新しい生活
魔光歴二百九十八年三の月、禁忌とされる研究を行っていた、アディアーデス国へディザイス帝国が宣戦布告。原因の研究所襲撃により戦争勃発。
アディアーデス国は抵抗するも、圧倒的な戦力差により半年も掛からずに敗北、ディザイス帝国の領土となる。
同年十の月、ディザイス帝国で生き残りの元アディアーデス国貴族による内乱が起こる。
それによりディザイス帝国皇帝エルハム・アル・ディザイシア並びに第一位皇位継承者クライシュ・アル・ディザイシア死亡。第二位皇位継承者であるエシュレイ・クアラ・ディザイシアが急遽即位、内乱を鎮圧する。
――ディザイス帝国史第三章四の項参照。
「あふ……」
窓から差し込む暖かな陽光に誘われるように徐々に襲われる眠気。
小難しい教科書がそれを三割り増しに感じさせ、思わず出てしまう欠伸に、少女は慌てて口元を押さえた。
「……はあ、今日はここまでにしましょう」
髪と同じ紺色の眉を寄せ、細いフレームの長方形型の茶色い眼鏡を押さえながら少女の家庭教師の青年は溜め息と共に言った。
「やった! じゃ、失礼させていただきますっ」
今まで眠そうにしていたのは何だったのか。少女は満面の笑みを浮かべ、はしゃぎながら席を立った。
ぺこりとお辞儀をして部屋を出て行く少女を見て青年は更に溜め息を強くする。
「僕は……教えるのが下手なのかなあ……」
その呟きは既に部屋を出て行った少女には届くことはなかった。
扉を閉め、スキップでもするかの様に機嫌良く歩く少女。
先程まで眠気を誘った陽光は今は外へと誘っていると感じ、庭園へと歩みを向ける。
辿り着いたそこは緑の匂いが優しく包む場所だった。
そこは少女のお気に入りの場所で、いつも朝にはこの庭園を散策するのが日課になっていた。
この庭園は“皇族”と、それに許された者しか入る事を許されず、出入り口はしっかりと兵が守っている。その為、護衛を付けなくても良い数少ない場所でもある。
いつもより早く勉強が終わり、時間は余っている。
少女は咲き誇る色とりどりの花を眺めながら目的の場所へと足を進めた。
「――見えた」
この皇宮は皇都が見渡せる位置にあり、そしてこの庭園からは街が一望できるのだ。
朝はいつも朝靄がかかりはっきりと見えないので、少女は陽の光に照らされ、活気に溢れる街並みを見られる事に歓喜していた。
「良いなあ……私も降りてみたいな……」
腰ほどの高さの柵で覆われる庭園から、身を乗り出して眺める少女。
肩に届くか届かないくらいの長さの蒼灰色の柔らかな髪が風に舞う。
と、その時強風が彼女を煽った。
「え、わ、……あっ!」
身を乗り出していた少女は、灰色の瞳を大きく見開くと、バランスを取ろうとするも、柵の外へと落ちてしまう。
「うぎゃ」
顔を軽く擦りむきながらも大した怪我をせず一安心する。
しかし後数センチで皇都まで続く急な坂を転がり落ちる所であった。
少女はほっと息を吐き、――ふと隣を見た。
「わ……」
するとそこには明らかに皇族ではない部外者が気持ち良さそうに昼寝をしていた。
腰より長い艶々とした黒髪、同色の眉と睫。開かぬ瞼の中はどんな瞳を持っているのだろうか。
年の頃はまだ十代だろう。幼さを残す可愛げのある顔。
全身を黒で纏めた姿はまるで鴉の様だ。
「女の子? 男の子? ……あっ」
自分が騒がしくしたせいか、閉じていた瞼がゆっくりと開く。
髪と同じ漆黒の瞳と目が合わさり、少女はギクリと肩を強ばらせた。
――恐い。
カタカタと震えだした少女を無視し、彼――黒羽は大きな欠伸をしながら背伸びした。
そうしてようやく少女に目を向ける。
「……何か用?」
首を傾げて上目遣いで尋ねる黒羽はどことなく子供っぽい。けれどその瞳は得体の知れない闇で濁っていた。
震えが酷くなる体を抱き締め、腰が抜けたのかその場に座り込む少女。
そんな様子を見て、黒羽はニヤリと口元を歪めた。
「恐い? 分かるんだ? 俺の事」
立ち上がり、少女の顔を覗き込み、恐怖に動けないでいる様子を愉しげに観察する。
「くふふ……まあこれからしょっちゅう顔を合わすだろ。じゃ、またねー」
突然大きな風が吹き荒れたかと思うと、黒羽はふわりと浮かび上がり手を振った。
「え、え?」
なんだこれは、魔法なのだろうか。
あまりの出来事に少女は恐怖も忘れて黒羽を見上げる。
風を操って宙に浮かぶ魔法など聞いたことが無い。というのも、魔法というものは決まった動きしかしないからだ。
真っ直ぐ標的に向かう、標的を追跡する、体に纏う、など。
それも、普通なら長い詠唱が必要である。
「わ、私はイスタ! ねえ! あなたは“何”?」
思わず少女は名乗る。
続けて出た質問に黒羽はケタケタと笑い出す。
「ふふ、ふは、くくく……本当、分かってるね。そう、俺は“誰”じゃない。……でも言わない。俺にとっては忌まわしい事だから」
浮かぶ笑顔はそのままに、目は冷たく光る。
思い出したようにイスタの体がまた震え出すと、黒羽はもう一度軽く笑い、どこかへと飛んで行った。
残されたイスタは、大きく息を吐き、額から流れる嫌な汗を腕で拭った。
“しょっちゅう顔を会わすだろう”
その言葉に不安と何故かほんの少しの期待を感じて。
「皇女殿下! 探しましたよ」
気付くと暫く呆けていたらしく、柵の外で座り込んでいたイスタは聞き慣れた声に我に返った。
もう昼食の時間になるというのに、姿が見えないイスタを探すためにやってきたのは先程まで彼女に勉強を教えていた青年だった。
「イスタ様……何かあったんですか?」
どこか様子のおかしい彼女に訝しげに眉を寄せる。イスタは「何でもないよ」と笑いながら立ち上がった。
しかし、皇族しか入る事を許されないこの庭園に居たという事は誰か兄弟達の知り合いなのかもしれない。
それにしても失礼な質問をしてしまったとイスタは思う。しかしそれを否定しなかった少年に疑問を覚える。
“何”と聞いたのに言い当てられた様に驚いて――そう、あの一瞬、僅かに驚いていたのだ――笑った少年。
気になりつつも昼食に遅れるとまずいので、イスタは青年を連れ、駆け足で庭園を後にした。
◇
ふわふわと空を漂う黒羽は、風を受けながら気持ちよさそうに目を細めていた。
仰向けになり、太陽の光を全身に浴びる。
一年も暗い実験室に居た黒羽は、今や外での昼寝が日課になっていた為、今日もいつもの様に殆ど人が来ない筈の庭園……の柵の外側で寝ていたが、思わぬ邪魔が入り起こされたので、未だ寝とぼけていた。
くあ、と気の抜けるような欠伸をしながら空の散歩ならぬ散飛をしていると、額に鈍く光る銀色のリングから鋭い痛みが走った。
「――っつ、う」
頭の奥深くから首筋、背中、尾骨、足の爪先まで流れる衝撃に、一瞬体をびくりと震えさせると、不機嫌そうに眉を寄せる。
「ったく、なんの呼び出しだよ」
くるりと空中で体制を変え、降下していくと、着地点に人影があった。
あまり目立たない建物の陰に舞い降りると、黒羽は風で乱された長い髪を右腕で後ろに流し、目の前に居る人物を眺めた。
「何? 今度は」
それに答えたのは短い栗色の髪に四角い縁の眼鏡の中年の男……アマニスだ。
「何じゃない。忘れてたのかい? 今日だよ君の御披露目は」
以前より若干質の良い白衣に身を包み、穏やかさは変わらず微笑んでいた。
御披露目。
そう、今日は黒羽の御披露目日。
ディザイスへ来てからというもの、皇宮の中にアマニスの研究室が作られ、そこで最近までずっと黒羽の調整をしていたのだ。
あまり頭に負荷がかかると、あの時のように体に支障が出る。だからと言って黒羽が自由に動けるようでは洗脳装置の意味が無い。
そのあたりの細かな設定を行い、前に“起動”した時のデータを元に黒羽の“精神的な面”を調整していった。
既に粗方は壊れており、アマニスが思っていたよりも“兵器”としての完成度は高い。しかし扱いが少々難しいものになってしまっていた。
「今夜のパーティーで陛下から発表される。戦争の引き金になった原因である研究所から引き取った“生物兵器”のね」
「引き取った……ね。兵器として使うんなら滅ぼした国と一緒だろーに」
黒羽は横目でチラリと見ながら言う。しかしそんな皮肉もアマニスは笑い流した。
「はは、違うよ黒羽。兵器として作られた哀れな少年を保護した陛下に、少年が自ら忠誠を誓うんだ」
それは筋書き。
下手な台本だと思うだろう。
だが“これ”がエシュレイの恐ろしい所なのだ。
“他国からも人気のある美しい皇子”だった頃から、エシュレイは“策士”だった。
自国だけに留まらない彼の人気はその結果でもある。
どんな小さな事でも全力で周りを騙す。自分に都合の良いように、それでいて周りには人格者として映るように。
黒羽とアマニスはそれを知る数少ない者達の中に入る。
「くふふ、俺に演技力なんか期待しないでよ?」
「君はそのままで良いよ。その方が“最初は”同情を買える」
「なにそれ。俺って精神異常者?」
「違うのかい?」
「あはっそのとーり!」
けらけらと笑う黒羽のその姿に、以前の面影は無い。
脳に負担が掛かり過ぎない洗脳は、既に壊れていた黒羽の精神を更にねじ曲げた。
自我がはっきりと残り、その上で人殺しに躊躇をさせないように“自らの手で”殺させた。
拒絶反応を示しても無理矢理殺させ続けた。
その内に黒羽の頭はそのストレスから逃れる為か、常に快楽物質が脳から分泌されるようになったらしく、思考を大きく変えた。
最初に起動した時、少しだがその兆候は見られていて、アマニスとしてはそれを後押しした形だ。
命令は絶対。しかしそれに至る過程は自由。
今の黒羽ならば喜んで“死”に触れることだろう。アマニスは満足していた。
「とにかく、今から準備だから行くよ」
黒羽の手を取り、歩き出すアマニスに、黒羽は引っ張られていく。
「え? 今? 今から? え、まだ昼だぞ?」
「陛下がね、せっかくの黒羽の御披露目だからってなんだか面白いことを思い付いたらしいよ?」
「げ……嫌な予感しかしないんだが」
どことなく楽しげなアマニスにげんなりとした表情を隠せない黒羽。これから待つだろう面倒に自然と足が重くなった。
エシュレイの自室へ辿り着くとやたらと笑顔な本人が出迎えてきた。
彼は二人を部屋の奥へと案内すると、大きな椅子へ腰掛けた。
「待っていたよ。早速なんだけれどね、黒羽には一度皆の前でその“力”を示してもらいたいんだ」
思った通り面倒な事になったと黒羽は溜め息を吐いた。
「ただ“新しい人間が入った”という訳じゃなく、“最凶の兵器”を迎え入れたという事を理解させたい」
微笑みながら話す様子は、まるで新しい玩具でも手に入れて嬉々と自慢する子供である。
まあそんなに変わらないかと黒羽は気を取り直し詳しい説明を求めた。
今夜行われるパーティーは、内乱を終え、無事皇帝となったエシュレイを祝うものである。
王族や貴族など、国の中心となる人物が集まり様々な繋がりを作ろうと画策する。
このディザイス帝国は大きな大陸の三分の一程の国土を誇り、他に数十とある小さな国と友好を結んでいる。その為隣国からのパーティーの出席者も多くなり、政治のやりとりも生まれるのだ。
このパーティーで黒羽の力を見せる。
つまり、他国へ対しての牽制。
内乱は収束したが、生き残りの元アディアーデスの人間が、他国と手を取り共に攻めてくる事も有り得る。
そこで黒羽の出番となる。
並みの兵器より破壊力のある黒羽がディザイスに居るという事により、元アディアーデスの人間にはエシュレイの懐の深さを、隣国にはディザイスの圧倒的な戦力を示すことになる。
ここで重要なのが“黒羽がどれだけの戦力なのか”ということ。
「まあそんな事だろうとは思ったけど。……で、どうやって?」
やや呆れ気味に聞く黒羽。それにエシュレイは事も無げに言った。
「今夜この城が襲われる。狙いは私だ。黒羽はそいつらを“圧倒的な力”をもって“殺す”んだよ」
「は? 襲われ……って」
「内乱の首謀者の身内だそうだよ。約五十人程で乗り込んでくるらしい」
何でもない事のように話すエシュレイに、アマニスは慌てるが、黒羽は逆に吹き出した。
「ぶあはっ! わざわざ今夜の為に何の対処もしないでいたの? ふはっ、ふくく……エシュレイらしいな」
腹を抱えて笑い続ける黒羽。それを見たエシュレイは笑みを深くし「頼んだよ」と爽やかに言ってみれば、黒羽も口元を歪めて「おっけー」と返すのだった。
日も沈み、魔光による明かりが灯され、皇宮は華やかな雰囲気に包まれた。
続々と集まる招待客達は広いホールで酒を片手に歓談し、新皇帝の姿を待つ。
僅か半年という早さでアディアーデスとの戦を終わらせ、直後に起きた内乱を見事治めた若き皇帝を。
そんな中彼女は王族にも関わらずホールの隅でちびりちびりと度数の低い酒を飲んでいた。
「中央に出て挨拶しなくて良いんですか?」
隣に立つ背の高い青年が、小声で聞いた。慣れない正装に落ち着かなげに紺色の頭をポリポリと掻いている。
「こういうの、好きじゃ無いんです。分かってるでしょう?」
煌びやかなドレスを身に纏いながらも、眉を寄せ、不機嫌そうに俯く少女。
薄緑色のドレスとくすんだ蒼灰色の彼女の髪はよく似合い、壁の花となるのはあまりに勿体無い事だろう。
「ですが、イスタ様……」
「あああもう、うっさいですよ。私は、嫌いなんです! なにが楽しくてご機嫌取りにやってくる脂ぎったおっさん達に愛想振りまかなくちゃならないんですか!」
お酒の入った美しい細工もののグラスを握り締め、まなじりをつり上げるイスタ。青年は訝しげに彼女の様子を窺うと、やや目が据わっている。
「ちょ、イスタ様もう酔っぱらっちゃったんですか! まだ始まって間もないのに!」
「酔ってらんかいまひぇんよ!」
「いや、呂律回って無いですから」
「イザナギはしつっこいんれすよ、いつもいつもくどくどと……」
しまいにはふらつきながら壁に寄りかかる始末。
イザナギと呼ばれた青年は額に手を当て、大きな溜め息を吐いた。
と、その時。ホール内のざわめきが一層大きくなり、視線がある一点に集まった。
「お集まりの皆さん、お待たせいたしました」
そう言って奥から現れたのは、この国の新皇帝、エシュレイ・クアラ・ディザイシアその人だった。
エシュレイはにこやかに良く通る声で皆への礼と感謝を述べる。
そんな様子を遠くから眺めていたイスタは、エシュレイの斜め後ろに佇む黒い影に気が付いた。
酔いによる視覚のブレがその人物に固定される。それと同時に一気に酔いが覚めた。
「――っ」
――黒。
黒い頭。黒い衣装。白い肌。そしてその中性的な容姿の異常な冷たさはこの会場の中では異質だった。
そう、あの庭園で出会った少年だ。
長い黒髪を今は高い位置で括り、衣装もやや質の良いものになっている。
エシュレイに付き従う様子から、彼の直属の部下であるらしいことが分かった。
その隣にはやたら色素の薄い、眼鏡をかけた男性がいる。
栗色を更に白で薄めた様な色の髪、眼鏡で隠れ分かりにくいが、薄紫色の濁った瞳。
……どこかで見たことがあるような気がしたイスタは首を傾げた。
「ようやく来たみたいですね」
イザナギが彼等の方を眺めながら言う。
見ると会場内にいた者達もエシュレイの周りに集まり始めていた。
「今日は、この子を皆さんに紹介したくてね」
エシュレイの良く通る声は離れたイスタの所にも何とか聞こえた。
「アディアーデスの件の“兵器”ですよ」
エシュレイのその言葉と共に一斉に空気が凍り付く。全ての目がその少年に向けられるが、少年はただ薄く微笑するだけだった。
クロウと言うらしい少年――いや、兵器の名前とその経緯を話し、彼を保護する旨と、彼の力をを得られる事が発表された。
ざわめく人々は不安な色を隠せないでいた。
今回の戦争の原因と言える研究所の産物。人を元に作られた生きる兵器。
存在そのものが禍を呼びそうであり、またその力も信用がならない。
「実験に振り回された彼があまりにも可哀想でね……しかし彼にまともな思考能力は残って居ないのだよ」
命令を聞き、壊す事を悦びとするクロウは一般の人間の中には戻れない。しかし危険だからと殺してしまう事は無責任過ぎる、と。
他人が犯した過ちすら自分の責任とするこの偽善的な行為は集まった人々の戸惑いを生んだ。
「皆は偽善だと感じているのだろうね」
そうと感じた者達は焦り、慌てて取り繕う様に否定する。
「いや、良いのだよ。実際そうなのだからね。今回の事で納得のいかない者は“敗国から新型兵器を取り上げた”と解釈してもらって構わない」
話を聞いていた者達は微妙な表情ながらも一応は納得したようだった。
「勿論、きちんと管理はするつもりだよ。――この彼の頭に填めているリング。これは彼の思考に影響を与える。彼が自ら反抗する事はない。……必要はないとは思うが」
果たしてこれが保護であるかは疑問だが、自分達に刃向かう事が無いと分かった人々は、見るからに緊張が解れていった。
(嘘ばっか)
そんな様子を眺めていた黒羽は、呆れたようにエシュレイを横目で盗み見る。
にこやかに笑うエシュレイは誰が見ても素晴らしい皇帝。
ふと、黒羽はある事を思い付く。その可笑しさに口元の笑いを抑えれなくなり、手を持っていき隠した。
「しかし……兵器兵器と言いますが……彼は本当にそんなにも恐ろしい存在なのですか?」
会場内が和やかなパーティーの雰囲気に戻りかけたその時、貴族の一人であろう金色の髪の体格の良い中年の男がそう問い掛けた。
黒羽は、見た目には戦いなどには縁の無さそうな細い少年である。そう思うのも当然であった。
この一言で黒羽を疑りの目で見る者が徐々に出て来る。
エシュレイは頷くと言った。
「確かに、それは当然の疑問だろう。だから私は――」
「エシュ……飽きた。早く部屋戻って寝よう」
――一瞬で空気が固まった。
というのも、黒羽がわざとらしく“しな”をつくりエシュレイの耳元で“周囲に聞こえるように”言ったからだ。
どう見てもそういった関係だと思わされる様な態度の黒羽に、周りは「え、エシュレイ陛下ってそっちの趣味持ってたの?」「保護もその為?」といった好奇の視線が集まった。
額に手を当て溜め息を吐くアマニス。
流石のエシュレイもこれには固まり、浮かべていた笑顔も引きつっていた。
悪戯が成功し思わず吹き出す黒羽に、周囲は疑問符を浮かべる。
「はあ……クロウ、そういった冗談はやめなさい。本当だと思われたら私は結婚出来なくなるよ」
苦笑いを浮かべ咎めるエシュレイに、周囲の人々は冗談だったのかと詰めていた息を吐いた。
「ぶは、ははっ! じょーだん、冗談。みんなびっくりしたろ?」
ケラケラと笑う様子は全く反省をしていないという事が良く分かる。
動揺していた周囲の者達は徐々にその視線を冷めたものに変えていく。
その状況にアマニスは内心で頭を抱えた。せっかく計画を立てても、自由気ままに行動する黒羽は今のように反感ばかり買うのだろうと思ったからだ。
「それで、だね。クロウの事なのだが」
そんな中エシュレイは素早く意識を切り替え話を続けた。
自ら黒羽に、普段通りにしていて構わないと伝えてあったのだからこういった騒ぎも想定の範囲内である。
「数日後にクラッカドへ向かってもらう予定を立てている。そこでクロウの破壊力をお見せしたい」
この言葉に周囲の者達は一様に目を見開いて驚いた。
クラッカドはディザイスより東にある小さな国である。この国の保護を受け、小さいながらも、特産品である翠水晶と呼ばれる貴重な魔力を秘めた石を産出し、莫大な資産を抱えている国だ。その為狙われる事も多く、常に周囲の国を警戒している。
侵略を受けた場合、ディザイスが常駐させている軍でかの国を守り、その代わりにクラッカドからは良質な翠水晶を格安でディザイスへ譲る。両国はそんな関係にあった。
今回黒羽を向かわせるのも再び侵略を受けているクラッカドを守る為だ。
南側はディザイス領、西側はクラッカドと同じ位の面積を持つ貧しく小さな国なので脅威はないが、北と東側が手を組み進行して来ていた。
ディザイスは既にクラッカドへ軍を送っていたが、そこへ黒羽を合流させる事になる。
「お、お待ちください! そのような事、私は聞いておりませぬぞ!」
ざわめきの中、鋭い声がその場に響く。
人の間を縫うようにすり抜け前に出てきたのは、ディザイス帝国国軍のトップであり、六十を越えた今も現役でいける程に肉体を鍛え上げられた初老の男だった。
「イージアス将軍」
「陛下、これはどういう事なのですか」
ある程度白髪が混じっている筈だが、輝く金色の髪はそれを目立たせない。後ろへ流した前髪は額を隠さず、年のせいかやや長めの眉がハの字に開いていて、困惑しているのが良く分かる。
この様な場で取り乱す様子はあまりよろしくないのだが、それでもエシュレイは彼を咎めるような事はせず、柔らかな声で話した。
「ひと月程前に侵攻に耐えきれなくなったクラッカドへ援軍を送った。その者達だけで十分であることも分かっているよ。……だが、早く事が終わる方がお互いの国にとっては良いだろう?」
あくまでもにこやかに説明をするエシュレイに、やや毒気を抜かれるもまだ納得出来ないのか眉を寄せ、機嫌の悪さを隠せないイージアス。
先程の悪戯をした時の可笑しさとはまた違った可笑しさが込み上げた黒羽は吹き出した。
「っ……何が可笑しい!」
ギロリと睨み付けるが、黒羽は全く気にせず笑い続ける。
「い、いや、ふっ……ふくくく……なんかかわいーね、将軍」
「なっ……!」
見る見るうちに怒りで顔を赤く染め上げる。今にも頭から蒸気でも吹き出しそうな程で、そんな様子が更にツボに入ったのか、黒羽は腹を押さえてひいひいと引きつり笑いにまでなっていた。
考えていることがそのまま顔に出ているイージアスに笑いを堪えることが出来ない黒羽。
「陛下っ、一人増えたくらいでは何も変わりませぬ。このような奴など……」
「彼は“兵器”だ。私は“コレ”を、君の派遣した隊に“使って”もらう為に送る」
苦虫を噛み潰したような顔で黒羽を睨みながら口を開くも途中でエシュレイに止められる。
その内容にほんの少しの嫌悪と、同情を感じ、そしてようやく理解し、納得した。
イージアスは息を吐き出すと、やれやれと額に手を当てた。
「……そういうお考えであれば、私が意地を張る意味が無いですな……分かりました。ですが、コレは私が“使い”ましょう」
「君が直々に? それは頼もしいな。クロウを上手く使ってやってあげなさい」
「はい。しばらくの間私が抜ける穴は彼に」
「ああ、分かっているよ」
どうやらうまく話が纏まったようで、落ち着いたイージアスは改めて黒羽へと向き合った。
あまりに笑い過ぎて腹を押さえ片膝を着いて小さく丸まり、小刻みに震えていた黒羽はそれに気付き顔を上げる。
「そういう訳だ。覚悟しておくのだな」
やや眉を寄せながらもこれから宜しく、と生真面目にも右手を差し出したイージアスに黒羽はエシュレイには勿体無いくらい良い奴だなあと感心した。
「んー、宜しくー」
ひらひらと右手を振り、笑う。
イージアスの差し出した手は虚しく空をさ迷った。
再び怒りで顔を赤くするも、今度は大人しく手を引っ込める。
周りを囲んでいた者達も、黒羽の実力は後々という事で一応この場は収まった。
ピリピリとした雰囲気は霧散し、和やかなパーティーが戻ってくる。
一部の女性達から注がれる熱い視線を受けとめた黒羽は、それに手を振り答えてやる。その度に起こる小さな黄色い悲鳴はなかなかに多かった。
(結構可愛い子多いなー。でも気が強そうなのばっか。……壊したいかも)
うずうずと湧き上がる衝動をなんとかやり過ごし、視線を外す。
すると、外した視線がこちらを凝視する二つの瞳とかち合った。
目があった瞬間相手は小さく肩を跳ねさせ、慌てて視線を外そうとするも一足遅く、黒羽は彼女の元へ歩き出していた。
「やほーう、さっきぶり」
隣に居た青年が黒羽を胡散臭げに眺めていたが、興味が無い為無視。黒羽は右手を小さく振り声を掛ける。
どう反応したらいいのか戸惑った少女は二、三度視線をさ迷わせ、恐る恐る黒羽を見上げた。
「早速会ったな。見てた? エシュのあの顔」
くくく、と押し殺すように笑う黒羽に少女――イスタはようやく口を開く。
「あなたは……これで良いの?」
兵器で、人として扱われなくて、このままで良いのかと。
確かに保護され、恩がある相手に尽くすというのは分かる。分かるがこれはそんな相手に与える立場なのか、と。
イスタの考えはごく普通なものだ。
黒羽もそれを分かっている、が。彼はさらりと笑って見せた。
「良いも何も、俺が望んでるし?」
洗脳されている事は分かっている。これが本来の自分の考えじゃない事くらい理解している。
それでも、じゃあ逆に。洗脳されていなければ?
答えは“考えても仕方がない”だ。
今この様な状況で、自我がある方が恐ろしい。
ならば喜んで働こう。
眉を寄せ俯くイスタは納得出来ないと顔に書いてあった。
恐がってる癖に。
黒羽はおかしくて仕方がなかった。
どれだけお姫様なんだよ、と。善人には善人なのだろうが、堕ちた者にはその者なりの自尊心というものがある。
こういった同情は侮辱になるのだ。
まあそれも紛い物の自尊心なのだろうが。
黒羽はその考えを軽く流し、イスタの隣にいた青年に視線を移す。
紺色の髪の青年は、イスタを守るように側に控え、黒羽を警戒していた。しかしどう見ても戦う者の体格ではない。裾の長い服を着ており、眼鏡を掛けている姿は学者の様でもある。
「……なんか言いたそうだけど、何?」
冷ややかな視線と、感情のこもらない声で黒羽の機嫌が悪くなったと感じた青年はビクリと肩を揺らす。
「あ、ああああああああんた、イスタ様になな、何の用だ」
震えながら勇気を出して声を出したのだろうが、思い切り噛みまくってしまっている。
そのあまりの焦り様に思わず黒羽は吹き出した。
そのまま腹を抱えて笑う黒羽に、つい先程の機嫌の悪さから一転、この大笑い中の男は何なんだと青年は困惑する。
「そんなに恐がるなよ……虐めたくなるじゃないか」
瞳に妖しげな光りを煌めかせ、妖艶に笑うその姿に、青年はギクリと肩を強張らせた。
「何にもしやしないよ。知り合いに挨拶しに来るのは駄目なのか?」
黒羽が肩を竦めてそう言うと青年はイスタに本当に知り合いかどうか確認する。彼女が肯定する事により、青年は何とか納得した様だった。
近くを果物で出来た酒を持ち歩く給仕係がいて呼び止める。そこから二杯受け取ると一つをイスタに差し出した。
「どうぞ。……飲めるよな?」
慌てて受け取ろうとしたイスタだったが、目の前の杯は横から伸びてきた手によって奪われた。
「イスタ様……飲み過ぎです。……変わりに私が頂きましょう」
「イザナギ」
失礼でしょう、と青年を軽く睨み付けるイスタ。
黒羽はきょとんとイスタを見つめ、おもむろに彼女の顔へ自らの顔を寄せた。
「なっ……!」
「うあっ……!」
驚愕の声はイスタとイザナギ、二人同時だった。
かなり近い距離で黒羽は鼻をひくつかせる。イスタが纏わせている強いアルコールの香りを感じると、寄せていた顔をようやく離した。
「そうだな、イスタはちょっと飲み過ぎのようだ」
一瞬の間を置いて瞬時に耳まで赤く染め上げるイスタに、同じ様に赤くなったイザナギが声を荒げた。
「じ、女性になんて事をするんだ!」
その言いように、黒羽はくすりと笑うと目を細めた。
「なんだ、二人とも初だな。王宮の人間だから慣れているかと思ったが」
果実酒に口を付け、笑いながら言う。先程のイージアスとの事といい、どうやら黒羽は人をおちょくるのが好きらしいと気付いた二人は深い溜め息を吐いた。
「全く……それだと自ら敵を作るようなものですよ?」
ただでさえその存在は無理矢理認めさせられたものだというのに、当の本人は自らの立場など考えもしない。
「敵もなにも……俺に味方なんていないよ?」
トーンの変わらない楽しげな声のまま放たれた言葉に、二人は暫し沈黙する。
黒羽はそんな二人に子供に聞かせるように、ゆっくりと、言った。
「人間は、俺の玩具。そして俺は……エシュの玩具」
恍惚とした響きを持ちながらも悲しげに聴こえたのは自分が同情しているからだろうかと、イスタはチクリと痛む胸を両手で押さえた。
これからギャグとか増えますん。




