◆26◆ ファーストミッション
角を曲がったところで足を止めると、大きなため息が一つ出た。何してるんだろう私……美空さんへの嫉妬と嫉妬する自分への嫌悪感で吐き気がしそう。呼吸する度に五月の生暖かい空気が身体に入ってくる。言葉通り身も心も行き場がなくて、これからどうしよう、そんなもやもやを抱えながら五月の風を吐き出した。
蒼さんとの約束を守る為にも、美空さんはこの後登校するはず。テストも近いしねって言ってたけど、そんなの私だって分かってる。中学入って初めての中間テストだもん、頑張らなきゃいけない事だって分かってる。
だけど、じゃあ、私が頑張って登校して頑張っていい点取れたとしたら、誰か褒めてくれるの? そんな人誰もいない。別に褒められたくて勉強してる訳じゃないけど、誰かに認められたいって思いはどこかにある。私も自分自身を褒めてあげたいし認めてあげたい。でも、自分だけじゃ……寂しいよ……。
「あなた、あの子の友達?」
「……え、あ、えっ? 私、ですか……?」
角の電信柱にもたれ掛っていると、後ろから声が聞こえた。声の主が私に問いかけている事に気が付いて振り返ると、色白の綺麗なお姉さんと目が合った。周りを見渡しても私以外誰もいない。改めてお姉さんの方を見ると、にっこりと微笑んだ。穏やかな、気品溢れる雰囲気が漂っている。急に話しかけられた事にももちろんびっくりだけど、びっくりする程綺麗な人だったのもあって、思わず目をぱちくりさせてしまった。
「あら、ごめんなさい。急に聞かれてびっくりしてしまったわよね。同じ制服だったし、さっき話していたのを見かけたから、お友達かと思って……違ったかしら?」
「い、いえ……友達……だと思います……」
「そう、良かった。それじゃあこれ、渡しておいてもらえるかしら?」
お姉さんが差し出してきたのは、黄色い定期入れだった。私はそれを一度受け取ろうと手を出しかけたが、ふと不思議に思って手を止めた。どうしてお姉さんは自分で渡しに行かないんだろう? 美空さんはこの角を曲がればすぐそこにいるのに、と。
「いえ、その……ごめんなさい。今はちょっと渡せないっていうか……」
「そうなの? 困ったわね、わたしもあの子に渡せないのよ……。今すぐでなくてもいいから、お願いできない? 中に定期かICカードみたいな物が入っているのよ。ないと困ると思うわ」
「……分かりました……お預かりします……」
「ありがとう。お願いね」
そう言ってお姉さんは渋る私の手を取り、黄色い定期入れを握らせた。冷たくて白い指先に触れて心臓が跳ねる。こんなに暖かそうな人なのに、その細い指先は驚く程冷たかった。どうして渡せないのかと聞きたかった気持ちもあったけど、聞いてはいけないような気もして口にできなかった。
「……はい」
「あなたのお家もこの辺りなの?」
「そう……ですけど……」
お姉さんは顎に人差し指を当てながら、私の全身をゆっくりと眺めた。少し嫌悪感を感じた私が半歩後ずさると、一通り眺め終わってからお姉さんが口を開いた。
「あ、ごめんなさいね、じろじろ見てしまって。その制服が懐かしくてつい……」
「い、いえ……卒業生、なんですか?」
「えぇ、一昨年まで通っていたの。卒業してからは引っ越してしまったから、この辺りに来る事もあまりなくてね。それで懐かしくてつい」
「一昨年……?」
ということはお姉さんは高校二年生? セミロングのゆるふわヘアも清楚な水色のワンピースも大人びていて、大学生くらいかと思っていた。よく見ると手元には見た事のあるバッグ。それは形状こそ違うものの、さっき蒼さんが肩にしょっていたバッグと同じ校章が刺繍されていた。高校生ってこんなにも大人に見えるものだろうか。それともこのお姉さんが大人びてるんだろうか。どちらにしても、そのスクールバッグを持っているという事は高校生に違いない。
「あの……この定期入れ、どこに落ちてたんですか? 美空さんに……彼女に渡す時に、その……」
「……そうね、成海さんのお宅に落ちていた、と伝えてくれたら分かるはずよ?」
「成海……さん、ですね。分かりました。今日は渡せないかもしれないけど……ちゃんと返しておきます。……それじゃあ」
「あ、ちょっと待って?」
お姉さんは立ち去ろうとする私の手をそっと握り、顔を覗き込んできた。二重瞼の大きな目をぱっちりと開けて私の顔をまじまじと見ている。また見られてる……その異常な拒否反応で思わず眉を顰めた。
「……なん……ですか?」
「お名前、聞いてもいいかしら?」
「名前? 私の……ですか? 御影……湖渡子です……」
「御影湖渡子さんね。ご親切にありがとう。……わたしね、家庭教師のアルバイトを始めようと思っているの。もし湖渡子さんのお友達で家庭教師を探してる人がいたら、ここに……連絡くれるかしら? 湖渡子さんのご紹介だと伝えてくれれば話が早いから」
お姉さんはそう言って手帳の片隅にさらさらと携帯番号らしき数字を書き、ちぎったそれを私の手の中へ収めた。そしてその手で私の頬をスッと撫で、にっこり微笑んだ。穏やかな中にどこか冷えたものを感じる、どうしてもその印象が強く頭にこびり付いていた。
「え、え、あの……」
「ごめんなさい。綺麗な肌だったからつい……。あなた、とってもいい目をしてるわ。将来素敵な女性になるでしょうね」
「……へ?」
「それじゃあ、あまり遅刻しないようにね? さようなら」
「あ……はい……さよう、なら……」
ぽかんと口を開けたままお姉さんの背を見送った。ものすごい美人な人に「素敵な女性になる」と言われ、照れ臭いような、でもそんな胡散臭い言葉を信じていいのか分からないような……。どちらにしても悪い気はしない。あんなお姉さんみたいな女性になれたらな、という誇大妄想まで過ぎってしまった。
私の手の中では、美空さんの黄色い定期入れと、お姉さんの電話番号が書かれた紙切れが汗をかいている。汗をかいているのは私の手、か。返さなくてはならないミッションだけでも緊張しているのに、お姉さんの電話番号を……。友達に家庭教師を? まず友達がいない私には、お姉さんに紹介できるような友達はいないから無謀なミッションなんだけど……。
家庭教師かぁ。あんな美人なお姉さんが家庭教師だったら、それこそ百合本ならいちゃいちゃイベントでキャッキャウフフでラブラブでアーレーで……ってなるよね。おいしい家庭教師ものの百合小説が連載三十話くらい出来上がっちゃうよね。ああいうタイプのお姉さんはそうだなぁ……もっぱら『攻め』というより、誘ったり引いたりを繰り返して翻弄させる『誘い受け』が合ってるなぁ……。
あぁ、おいしそう……。百合本読みたくなってきた。このまま二駅先の本屋さんまで買に行っちゃおうかなぁ……。ここに美空さんのICカードあるし、ちょっと電車代くらいなら……。
美空さんは何でも持ってるんだもん、ちょっとくらい私にお裾分けしてくれてもいいよね。ファーストミッション、クリアしなくてもいいよね……?




