サンガツノスミレ
遡ること30分。一人残された花澤は木に寄り掛かりながら座っていた。
ここじゃすぐ見つかっちゃうやろな…
しんどい。動きたくない。きっと血が足りないんだ…。
わかっていた。本当は歩くことも儘ならないことを。それでもみんなの足手まといにだけはなりたくなかった。
花澤は地面を這いずりながら何とか生い茂る草木の中に身を隠した。
日が落ちても暑さは変わらない。何もしていなくても額から汗が流れ落ちる。段々朦朧としてくる意識。
「潤兄ちゃん!!うちな、こんなん作ってん。見て見て!!」
幼少の頃の記憶。それは私がまだ小学3年生の時の話。
「上手に作れたね。つくしは本当に手先が器用だな。」
私より5歳年上の潤兄ちゃんはいつも褒めてくれた。それがとても嬉しくて、学校の工作で作った紙粘土の犬を高く掲げながら跳び跳ねて喜んだ。
「これは…羊かな?」
「…ちゃうわ!!どっからどう見ても犬やろ、犬!!」
私が頬を膨らませて怒ると、潤兄ちゃんはバツの悪そうな表情をしながらも、私の頭を撫でてくれた。少し詰めが甘い所もあったけど、私はそんな潤兄ちゃんが大好きだった。
私には親と呼べる人が居なかった。3歳の時に両親は私をこの児童養護施設に預けたきり、二度と迎えにくる事は無かった。
私は子供ながらに察していた。捨てられたんだと…。
この世で自分以上に不幸な人間など居ないと思っていた。こんな人生なんて本当にどうでもいいんだ。
誰も私のことなど見てくれないのだから。私の成長など、生活など、人生など…誰も望んでいないのだから…。
幼稚園にも行かずに毎日施設で塞ぎ込む。
誰とも話したくないし、会いたくもない。
そのまま私は一年以上誰とも話をしなかった。まるで死に際の老人のような目をしていた私。当時の私には“死ぬ”という選択肢が存在しなかった。だから生きていた。
二段ベッドの上の方。私に与えられたプライベート空間はここだけ。
皆が学校に行けばこの部屋には私以外誰も居なくなる。
そんな私でもいつも一人になると涙が溢れてきた。寂しい…。嫌だ…。何で私はこんなに不幸なのだろうか。声を上げて泣き始める。そしてこの世を呪った。
「…どしたの?痛い所でもあるの?」
二段ベッドの梯子から急に現れたその顔に驚いて私の涙は止まった。
まさか人が居たとは…全然気付かなかった…。
「…っ!?べ、別に…泣いてないわ。…あんた誰?」
何日ぶりに声を出しただろうか。出そうと思えば出るものだ。
「僕?僕は風間潤。君は?」
「…花澤つくし。」
「ふーん。何で泣いてたの?」
「だから泣いてないってば…。」
「そっか。じゃあいいや。」
「…うん。」
男子は苦手だ。バカだし、乱暴だし、意地悪だし。しかもこいつは年上。どうせこいつも私が泣いてた事を皆にバラして笑うに違いない。
そんな私の不安そうな顔に何を思ったのか、風間は私の顔をジッと見ながらゆっくりと口を開いた。
「つくしちゃんだっけ?良かったら今から僕とデートしない?」
「…でーとって何?」
「うーん…。デートっていうのはね、一緒に遊びに行こうってこと!ね?行こうよ?」
「…イヤヤ。行かん。」
何でそんな事を私がしなきゃいけないのか。大体さっき会ったばっかだし、そんな気分じゃ無いし…。
「そんな事言わずにさ?ほら、降りて降りて!!」
風間は私の手を握ると、半ば強引にベッドから引きずり降ろした。
「イヤヤ!!放して!!」
「ダメだよ、放さなーい。」
風間はそのまま私の手を引っ張って外に連れ出した。
私は途中で諦めていた。これから虐められるのかな…?ぶたれるかもしれない。風間は私の手を引きながら施設の裏にある広場を抜けてどんどん奥へと進む。既に私が来たことも無い場所だ。段々と恐怖感は増大していく。
「ねえ、どこいくん?」
「うーん…。僕だけのひみつの場所。」
誰にも知られる事無く私はきっと蹴られるに違いない。そんな事を考えると私の体はブルブルと震えて止まらなかった。そんな事知ってか知らぬか、風間は小川を飛び越え、木々の隙間を抜け、更に奥へと進んでいく。
そして背丈よりも高い草の間を抜けると、私はそこに広がる景色に声を失った。
見渡す限りの草原を覆い尽くす菫の花と土筆。それは風に揺られてユラユラと揺れている。
「ほら、つくしちゃん見て!君の名前と一緒だね。」
風間は私の手を握ったままそう言った。
何でだろう?意識していないのに涙が頬をつたって落ちる。その滴は足元にある菫の花弁に当たって弾けた。
「悲しい時は、僕もここに来るんだ。そうすると、何でだかわからないけど元気になれる。春は特にそうなんだ。この菫の花と土筆が元気を分けてくれる。だからきっと君も……ってあれ?泣いてる?ごめん、そんなに嫌だったかい?」
風間は私の涙に気付いて焦り始める。私は咄嗟に目元を手で覆ってそれを隠した。
「ううん…。…凄い…元気になれるね、ここ。」
「…うん。辛くなったらまた連れてきてあげるから。」
「…ありがとぉ、潤兄ちゃん。」
私の言葉に、風間は屈託の無い笑顔を見せる。
土筆の間を吹き抜ける風が私の髪を靡かせる。真っ青な空は菫の紫と混じり合い、私の心に色を分けてくれた。
それから私は少しずつ皆に心を開いていった。私にとって潤兄ちゃんはそのきっかけをくれた人。とても大切な人。
しかし、そんな潤兄ちゃんがこの施設を離れる事になったのは私が中学生になった頃だった。




