◆18◆ ファーストティアー
昨夜は結局、氷堂さんが届けた台本に目を通すことなく寝た。もちろん、お宝天使さんたちすら読めていない。それほど私は疲れていたのだ。心身共に。
もやもやは朝になっても消えず、ママに会いたくないなぁと思いながら部屋を出たが、すでに気配はなかった。仕事? デート? どっちでもいいけど鉢合わせなくてよかった。
テーブルにはマーガリンとイチゴジャム、それと平べったいホットケーキが置いてあった。これ、昨日の残り? 厚焼きに出来たのはやっぱりまぐれだったのね。それでもママの自信作らしいし、ちゃんと食べてあげるけど。
朝食と身支度を終え、忘れ物チェックをしながら玄関を出ると、雨が降っていることに気付いて傘を取りに戻った。今日も雨か……。また髪が湿気でうねうねになるじゃない。心の中でそう呟いて傘を開いた。
学校までは十分ちょっと、このくらいの小雨ならあまり濡れずに済みそう。バッグも濡れないように、しっかりと抱きかかえる。こんな時、ボインの子ならバッグが傘からはみ出ちゃうんでは? あぁ、つるぺたでよかった。と、少しでも自分を慰める。他人からの慰めは、言われても情けなくなるか嫌味にしか聞こえないから、自分しか慰められないんだもん。
「おはよう、御影さん」
今一番会いたくないママよりも、もっと会いたくない人物がいたんだった……。
「おはよ、氷堂さん。……っていうかさ、家こっちじゃないよね? まさか私んちに忘れ物しちゃってーとか言わないよね?」
「あー、ないない。私、あんまり忘れ物ってしないから」
「あっそ、ちょっとした自慢のつもりかもしれないけど、昨日台本渡し忘れてうちに届けに来たのはどちら様?」
「え? それは私じゃなくて、御影さんが忘れたから届けに行ったんじゃない。私は、忘れずに渡してあげたでしょう?」
この屁理屈女め!
「じゃあ何で? 氷堂さんちから学校へは反対方向でしょ?」
「気になる?」
笑いながら横目でこちらを見ている。朝からからかうなんて趣味悪いなぁ……。気になってるから聞いてるのに、「気になる!」って言ったら絶対変な誤解するんでしょ!
「別にどうでもいいけど、あんまり近寄らないでくれる? そっちの傘から滴が垂れてくるんだけど」
「あー、ごめんねぇ? じゃあ入れて?」
入れてくれるのか、そうでないかの回答なんて聞くつもりなかったくせに、強引に私の傘を奪ってくっついてきた。片手で自分の傘を器用に閉じ、すっかり相合傘体勢だし! いつもそうやって勝手なまねを……!
「はぁ? ちょっとぉ! 余計濡れるでしょ! 傘あるんだから、自分で刺しなさいよ」
「濡れる? 濡れちゃうの? くっつくと濡れちゃうの?」
何言ってるの、この女は!
「朝から変なこと言わないでくれる? そして離れて」
「変なことって何? 濡れるってそんなに変な言葉だった? あぁそっか、御影さんって……」
嫌な予感は的中するもので、耳元で「女の子のこと……」と言いかけたところですかさず遮断した。氷堂さんの言いそうなことは、もう大体分かってきたんだからね!
「違いますーっ! いつもそんなこと言ってる氷堂さんこそ、女の子のことそういう目で見てるんじゃないの? 一緒にしないでよね!」
「そういう目? そうだけど、それが何か?」
「……はい?」
当たり前のようにさらりと言い放ったけど、今ものすごい爆弾をぶっこんできたよね? それが何かって……、何かって言われても……。何でもなくないよねー?
「言わなかったかなぁ? 言わなくても気付いてたんだと思ってたけど……。それに昨日、みんちゃんはヤキモチ妬きだからって言ったよね?」
「みん……ガイ先輩の妹? 言ってたけど、聞いたけど、どういう意味かまでは聞いてないし……」
「だから、彼女だってば。分からない? みんちゃんと私は付き合ってるの。恋人なの」
「こ……こいび……?」
まさかまさかとは思っていたけど、まさかって思ってて、まさか本当にそういうことで、そういう関係なのかまでは思ってなかった。ううん、よくよく考えてみれば、氷堂さんはそっちの人でもおかしくない言動をしてたよね? それなら今までの言動一つ一つに合点がいく。
いやいや、ちょっと待って? 仮にリアル百合っ子だとしても、彼女いるのにどうして私にちょっかい出してきたの?
「菜々香ちゃんっ!」
「あれ? みんちゃん。おはよう」
は、計ったようなこのバッドタイミング……! 恋人だとカミングアウトされた直後に出くわすなんて、しかもヤキモチ妬きの彼女の目の前で相合傘、気まずいわけがない! ものすごい形相で駆け寄ってくる闘犬……じゃなくて永井妹。ドラマで見たことがある、不倫現場の修羅場ってこんな感じだったなぁ……。
って、そんな傍観的な思考は置いといて!
「おはよーじゃないでしょ! もうバレー部の朝練ないから、今日から一緒に学校行こうって言ったじゃない! 来ないからさ、待ってても来ないからさ、菜々香ちゃんちまで迎えに行ったんだよ? そしたらお父さんが、菜々香なら学校と逆方面に歩いて行ったよって言うからさ、来てみたらさー……。何なの? あんた何なのーっ!」
「わ、私っ?」
約束も待ち合わせも知らんこっちゃない私が、無理矢理傘を奪われて一緒に入ってるだけの私が、何で吠えられなきゃいけないのー? って反論したいとこだけど……、永井妹ったら今にも泣きそうじゃない。怒るか泣くかどっちかにしてよ。いや、どっちも嫌だけど、こんな切ない顔見せられたら……。
雨の滴か悲しみの滴か、その時永井妹の頬を流れるファーストティアーを見た……。




