんは静かに姿を消した。煌々と照らされるバスの座席には、僕だけが残された。
あれから、僕はなんとなく寝付くことができなかった。暗い部屋のベッドに横たわりながら、僕はただぼんやりと考え事をしていた。
あの時、僕の答えは正しかっただろうか。もっと別の言い方は無かっただろうか。そもそも、街に連れ出すべきだったのか。考えてみても、分かりはしない。
ただ、あの時事実だったのは、それがつづみさんにとって行くべき道であったということだ。
例えば、そこに辛いことが待ち受けているとして、それでも行くべき道を進まなければならないのだろうか?
そう思ってしまうのは、僕だけなのだろうか。行きたい場所があって、行くべき道があって、そのために辛いことをしなければならないとしたら、それを避けることは許されないのだろうか。
辛いことなんて、苦しいことなんて無ければいいのに。そうすれば、彼女のあんな顔だって見なくて済んだのだ。
ふと、花の蜜のような匂いがした。同時に、背中に柔らかな感触を感じた。
「……何も、言わないでくれるか」
その声だけで僕は全てを理解した。つづみさんが、寝ている僕に後ろから抱きついていた。
昨日までだったら、きっと僕は喜びと緊張で混乱していただろう。でも、今はそんな気分になれなかった。それは多分、つづみさんも。
「今日一日で、たくさんのことを思い出した。さくらという友がいたこと、綺麗なものを見つけるという約束をしたこと、それを忘れてしまったこと……。でも、さくらのことだけが、まだ完全には思い出せていないのじゃ」
さくら。彼女の記憶の中に度々出てきた、誰かの名前。
「彼女は誰なのか。どうして、そんな約束をしたのか――――儂は、それを知らなければならない」
「辛くは……無いんですか」
僕は、それを口に出してしまった。どうしてそこまでするのか、彼女に聞きたかった。
「辛いさ。きっと、明日はもっと辛いと思う」
でも、とつづみさんは続けた。
「それでも、行きたいと思った。会いたいと思った。怖くても、彼女に嫌われるとしても、儂は――――さくらに、会いたい」
「大事な、ひとだったんですね」
「ああ、きっと……いや、絶対にじゃ。さくらは儂にとって、かけがえのない存在じゃった。全てを忘れても、それだけは変わっていないと、儂は信じておる」
僕を抱く力が、強くなった。柔らかさと、暖かさを、僕は背中で感じた。
「明日儂と一緒に来てほしい。儂の記憶を辿る旅の、その最後を――――見届けてほしい。一緒に見てきたお前に、それを頼みたい」
「はい――――必ず、お供します」
僕は、それに応えた。
「行ってきます」
午前7時。僕は母親にそう告げると、玄関のドアをくぐった。
いつもの制服に、いつもの通学鞄。あのお守りも、神社で貰って以来常に持ち歩いている。
いつもより少し早い時間に、いつものバス停に着く。でも、今日はバスを待っているわけではなかった。
「……おはよう」
「おはようございます、つづみさん」
僕は、母に嘘を吐いた。今日僕は、すでに学校に休みの連絡を入れていた。
「行きましょうか」
「ああ」
今日はいい天気だ。山の中を歩くには、制服だと少し暑いかもしれない。
どこへ、という疑問は無かった。多分記憶の大半を取り戻したからだろう、目的の場所の方角はなんとなく分かっていた。
最初に花を探しに行った時と近い、別の山。そこが今日の目的地だ。
「二人で山を登ったのも、懐かしいですね」
「何が懐かしいじゃ。たった二週間じゃろうに」
「それもそうですね」
僕は、極力軽口を言うようにしていた。少しでもつづみさんの気を紛らわせられればいいな、と思っていた。
「……気を遣ってしまって、すまないな」
「なんのことですか?」
「いやー―――なんでもない」
「そうですか」
目的の山の入り登山口で、もう少しだった。少し離れた道では、僕がいつものように乗るはずだったバスが街に向かって走っていた。
「――――お待ちしておりました」
山の登山口には、なぜか神社の巫女さんが立っていた。僕が神社で会った時とは違って、真剣な表情をしていた。
「やはり、儂を知っておったのか」
つづみさんが、そう問いかけた。どういう意味?
「私たちの神社は、古来よりこの地に根付く精霊様を祀り、また精霊様のお言葉を住人に伝え、共存を支える役割を担っておりました。特にこの神社で祀っていたのが、二柱の『ハナノカミ』――――ツヅミクサの精霊であるあなたと、」
「桜の精霊……じゃな」
巫女さんは頷いた。
「ツヅミノカミ様、こちらへ。サクラノカミ様の下へ、ご案内いたします」
登山道はほとんど人が来ていないようで、道が荒れていた。巫女さんはあんな恰好だというのに軽々と登っており、少し尊敬してしまった。なんか別人みたいだ。
……本当に別人なのでは?
「……君、少し失礼なこと考えてない?」
「い、いえ、滅相もない」
この人僕の考えとか分かるんだろうか。オカルトまっしぐらな生活を送っているせいで、否定できなくなってしまったのが怖い。まあなんにせよ、巫女さん本人なのは間違いないみたいだ。
「前も思ったが、お前たちのやり取りは面白いのう」
「あっ……失礼しました、ツヅミノカミ様」
「つづみでよい。儂は仰々しく奉られるようなことは好まんよ。きっと、さくらもそうであろう?」
「――――分かりました、つづみ様」
「様もいらんのじゃがな……」
やがて登山道は分かれ道に辿り着いた。片方は比較的舗装されていて、もう片方は雑草が生い茂っておりほとんど道の艇を成していない。
「こっちです」
巫女さんは迷わず舗装されていない方を選んだ。僕も薄々感付いてはいた。……制服、汚れないといいなぁ。
ふと、あの感覚が僕に飛び込んできた。
「つづみさん」
「ああ、もうすぐじゃ」
僕らの短い旅が、終わろうとしていた。
そこは、山の中腹にある開けた場所で、展望台のように景色を見渡すことができた。
そこにあるのは小さな祠のようなものと、一本の大きな樹だけだった。
「この樹は、もしかして……」
「はい――――桜の樹、です」
言われれば確かに、それはよく見る桜の樹だった。
ただひとつ、この時期にあるはずの緑の葉が一切無いことを除けば、ただの桜の樹だ。
「御覧の通り、もう枯れていますが」
仮に樹が枯れたら、それに宿っていた精霊はどうなるのか。その答えは、今ここにいるのが三人だけということが示していた。
つづみさんは、何も言わずただ枯れた桜の樹を見続けていた。やがてその樹に近づくと、白くほっそりした手をその幹に添えた。
「すまんのう、さくら――――遅くなってしまったな」
その指を静かに下に這わせ、そして根の近くに指が辿り着いた。根のすぐ近くには、小さなタンポポの花が一つ、寄り添うように咲いていた。
光が、僕たちを包み込む。
『……ここは』
『あら、新しい仲間のお目覚めのようね』
『なか、ま……?』
『そう、新しい精霊の、仲間。おめでとう、そして――――ようこそ』
『さくら!!あっちになんかいっぱいいるぞ!!』
『ああ、それは人ね。この近くに住んでいるのよ』
『ひと?儂らと何か違うのか?』
『そうね、違うところもあるし、違わないところもあるわ。ああでも、ほとんどの人は私たちのことが見えないから、変に近づいて迷惑かけちゃ駄目よ』
『そうなのか?わかった!!』
『なあ、なんでさくらは儂みたいに色んな所に行かないんじゃ?』
『私は、あなたと違って動くことができないの』
『そうなのか。なんか残念だな』
『そんなことないわ。代わりに遠くまでずっと見渡すことができるし、それに――――あなたがいるもの』
『そうか?ふふっ』
『ねえ、つづみ。あなたはここを離れて遠くに行こうと思わないの?』
『?どうしてそんなことを聞くんだ?』
『あなたはその種を飛ばして、遠くの場所に行けるわ。あなたが望むなら、どこだって行けるのよ』
『たまに外に遊びに行ってるぞ?』
『そうじゃなくて、もっと遠く――――例えば、あの村のもっと向こうとかよ』
『どうして行く必要があるんじゃ?さくらがいないのに?』
『それは――――』
『ここにはさくらがいる。儂らが見える人もいる。それで十分じゃないか?』
『そう……そうね』
『なあ、さくら。最近、調子悪そうじゃないか?』
『そう、見えるかしら?』
『ああ、大丈夫なのか?』
『私も歳を取ったのよ』
『歳と関係があるのか?』
『ああ、あなたには関係ない話だったわね……大丈夫、すぐによくなるわ』
『なあ、さくら。やっぱり調子悪いんじゃないか?』
『そうね、人でいう風邪みたいなものかしらね』
『大丈夫、なのか?』
『大丈夫よ、そんな心配そうな顔しないで』
『でも、』
『それなら……ひとつお願いしてもいいかしら』
『お願い?』
『何でもいいわ、何かひとつ『綺麗なもの』を見つけて来てほしいの。あなたなら遠くまで探しに行けるでしょう?そうやって見つけてきたら、それを私に見せてちょうだい?それを見れたら私も、きっと元気になるわ』
『綺麗なものじゃな……分かった!!』
『ええ、お願いね――――約束よ』
『ああ、分かった――――約束じゃ』
光が薄れ、やがて景色は戻っていった。
目の前に見える桜の樹には、記憶の中で見たような美しい花も、瑞々しい葉も残っていない。
「ああ……ずっと待っていてくれたんじゃな、さくら」
つづみさんは、ただそこで跪いたままでいた。花に触れていた手で、枯れた樹の幹に愛おしそうに触れた。
「さくら、さくら……ああ、やっと思い出した。大事な、さくら。儂は、つづみは、帰ってきたぞ……っ!!」
大きな瞳から、ぽたりと雫が溢れた。雫はタンポポの花に落ちると、地面に垂れて土に吸い込まれた。
二人は、ようやく再会を果たした。それが望むような形ではなかったとしても。
その時、巫女さんがつづみさんに歩み寄り、懐から一枚の紙を取り出した。
「つづみ様――――サクラノカミ様より、伝言を預かっております」
「さくらが……?」
「はい。一言、『好きな場所で、好きなように咲き誇りなさい』――――と」
つづみさんはその意味が分からなかったのか、表情が固まった。
「どういう意味じゃ。好きな場所で、などと」
握りしめられた小さな手が、とん、と樹の幹を叩いた。
「好きな場所などあるものか。儂の帰るべき場所に、やっとたどり着いたというのに……!!」
ああ、と僕は気が付いた。さくら様が危惧し、そして願ったことが。
「そうじゃ、ないんですよ。つづみさんは、好きな場所をこれから見つけないといけないんです」
つづみさんはずっと、義務とか約束とか、そういうもののために動いていた。それ以外に動く理由を持っていなかったから。
「さくら様は、つづみさんが自分に依存しているのをずっと危惧していたんです。なぜなら、自分の命が永くないことを知っていたから」
「っ!!……なら、儂はここにいる。ここで咲いて、儂の為すべきことを……っ!!」
「為すべきことなんて、無いんです。約束は果たされました。つづみさんは『綺麗なもの』を見つけて、そして帰ってきた。だから、もうつづみさんの目的は、ありません」
「ならば、儂は何をすればいいのじゃ!!」
つづみさんは僕の方を向いた。悲壮に満ちた表情で、目に涙を浮かべながら。
「さくらがいればそれでよかった!!約束があるならそのために尽くせばよかった!!なら、約束も、さくらもいないなら、儂は何をすればいいのじゃ……!!」
僕は精霊という存在に思いを馳せた。
人とは違う存在。
でも、その在り方はもしかしたら、同じなのかもしれない。
さくらさんは言った。『違うところもあるし、違わないところもある』、と。ならば、
「つづみさん。人間は為すべきことなんて無いんです。何のために、何を為すか――――それを全て、自分で決めていかないといけない。そしてそれは、きっと精霊も同じなんです」
生まれはきっと人間とは全く違うのだろう。でも、その心の在り方は、きっと何も変わらない。
「僕だって、自分でやりたいことを決めました。だから、つづみさんも、どこで何を為すか、それを見つける時が来たんです」
「そんなもの……何もない!!やりたいことも、好きなものも、儂には、何も!!」
つづみさんは崩れ落ちた。頭を抱えて泣きわめくその姿は、見た目通りに、ただの小さな女の子でしかなかった。
僕は、つづみさんの目の前に立つと、ゆっくりと膝を折って、目線をつづみさんに合わせた。
「誰だってそうです。僕だってそうでした。やりたいことなんて、簡単に見つかるものじゃない。だから、探すんです」
僕の夢は、いつ見つかっただろうか。思い返せば最近のことだ。
もっと早く気付いた人もいるだろうし、もっと遅い人だっているだろう。
ずっとずっと気付かなかった精霊がいたって、おかしくはないのだ。
「色んなところに行って、好きなこと、やりたいことを探しましょう。そうしてやりたいことが見つかったら、それに向かって動きましょう。全力を尽くして、でも楽しみながら」
「儂に、そんなものが見つかるのか……?」
「見つかりますよ。だって、あなたは僕と一緒に笑っていたじゃないですか。さくら様と一緒に、笑っていたじゃないですか」
「だから安心して探せばいいんです。あなたの過去は、足跡は――――こんなにも咲き誇っているのだから」
僕は開けた景色を見渡した。僕の家の近くやたくさんの畑、その奥には街もうっすらと見える。
その至るところで、ぼんやりした光が見えた。つづみさんの、タンポポがある場所だ。
ぽつぽつと光るそれは、まるで足跡のように、確かな道筋を残していた。
「ああ、そうか。儂は、これから見つけていくのじゃな……」
僕はつづみさんの肩をそっと抱いた。つづみさんも僕の背中に手を添えた。
僕の腕の中で、つづみさんは小さく震えた。
「儂の願いは果たされた。ありがとう……。今度は、お前の願いを果たす番じゃ。じゃが……」
「ええ、なんというか……もう悩みは、解決しちゃいましたね」
「すまんの。儂は約束を果たせんかった」
「違いますよ。つづみさんといたから、悩みを吹っ切れたんです。だから、ありがとうございます」
僕たちは、お互いに必要なものを見つけた。二週間弱の、小さな旅路の中で。
「なんじゃ、もう約束は果たされていたんじゃな」
「はい、だから」
「ああ―――儂のやりたいことを、見つけに行くよ」
つづみさんは笑った。涙の跡は残っていたけど、もう表情に悲しさはない。
「もう、行くんですか?」
「うむ。善は急げ、と言うからな」
名残惜しむように、背中にかかる力が強くなった。僕も、肩を抱える力をそっと強くした。
「全力を尽くして、ですね?」
「楽しみながら、じゃろう?」
僕らは抱き合いながら、笑い合った。
「それではな」
「はい。いつか、また」
それで十分だった。
僕の腕の中で、光が弾けた。
小さな光の粒たちが、綿毛のように風に乗って空を舞っていった。
僕はそれを最後まで見送った。花の蜜の匂いだけが、残っていた。
「……随分とあっけないお別れだったけど、あれでよかったの?」
全てを見届けた後、横で黙って見守っていた巫女さんが問いかけた。
「多分、いいんです。変に名残惜しむと後から辛いですし、それに」
「それに?」
僕は、光の粒が流れていった方角を見つめた。顔はきっと、笑っていた。
「僕たちはお互いの前に進むことができたから。一緒にいることよりも、それが大事なんです」
―――――――――――――――――――――――――――――――――
「いい部屋だなー」
小さなワンルームには、段ボールが所狭しと並んでいた。僕は極力それを見ないふりした。
幸いベッドはすでに用意してある。今日は程々にして、また明日からやればいいだろう。
「やっぱり都会は景色が違う」
僕は部屋の奥にある窓を開けて、ベランダに出た。地元の部屋とは違って、いたる所で背の高いビルが並んでいるのが見えた。
改めて、自分は今までと違う場所に来たのだと実感した。
あの不思議な出来事から、もうすぐ一年が経とうとしていた。
僕はなんとか志望校に合格し、春から大学生となる。
志望校は都会の方にあったので、晴れて一人暮らしというわけだ。
「全力を尽くす、か……」
多分、僕は全力を尽くした。だからここまで来れたのだろう。
そしてこれからも、全力を尽くしていくのだろう。夢を叶える時まで。
「つづみさん、元気かな」
僕はポケットからほつれたお守りを取り出した。
あれから僕は、一度もつづみさんと会っていなかった。きっとやりたいことを探すために、色んな所を巡っているのだろう。
寂しくないと言えば噓になる。でも、お互い頑張っているという証拠なのだから、それは歓迎すべきことなのだろう。
だから、僕のやることはもう決まっているのだ。
「つづみさん――――僕はここで、全力を尽くしますよ」
もうじき桜も咲くだろうか。楽しみだ。
花の匂いが、風に乗って届いた。
「――――楽しむことも、忘れるなよ?」
懐かしい声が響いた。慌てて後ろを振り返る。
「どうして、ここに……?」
春の風に乗って、金の髪がさらさらと流れた。
大きな瞳と、ほっそりとした白い四肢。
服装は、和服から今風の女性の洋服になっているけど。
「元気にしておったか?」
その姿は、紛れもなくつづみさんだった。
「前にも言ったが、そのお守りのせいで儂とお前には縁が出来ておる。今までは儂が自重していただけじゃ」
つづみさんが照れたように笑った。
「そういえば、その服……」
「ああ、あれから色んな精霊やら人間に会ってな。ふぁっしょん?とかいうのも学んだのじゃ……似合っておるかの?」
顔を赤らめて上目遣いする姿の破壊力は、相変わらずだった。
「え、ええ。とっても似合ってますよ」
「ならよかった」
「それで、どうしてここに?」
つづみさんは後ろを向くと、ぽつりと話し始めた。
「この一年、儂は街や山、色んな所に花を咲かせ、色んなものを見てきた。どれも新鮮で、面白く、楽しいものじゃった」
じゃが、と僕の方に振り向いた。金の髪とロングスカートが、ふわりと舞った。
「儂にとって、お前といたあの二週間足らずが、何よりも楽しかったことに気付いたのじゃ。それはきっと、お前がいたからじゃ」
「僕と、一緒が……?」
顔が熱を帯びるのを感じる。恥ずかしさと、嬉しさで。
僕だって、あの二週間ほど楽しかったことは人生でなかった。同じ気持ちでいてくれたのなら、それはとても嬉しいことだ。
「さて、早速じゃがこの近くの精霊に会いに行くぞ。善は急げ、じゃ!!」
「ええ、急すぎません?」
「全力を尽くすんじゃろう?」
つづみさんは僕の手を引くと、玄関に向かって駆けだした。僕は何とか靴を履いて玄関のカギをかけることに成功した。
「それは、楽しいことですか?」
「ああ!!」
「ならいいです」
「うむ!」
僕たちは二人で、見慣れない道を走り始めた。花の蜜の匂いと春の匂いが、混じって風に乗って飛んでいく。
「つづみさん、それで結局やりたいことは見つかったんですか?」
「やりたいことか?いや、全く見つかっておらん!!」
思わずずっこけそうになる。そんなあっけらかんに言われるとは思わなかった。
「えー」
つづみさんは走りながら僕の腕をぎゅっと掴んだ。その顔には、花のような笑顔が咲いていた。
「でも――――誰と一緒に行くかは、見つかったぞ」
みゆはん『ケセランパサラン』を聴きながら。