◆9◆ ファーストトラップ
ただ、柔らかかったことだけは覚えている……。
息が苦しくなって気が付いた時には、もう何分か経っていたと思う。現実的に言えばそんなに呼吸をしていないわけがないのだけど。
心臓が止まっていたのか、時が止まっていたのか……。どちらもありえないのにそんな錯覚にすらなった。
手が冷たい気がする。熱い気もする。顔色は真っ赤だと思う。いや、真っ青……?
とにかく、時が動き始めたのは、視聴覚室の扉がガラガラと音を立てた瞬間だった。
ついでに私の純情も、ガラガラと音を立てて崩れていった……。
「おやおや? 菜々ちんてば今日も速いねぇ! 」
「志緒、うちらが遅いだけだってば」
「あー、そっかそっか! 気にしない気にしないー! 」
「謝ることもたまにはしなさい! ごめんねぇ菜々香ちゃん、志緒に悪気はないんだよ? 」
入って来たのは、今朝下駄箱で会ったツインテールの志緒先輩と、その隣には細身でジャージの似合う、ふわふわ天然パーマのプードルみたいな髪の男の子だった。
ジャージの色からするに、志緒先輩と同じ二年生と思われる。かわいらしい少年……というか、これが男の娘ってやつなのか? 中性的な、ほぼショタ系の男の子に見える。制服ならまだしも、少なからずこのジャージ姿ではショタ系に間違えられても文句は言えないだろう。
二人仲良く話しているけど、どう見てもロリコン系の志緒先輩と並んでいると、ロリ&ショタコンビ……。
って、観察してる場合じゃなくてっ!
石化の魔法をかけられたかのような私には、今この現実が受け止めきれずに硬直が解けない。キャッキャとボケツッコミを繰り広げている先輩たちの空気が、私だけを取り残してファンタジーな別空間に見えた。
何なの? 確かに今、氷堂さんに不意打ちでキスされたよね? 錯覚……なの?
もし錯覚でないとしたら、氷堂さんも先輩たちも、なぜ誰一人この状況をおかしいと思わないの?
直視出来ないものの、かろうじて視界に入る氷堂さんは、当事者にも関わらず、涼しげな顔で先輩たちのお戯れを見守っているし……。
「あ、志緒たちが言ってた何とかちゃんってこの子? うん、噂通り、イメージぴったりだね」
「違うよガイちゃん! 何とかちゃんじゃなくて、御影こねこちゃんだってばぁ。ね、ね? かわいいでしょ? 」
「うんうん、かわいいね! でも志緒より幼いってのは大げさだな。どう見ても志緒の方が幼稚だよ」
「うるさいなー! あたしだってガイちゃんくらい背が高かったらお姉さんに見えるもんっ! それに、菜々ちんが一年生のくせに大人っぽいからあたしが子供っぽく見えるだけだよー! 」
「どうかなぁ? 菜々香ちゃんが大人っぽいのは同感だけど、志緒は元々こんなんじゃないか? 」
「こんなんって何だよー! 」
あの……私を取り囲んで盛り上がるの、やめてもらっていいですか? と、声に出したいくらいなんだけど、ちっとも私の発言を聞いてくれる素振りもないし、楽しそうに話しているところには、そんな隙間もない。
それより、朝も志緒先輩に言われたけど、イメージって何? 私、どんなイメージに納得されてるの?
それよりそれより、誰もこの状況を助けてくれる人はいないのーっ?
「志緒ちゃん先輩、ガイちゃん先輩、改めて紹介しますね。クラスメイトの御影湖渡子さんです。今朝誘ったら早速来てくれたんですよ」
「菜々ちん! 誘ったのはあたしだよぉ」
「あぁ、そうでした。志緒ちゃん先輩が渡してくれた入部届け私が預かったので、お昼休みに志緒ちゃん先輩の教室にいったんですけど、いなかったのでクラスの方に伝言して……」
「うん、もらったもらった。おしっこ行ってた間に菜々ちんと入れ違いになっちゃったみたいだね。さっき先生に提出してきたとこー」
「志緒ちゃん先輩、おしっこはダメです。お手洗いって言いましょうね。せめておトイレ」
「そうそう、トイレトイレ! 」
年上を指導してる氷堂さん、やっぱり私と同い年と思えない落ち着き様だな……。
え? え? ちょっと待って? 先生に何を提出したって言った?
「あの……氷堂さん? 私、入部届け返してきてってお願いしたよ……ね? 」
「返してってとは言われてないかなぁ? 渡しておいてって言われたから、代わりに渡しておいてあげたけど? ついでに書き漏れがあったから代筆もしてあげたよ」
「ま、待って待って! 私は入らないから返しておいてって意味で渡したよね? 書き漏れどころか白紙で渡したよね? 」
「えー? そうなの? でももう志緒ちゃん先輩、先生に提出しちゃったんですよねぇ? 」
し、しらじらしいっ! にっこりしてるし! 誤解してたならもっと申し訳ない態度するよね? ものすごく達成感がにじみ出てる笑顔が眩しすぎるしーっ!
逆に志緒先輩が申し訳なさそうにしょんぼりしちゃってるじゃない! ガイちゃんと呼ばれてる先輩に至っては、志緒先輩の慰めに入っちゃってるじゃない!
これじゃあまるで、全ては私の落ち度から始まった「訃のドミノ倒し」じゃないーっ!
「あたしの勘違いだったんだね……ごめんねぇ、こねこちゃん。あたし、てっきり入部してくれるんだと思って先生に提出してきちゃったよぉー」
「まぁまぁ、誰にだって勘違いはあるから、志緒だけが悪いわけじゃないよ。ね? 」
「え……あ、はい……」
流れでうなづいてしまったけど……ちょっと待って? 「だけ」って、私も悪い内の一人に混ざってる? これ完全に氷堂さんの仕組んだ罠だよね?
でも、なんかうなずかないと、私の軽はずみな行動が勘違いを勃発させて、最終的に提出しちゃった志緒先輩が責任感じちゃってる状態が訂正出来ないみたいだから、そうせざるを得なかった。
「志緒ちゃん先輩、私も勘違いしてたので、部長として責任取ります。部長辞めますよ。こんな勘違いするような私が部長を引き受けるのはおかしいですし、みなさんの信頼を無くしてしまったので」
「えー! 責任って、菜々ちんがそこまで思い詰めるようなことないよー! 菜々ちんはしっかりしてるし、ちゃんと信頼してるし、責任取るとか言わないでよぅ! ねぇガイちゃん! 」
「うん、そうだよ。うちらみたいな至らない先輩をまとめてくれてるのは菜々香ちゃんだよ? うちらを見捨てないでよ」
責任感じてる人はそんなににっこりしてないと思うけどー!
先輩たち、絶対氷堂さんの思惑にはまっちゃってるって! 誰もやりたがらないから引き受けたって言ってたし、氷堂さんが部長を辞めたらめんどくさいから、引き止めてくることも計算済みでしょー?
「提出しちゃったのはあたしだしさ、あたしが副部長辞めるよ! 元々むいてないし、こねこちゃんにも迷惑かけちゃったし」
「志緒も菜々香ちゃんも落ち着こうよ。責任取るとか取らないとかじゃなくて、お互いの信頼が壊れてるわけじゃないんだから、今まで通りみんなで仲良くやっていこうよ」
「でもガイちゃん先輩、御影さんはこんな私が部長だから入部したくないんだと思います」
「そんなことないよ! 菜々香ちゃんはがんばってるよ! 菜々香ちゃんが嫌だったら今ここにいないでしょ? そうだよね、こねこちゃん? 」
「は、はぁ……」
こねこちゃんって定着してるんですか? 多分このガイ先輩って人も天然っぽいし、氷堂さんに誘導尋問させられてるのに気付いてないんだろうな……。
その誘導尋問に、誘導回答させられてるのは私ですけど……。
「じゃあ気楽に参加してくれる? 今朝も言ったけど、うちの部は大して厳しくもないし、名義登録だけでもいいから。もちろん、私が部長でも嫌じゃなければだけど……」
入部することに部長が嫌だからとか好きだからとか関係ないじゃないー! 私は部活自体興味ないって言ってるのに、ここで断ったら氷堂さんのことが嫌いだってことに決定されちゃうのっ?
まぁ、部長目当てで読書部に入部した宇未ちゃんの例をあげられたら、それが逆説だと裏付けされそうだし、この罠に出口は一つしかないんだ……。
「入部、します……」
「ほんとぉ? やったね菜々ちん! ガイちゃん! 」
「うん、よかった! これでみんな恨みっこ無しで仲良く出来るね! 」
「よろしくお願いします……」
手を取り合って喜ぶロリショタコンビ……じゃなくて先輩たち。本当に純粋すぎて私の方が申し訳なくなる。
だって、騙されてあげてる私も、氷堂さんの計画に気付いておきながら、二人には黙っているのだから……。
気付いているのは計画だけではない。策士の背中に回している手には、私のお宝が見え隠れしている。それもまた、私が入部したくないと言い出せないように握られた「弱み」だった……。
彼女のファーストトラップに抗う術は、私には無かったわけで……。