◆36◆ファーストライティング
うちのダイニングチェアは、こんなに座り心地が悪かっただろうか。
せっかくの高級寿司なのだろうが、ちっともおいしくない……。ていうか、箸が進まない……。
「どうした? お口に合わなかったかな?」
おっさんの脂ぎったテカリ顔がズイッと近付いてくる。にこにこ笑ったって、余計に気持ちが悪い。
ただでさえ身体が受け付けなかったBL本を読んだ後だというのに……。
アナフィラキシーショックでぶっ倒れそうー……。
おっさんが高級寿司とおしゃれプリンを買ってきてくれた。以前にもあったことなので、そこまでは許せる。だが、おっさんは今、私とママの夕食に加わっている。もしゃもしゃお寿司を食らっている。私がこの異様な光景を許すと思っているのか、この2人は……。
「ことちゃんってば、もしかしておやつ食べ過ぎたの? だからお寿司すすまないんでしょー?」
ワントーン高いママの声も気持ちが悪い。っていうか、胸くそ悪い。
「ちょっと気分が悪いだけだから」
私はそう言って箸を置く。気分が悪いのは嘘ではない。しかし体調が悪いのだと勘違いしたママとおっさんは、「えー」とハモった。
おっさんはママの愛人である。名前は尾木さん。響きが『オジサン』なので、私は以前からギとジの境で発音している。
うちのママは年齢よりも若く見えるし、身内びいきじゃなくても美人さんだ。なのに、なぜこんなでっぷりした薄らハゲのおっさんと付き合っているのか……。この町の七不思議に入ってもおかしくはないだろう。
こんなキモオジなら、パパのほうがよっぽどマシなのに……。
「そっかぁ。ほんとはご飯の後に報告しようと思ったんだけど……尾木さん、言っちゃってもいい?」
ママも箸を置いた。嫌な予感がして、とっさに立ち上がった。まさか再婚したいとか言い出すんじゃなかろうかと背筋が凍った。
「どうしたの? ことちゃん、ちょっとお話があるから座って?」
頬をピンクに染めたママが見上げてくる。おっさんの視線も感じる。イヤだ、聞いてしまったら認めないといけない気がして……。
「ヤダ! 私は反対だからね? だって、パパとも正式に離婚してないじゃない!」
静まりかえったダイニング。メッセージを受信したのか、おっさんのスマホがチーンとひとつ鳴った。
「や、やだぁ、ことちゃんったらぁ。そんなんじゃないわよぉ」
引きつりながら笑うママと、「ねぇ?」と同意を求められて苦笑いするおっさん。違うのか? 本当に違うのか? と疑る私の腕をママが握った。
「そんなんじゃないのよ? お仕事のお話。さっ、座って?」
言われるがまま、再びストンと座る。仕事? 本当にそうなのだとしたら、めちゃめちゃ気まずい……。
おっさんはママの仕事繋がりのおっさんだというのは知っている。なんとなくだけど聞いている。ただ、それを聞いたのは私が小学校低学年の時なので、詳しくは多分聞いていない。
「今度ね、尾木さんの作品で、ママのデザインした服を採用してもらえることになったの」
胸の前で両手を合わせるママ。作品? どういうこと? と私は首を傾げる。
とりあえず本当に仕事の話らしい。お恥ずかしい。気まずい雰囲気をリバースさせないように、私は畳かけて尋ねた。
「どういうこと? おじ……尾木さんの作品ってなに?」
「そっか、湖渡子ちゃんは僕の本業を知らなかったんだね?」
高級寿司をあっという間にたいらげたおっさんが、お茶をズズッと1口飲んでから答えた。
「僕はね、マンガを書いてる人なんだよ。あまり売れていないけどね」
「マン……ガ?」
なんですと?
続いてママも説明し始める。
「売れてなくなんかないのよぉ? ちゃんとシリーズで単行本化だってしてるし、ママのデザインしたお洋服とか下着が載ってるティーン雑誌あるでしょ? あれに連載もしてるんだから」
ぽかんと開いた口が塞がらない私をさておき、2人が謙遜とお世辞の攻防を繰り広げる。どうでもいい。そういう茶番はどうでもいいから……。
「じゃ、じゃあ尾木さんってマンガ家なのっ? あの雑誌のマンガって……」
ティーン向けファッション雑誌『ぷりプリティーン』。集米社から刊行している女子中高生向け月刊誌である。ファッションだけでなく、流行りのスイーツやおすすめイベント情報、アイドルの独占インタビューから占いやランキングなど、陽キャラの話題はここが原点と言っても過言ではない。
オシャレには興味のない私だが、ママが貰ってくるので、ごくたまーに見ることがある。さほど興味のないジャンルなだが1番後ろに掲載されているマンガも読んだことがある……。
「お? 知っててくれて嬉しいねぇ。そう、『ギャルだけど純愛だもん』だよ」
……おっさんが……この脂ぎったキモいデブハゲおっさんが……。
「ペンネームが『いちごマカロン』だから、みんな女性だって勘違いしてるんだよ。あれ、僕」
おっさんはニヤッと笑って自分の鼻を人差し指でちょんちょんした。あれ、僕。あれ、僕……。その信じがたい言葉が、私の脳内でリフレインする……。
し、信じられない。アンビリーバブルだ。なにかの間違いだ。悪い冗談だ。このハゲ散らかしたおっさんが、いちごマカロン先生なわけがない……。
「それでね、今度、ママのお洋服とコラボして『ギャル純』のイメージスナップを撮るの。そのモデルをぜひことちゃんにって尾木さんが言ってくれて。ねっ?」
めまいでぶっ倒れそうな私に気付いていないのか、ママはテンション高くおっさんと頷き合っている。ダメダメ、なんかものすごくものすごいことを発案されてる気がするけど、何十メートルも先から話しかけられているように声が遠い。
「ことちゃん? 聞いてる?」
ママに呼び戻されて我に返った。自覚的には白目をむいていたかもしれんと思っていたが、2人の顔色からすると、昇天顔にはなっていなかったようだ。危ない。いや、いっそそのままゴーゴーヘブンでもよかったが。
「も……なんて?」
クラクラする頭を両手で支えつつ、私は聞き違いを願いながら尋ね返した。
「モデルよぉ。主人公の夢ちゃんの!」
「も、モデル……」
意味は知っている。モデルとはあれだ。スラッと背の高くてお顔の小さい女子が、かわいい服を着てポーズをとるんだ。そんなことはちんちくりんでペチャパイな私だって知っている。
「ま、待ってっ? 夢ちゃんてバリバリギャルの女子高生でしょ? マンガだとスタイルもよくてメイクもバッチリで、髪だって茶髪で……。まるで私と正反対じゃない!」
そう、夢ちゃんは校内ナンバーワンのバリギャルだ。私は数話しか読んだことがないのでストーリーはうろ覚えだが、派手な夢ちゃんが昔から片思いの地味な武蔵くんをどう攻略するかという内容だったはず。
どちらかというと、私は武蔵くんでは……?
「そうなんだけど、湖渡子ちゃんには中学生時代の夢ちゃん役をやってもらいたいんだよ」
言いながら、おっさんはやたらデカいバッグの中から、学校でも見たことのあるスケッチブックを取り出した。「えっとねぇ」とパラパラめくり、その中の1枚のイラストをこちらに向けてきた。
ショートで黒髪。胸は未発達。背も低くてちんちくりん。セーラー服を着ているのでかろうじて中学生と分かるが、これが私服だったら小学生と思ってしまうだろう。
それは、まさしく私だった……。
「これはね、中学時代の夢ちゃん。回想シーンで出てきてたの覚えてないかな? 夢ちゃんは昔、ものすごーく地味な子だったんだよ」
地味……。
「全部読んでないんで……」
「そっか。あ、別に湖渡子ちゃんが地味だって言ってるわけじゃなくて、飾らない雰囲気が昔の夢ちゃんのイメージぴったりだなーと思ってね」
いや、言ってますよね? 地味って言ってますよね? ものすごーく地味な子のイメージとぴったりって言っちゃってますよね?
錆び付いた頸椎を無理矢理ギコギコ回し、恨み顔をママに向ける。さすがのママも私の抗議を察したらしく、慌てて弁明し出した。
「だ、大丈夫! ことちゃんが着るのはこのセーラー服だけじゃなくて、もちろんママのデザインしたきゃっわゆーいお洋服も着るからっ」
「……そういうことじゃない」
「撮影にはママももちろん行くわよぉ? ことちゃんはなーんにも心配しないで、ただ指定されたお洋服着てスナップ撮られるだけだからぁ」
にこにこはしているが、若干目が泳いでいるママ。娘が地味だと言われてどう思っているのだ、この美魔女は。
「タダでとは言わないよ? もちろんギャラと御礼はさせてもらうから」
横からおっさんが追い込みをかけてくる。「これは前金代わりの……」と言いながらバッグから更に何かを出してきた。
ポンッと私の前に置かれたのは1冊の単行本。物で釣ろうったってそうはいか……。
「こ、これ!」
思わず大声を上げてしまった。手に取ってまじまじと表紙を熟視する。
タイトルは丸っこい文字で『ウザい私が大好きなくせに』と書かれている。そのタイトル通り、そっぽを向いて嫌がる女の子を、もう1人の女の子が後ろから抱きしめて覗き込んでいる。しかもパジャマだ。もっと言うとネグリジェだ。抱きしめている片手は右乳に被ってないか? だってほっぺピンクだぞ?
これは……!
「来月発売の、僕の新刊だよ。今度ね、女の子同士の恋愛を書き始めたんだ。中学生にはまだ抵抗あるジャンルかもしれないけど、これからの時代は……」
おっさんはまだ何か言ってる。でも耳が閉店し始めたので声が遠くなっていく。
おっさん、尾木のおっさん! いや、尾木さん! いやいや、いちごマカロン先生!
これは……これは百合マンガではないですかーぁ!
おっさんが百合をファーストライティングですとーぉ!




