決意からの……
深い、深い深い闇の中。
黒羽は、此処は何処だろうとか、今は何時だろうとか取り留めも無く考えていたが、ふと上が気になり見上げてみた。
周りは漆黒の闇であるにも関わらず、自分の姿がはっきりと浮かび上がっている。
その様子に、前にも同じ様な体験をしたなと思い出した。
見上げた空はこれまた闇で、何も視界に入ることはない。
――ああ、此処は、“落ちた先”なんだ。
暗闇の中に居る為か、酷く寒く感じる。
どうやってこの場から抜け出せば良いのか分からず、徐々に焦り出す。
一歩を踏み出した、その瞬間――――
「はっ……」
弾む心臓。
荒くなった呼吸音が静かな部屋に響く。
「…………ああー……寝覚め悪……」
いつの間にか大量の汗をかいていたらしく、額や項、つまりは髪の生え際がべっとりと濡れていた。
ぞくりと寒気を感じ、これはまずいと朝からシャワーを浴びる事にした。
電気スタンド(電気は使わない)があったのだから、他の電化製品に類似した物もあるのだろうと思っていた黒羽は、この三カ月の中で様々な物を見た。
テレビやラジオ、室内灯等。
このシャワーもそのうちの一つである。 所謂黒羽の世界で言う“電化製品”にあたるのがこの世界では“魔具製品”と呼ばれる品々。
電化製品が電気を元に動くのなら、魔具製品は“魔力”を元に動くのだ。
そもそも魔力と言うものは、この世界『ファブニル』に存在する一番多い物質。酸素、窒素など目には見えない物質と同類である。
同じ様に口から取り込み、体を循環する。
空気中を漂っている魔力を魔力素と呼び、体に取り込んだ時点で魔力となる。
魔具製品は魔力をきっかけに起動し、空気中の魔力素を利用し稼働し続ける。
つまり、電化製品とは違いエネルギーを他から供給する必要が無いので、殆どの物がその物単品で存在出来るのだ。
ある意味では、地球の文明よりもかなり進んでいると言っても過言ではない。そしてこれは環境を壊す事の無いかなりエコロジーな文明である。
そんな事を考えながらシャワーを終えた黒羽は、部屋に戻ると自分用に新しく揃えられた服に袖を通す。
何故か増えていく自分用の衣服に黒羽は苦笑した。
休みの日になると家族で出掛け、それに黒羽も着いて行く。
そのたびに買って貰うのは、なんともありがたいような申し訳ないような気持ちになる。
「おはようございます」
「おお、おはようクロウ」
部屋を出ると、丁度アマニスが朝食を取っている所だった。
黒羽が向かいの席に着くと、合わせたように焼きたてのパンと肉や野菜が並ぶ。
ナミナとトトは既に学校へ行ったらしく、姿は無い。
「今日は少し遅かったみたいね?」
朝食を並べ終わったユミールが微笑みながら聞いた。
「ええ、まあ……ちょっと夢見が悪くて」
少し照れ笑いを浮かべ答えると、彼女はクスクスと笑い、頭を撫でた。
未だ慣れない子供扱いに黒羽は顔を赤くする。
「寝不足ならもう一度寝てきたら? 今日はアマニスの手伝いも無いんでしょう?」
今日は平日で、ナミナとトトは学校。普段家で仕事をしているアマニスは珍しく職場に呼ばれたらしく、これから向かう。
普段アマニスの手伝いをして一日を過ごす黒羽としては、今日のような日は休暇みたいなものだ。
確かに寝不足気味ではあるが、このまま二度寝すれば恐らく昼頃まで寝てしまうだろう。それはあまりにも図々しい。
それに黒羽は予定もあった。
せっかくの自由な時間、これを利用しない手は無い。
結局の所、黒羽は違う世界から来た事を未だ皆に伝えられずにいた。
タイミングが悪く……というのは言い訳で、まだ心の準備が出来ていないというのが本当の所。どんな目で見られるのかを考えると、なかなか言い出す事が出来なかったのだ。
それでも友達を探している事だけは話した。
ユミールが捜索願い届けを出してくれたものの、任せっきりにするつもりの無い黒羽は自由な時間が出来る度、哲哉の事を探していた。
今日の自由時間も、街で彼を探すつもりでいたのだ。
「いえ……今日も友達を探してみます」
こんな世界に哲哉も独りでどこかに居る。そう考えると早く合流したいと黒羽は焦る。
自分は運良く良い家族に拾われ、この世界の言葉を習う事が出来た。
しかし、下手をすれば言葉を知るどころか見知らぬ土地で何も分からず野垂れ死んでいたかもしれない。
もしくは言葉が通じないのをこれ幸いとどこぞの物好きな金持ちに売られていたかもしれない。
一日一日を過ごす毎に不安が黒羽を蝕んでいった。親友と呼べる一番の友達、哲哉は今、どこでどうしているのか。
黒羽が此方の世界に来る時、確かに途中までは彼もあの不思議な空間に居た。
あの時周りの人間は何の異常も感じている様子はなかった。
哲哉だけが黒羽と共にあの空間に取り込まれたのだ。
「そっか、あまり無理しないようにね? それと一度お昼には戻って来るんでしょ?」
「あ、はい。そうするつもりです」
ひとまず黒羽は捜索願いを出している所に行ってみようと考えていた。
黒羽がゆっくりとした朝食を取っていると、食べ終えたアマニスが席を立った。
「じゃあ行ってくるよ。久し振りの呼び出しだ、何か進展があったのかもしれないな。……遅くなるかもしれないから夕食は先に食べていてくれるかい?」
「ええ、分かったわ。気を付けてね」
如何にも幸せな夫婦といった様子の二人に『家族』を感じ、暖かい気持ちになった黒羽は、本当にこの家に拾われて良かったなと、誰にともなく感謝していた。
続けて食べ終えた黒羽も支度をし、ユミールに行ってくる事を告げた。
家を出ると、今日は雪も降っておらず、晴天が広がっている。
日差しはぽかぽかとして、実に外出日和と言えた。
それでも寒い事に変わりはなく、前の買い物の時に買って貰った緑色の暖かいマフラーを口元まで上げる。
「さむっ」
軽く身を震わせながら、白い息を吐き出し黒羽は街へ向かう。
朝から賑わいを見せる通りを抜け、黒羽は大きな門の前に居た。
『アディアーデス国軍ラバラトル支部』
この国――アディアーデスでは警察のような組織は存在しないらしく、警察がやるような仕事は全て軍部の仕事だった。
これは世界的にも同じ事で、殆ど民主主義の国は無い。
国が治め、国が裁く。
王政、帝王制、法王制等、個人が上に立つのが当たり前なのがこの世界『ファブニル』である。
前に捜索願いを出しにユミールと来た事のある黒羽は、その時届け出を出した部署まで足を向けた。
「捜索の方はあまり進んではいませんね。そもそも名前と容姿だけでは……どこかに定住している人間では無い様ですので、他の街とも連絡しながらになります。かなり時間が掛かりますよ」
かなり事務的に説明され、軽く苛立つ黒羽。
分かっていた事だ、ただの一般人である哲哉を探す優先度は低いと。
それでもやはり早く見付けたいと思うからこそ、暇があればこうして街へ足を運び、自らも探しているのだから。
全くと言っても良い程何の進展もなかった軍の捜索。
警察が無いと知った時から期待はしていなかった黒羽は、建物を出ると街で聞き込みを開始した。
この世界の言葉をある程度覚えてから、何回かこうして聞き込みをしていた黒羽だったが、こちらも一向に手掛かりが掴めない。
今回も何の手掛かりも掴めず、街の外れまで戻ってきていた。
長い階段が街の外まで続いており、其処の段差に座り込む。
歩き回り、火照った頬を冷たい風が冷ます。
黒羽は後ろに手を着き、晴れ渡る空を見上げた。
「この街には居ないのかなあ……」
ピー、チチチ……と名も知らぬ鳥が遠くで鳴いている。
いつの間にか真上に来ていた太陽が眩しく、目を閉じてそのまましばらくの間呆けていた。
「痛っ」
そろそろ一旦帰るかなと動き出そうとした途端、左小指に走る鋭い痛みに顔を歪めた。
とっさに腕を上げ、痛みの走った指を庇うように反対の手で触れる。
ズキズキと痛む指を押さえながら左手を置いてあった場所を見れば、そこには毛深い丸い耳に、細長い尻尾を持った鼠の様な小さな生き物が居た。
指に視線を移すと、二つの小さな穴が開いており、鼠の様な生き物が噛み付いて出来たものだと分かった。
「……はあ、俺は餌じゃない。どっか行けよ…………」
黒羽が鼠の様な生き物を軽く叩き、動くように促すと「仕方ないな」とでも言うように走って姿を消した。
咬まれた場所に唇を当て血を吸い取ると、地面に向かって吐き出す。
続けて先程聞き込みしている間に買ったペットボトルの飲み物で口を濯ぐと、それも吐き出す。
どんな病原菌を持っているか分からない、と黒羽は同じ行程を二回程繰り返した。
そして一度家に戻り昼食を済ませた黒羽は、午後にもう一度街に繰り出し、哲哉を探したが、この日も結局何の進展も無く一日を終える事になった。
◆
この日、ラバラトル魔法研究所では三つの報告があった。
そもそも最近、行っている研究がなかなか思うように進まず、研究員達はピリピリとしていた。
三ヶ月程前に起きた時空の歪みによる振動の波長を観測し、それの調査も増え、それぞれのレポートを纏めると久し振りに研究所に来ている博士に報告。
時空の歪みについては大体の調査が済み、恐らくいつも起こる神界との一時的な部分結合だと分かった。
これは本当によくある事で、部分的にこの世界と神の住まうとされる神界とが繋がってしまうという事だ。
この現象を『光の扉』と呼ぶ。
偶然神界と繋がった瞬間に立ち合った人物が見たのだ。裂けた空間の中に光を放つ大きな扉を。
光の扉が開いた時には、いつも“何か”がある。
用途の分からない物が出て来る事もあれば、小さな生物が現れる事もある。
自分達の世界の物と変わらないような魔具製品と思われるような物も出る事があるが、どんなに魔力を流しても起動しない。
どうやら動力が違う様で、この世界とは全く違う文明を築いている世界らしい。
何故光の扉の先が神界と繋がっていると考えられているかというと、光の扉から現れた生物は例外なくとても高濃度の魔力素を体に貯め込んでいるからである。
あまりの純度の高さに、その魔力は魔力として役に立たず、神界には勿体無い事に魔法を使える生物がいない事が分かっていた。
有り得ない程の高純度な魔力、魔法の無い世界、動力の分からない魔具製品。
自分達では全く理解できないその光の扉の先を、『神界』そして其処には神族が住まう処であると昔からされてきた。
非魔科学的だと、光の扉の先はただの異世界であるとの見解もある。
神の住まう処にしては現れる道具類がこの世界の物に近過ぎるから、と。
しかしこの考えはあまり大きく広まっているものではない。
殆どの人間が、光の扉の先は神界に繋がっていると認識しているのだ。
それはある意味この世界の常識であり、一種の信仰とも言えた。
ともかく今回の光の扉出現でその場所周辺を調べるも、何も出て来た痕跡が見当たらなかったという報告が一つ。
次にいつも通りの研究の報告が一つ。
そして最後に一つ。
異様な状態の魔物が現れたという報告。
元々大した力も持たず、魔力の少ない『ウラス』は、よく街でも見掛ける一般的な鼠の魔物だ。
街を歩けばその辺で野垂れ死んでいる姿もよく見かける。
しかし報告にあったウラスは異様な姿で瀕死状態に陥っていた。
灰色の毛皮は濃くなり黒々と艶があり、黒い筈の目の色は深い青に変わり、そして何より外見の変化など些細な事とでも言う様な魔力の変化。
小さな身体には支えきれない程の濃密な魔力がこの魔物を苦しめていた。
暫くの後、そのウラスは耐えきれず息を引き取ったが、何故この様な事態に陥ったのか理由は不明。
自然の中に偶に出来る魔力溜まりと呼ばれるスポットに入り込んだ生き物がよくかかる“魔力酔い”進行が進んだ“魔力中毒”と似た症状である為、その魔物は自分以外の、それも相当濃密な魔力に当てられたと考えられた。
仮に死に至らしめる程の魔力溜まりがあるとすれば、早めに見つけ出し、対応しなければ危険である。
久し振りに研究のしがいがある報告に、博士は興奮を抑えられなく、久し振りに出社したにもかかわらずそのまま泊まり込み、ひたすら研究に身を投じたのだった。
◇
天気は雪。
いや、吹雪。
以前約束をした家族揃っての街へのお出掛けは、一メートル先さえ見えない風雪により破談になった。
楽しみにしていた休日は、皆で家で過ごす事となり、ナミナとトトは不満で眉を寄せていた。
「せっかくの休みなのに!」
「なのに!」
頬を膨らませ、ベッドでゴロゴロと転がる二人。
黒羽は苦笑いを浮かべ、それを見やった。
「仕方ないでしょ、外がこんな天気じゃ出るに出れないし」
黒羽と同じ様な表情をしながら言うユミール。
楽しみにしていた二人はどうしても納得出来ないらしく、転がっていたと思ったらベッドから飛び降り、窓へ寄り外を眺めている。
ソワソワと落ち着きなく、あっちへ行ったりこっちへ来たり。今からでも雪が止まないかと期待する。
しかし期待も虚しく時間は過ぎ、日が暮れる頃になってようやく雪が止んだ。
日中の吹雪が嘘の様に晴れ渡り、満面の星空が広がる。
「今晴れても……遅いよお……」
涙目で窓から空を見上げる二人。
いつもならその綺麗な空は喜ばれる事はあれど、こんなにも憎まれる事は無い。
「いつまでもぐちぐち言ってないで、ほら、ご飯食べちゃいなさい」
言われるまま食卓に着き夕食を済ますと、食後のまったりとした時間になる。
黒羽はそんなのんびりとした空気の中、決意した。
「あの……話が、あるんです」
このまま此処に居て哲哉を探すのも、見付かるのを待つ事も、もう限界だった。
軍に任せていても、ただの一般人を本格的に捜索する訳がない。そしてこの街は探し尽くした。
黒羽と同じ様に言葉が通じない人間なら、すぐに見付かってもおかしくない。
それが、探し始めてから既に二ヶ月。
未だ見つかる事のない現状に、黒羽はようやく全てを話す事にした。
「俺は……此処に来るまで魔法というものを見たことが無いんです」
いきなり違う世界から来たなんて信じて貰う事は難しいだろう。
だから黒羽は自分が居た場所の常識を話した。
目を軽く見開いて驚く四人に、黒羽は恐る恐る続ける。
「魔力素なんて無いし、魔法なんか物語の中やゲームでしか無いし……」
「ちょっと待って、それは……」
慌ててアマニスは言葉を遮る。
魔法が無いなど、この世界で生きる限り有り得なかった。
地球で言う所の電気の様なもの、いや、電気より身近で便利なものである魔法はこの世界では当たり前。
それを知らない、見た事が無い、更には魔法など無い処に居たなどと信じろと言う方が無理がある。
ナミナやトトはあまりの想像を超える黒羽の話に付いて行けず、口を開いたままの間抜けな顔で呆けていた。
「その、つまり……違う世界、から、来たみたいで…………」
反応が恐く、絞り出すように言った声は小さく聞き取り難い。しかし静まりきったこの空間では嫌にはっきりと響いた。
頭を心配されるかもしれない、正気を疑われるかもしれないと俯いた顔を上げることが出来ずに反応を待つ。
もしこのまま精神科にでも連れて行かれたらと考える黒羽は、怯えながらもゆっくり目線だけを上げた。
「違う世界って……ほんとに?!」
トトが一番早くに正気に戻ったらしく、興奮したように黒羽に詰め寄る。あまりの勢いに仰け反りながら黒羽は頷いた。
「う、うん。どうやらそうらしいと言うかそうなんだよ、信じられないかもしれないけど……」
トトが信じてくれるのは何となく予想がついていた黒羽。まだ小さい彼は疑うことを知らない。
残りの三人を見ると誰もが複雑な表情を浮かべていた。
ああやはり信じてはいないなと少し落ち込む黒羽。ナミナとユミールはどう反応すればいいのか困っている様で、視線をさ迷わせていた。
「……病院にでも連れてきますか? 頭の検査でもします?」
投げやりに黒羽が言うと、慌てて首を横に振る女性二人。
「ううん、ごめん、信じるよ」
ユミールの言葉に頷いて同意するナミナ。本気で信じてはいない様子だったが、黒羽の事を病気扱いにはしないらしい。
「ね、お父さん!」
同意を求めてアマニスの顔を伺うナミナに、彼は気付くのに遅れ、「あ、ああそうだな」と慌てて言葉を返すも、その姿に黒羽は少々違和感を感じていた。
気になりつつも、詳しい話をせがむトトに急かされ、黒羽は自分の居た世界について語る。そのせいでアマニスに対しての違和感は霧散してしまった。
自分が暮らしていた世界、生活、文明。知っている限りで説明出来る事は質問に答え、ようやく探している友達の話になると四人は驚いた。
黒羽だけでなくもう一人、違う世界から来ていた。話の流れからすれば、黒羽の探している友達が異世界から共に来た事は想像するに難しくない。
が、しかしそれでも今までの常識から考えても、異世界から人が来るなどというおとぎ話のような出来事が、二例も起こると言うのは信じがたい事だったのだ。
何故あんなにも黒羽が焦り、友達を探していたのか。その理由が分かり、三人は納得した。
この話が本当ならば、その友人は黒羽と“同じ”なのだろう。
言葉も通じず常識も分からず、右も左も分からない状態で独りきり。
黒羽は運良く親切な人間と出会えたが、その友人はどうだか分からない。
軍に頼りきれないのは、彼にとってその友人はこの世界でたった一人の同胞であり、だからこそ下手に大事になり軍……国に知られる事はなるべく避けたいのだと。
黒羽の話した衝撃の事実から数日。その内この家を出て、本格的に友人を探したいという黒羽に、アマニスは一つの仕事を紹介した。
それは彼の職場である大きな研究機関での雑用――つまりは家でのアマニスの手伝いを、職場でもして欲しい、と言う事だった。
何でも、最近大きな研究が入り、しばらくの間泊まり込んで研究をするらしく、アマニスはその間黒羽を連れていきたいと言った。
仕事としては難しいことでも無いし、何より仕事に対しての賃金がかなり高く、旅立つ為の資金を貯めるには丁度良い。
コネ入社のようで気分は良くないが、こんな所で立ち止まる訳にはいかない黒羽は喜んでそれを受け入れた。
「アマニスさん、この資料、こっちの棚で良いですか?」
まだ単語位しか――それもじっくりと眺めないとだが――読めない黒羽には資料整理はなかなか大変であり、時間がかかる。
果たして役に立っているのかと疑問に思うも、そこは“仕方ない”と諦める事にした。自分の事は“猫の手”だとでも思ってもらうしかない、と。
勿論文字を覚える事は忘れない。
今は居るか居ないか分からない位役に立たないとしても、猫の手でしかなくとも、せめて資料整理くらいは一人で出来るようにならなくてはアマニスに申し訳ない。
「ああ、それは――ここ一年の魔力素数値はそこの隣の棚だよ」
「分かりました」
アマニスはそんな黒羽が分かりやすいように、資料の題名を伝える。
何度も同じ様なことをしている内に黒羽は同じ単語を見つけ、それを覚える。
そして覚えた単語から推測を立てる。
ゆっくりとだが確実に前に進んでいた。
昼に近い時間でアマニスが休憩をとるため黒羽を食事に誘う。
黒羽は、ようやく疲れた体と頭を休められると喜びつつ、後を追い社員食堂へ向かった。
かつての黒羽の通っていた学校の一クラス分程の広さで少々狭く感じるも、清潔感漂う奇麗な食堂ではある。
そんな場所に来た黒羽とアマニスは窓際の日差しが差し込む席に着いた。
「飲み物は?」
「あ、じゃあ紅茶で」
地球にあった紅茶と似た飲み物があり、やはりその見た目から紅茶と呼ばれていた。
それを料理と共に注文する。
疲れていたせいか、思ったよりお腹が空いていたらしい黒羽は、十分も掛からずに平らげてしまった。
紅茶を飲み、満足気に吐息を吐く。
「ご馳走様でした、美味しかったです。でも……ユミールさんの料理の方が美味しいですね」
「はは、ありがとう。だけどしばらくはこの食堂で我慢してくれるかい?」
アマニスは、妻を褒められ、満更でもないように笑った。
食後の休憩に二人でのんびりと会話をしていたが、不意に黒羽は眠気を感じ、瞼を擦る。
腹が膨れたからだと眠気を振り払おうとするも、日差しの暖かさにも追い討ちを掛けられ、思考は微睡んでいく。
まだ仕事があるんだ、眠っちゃ駄目だ――そう考えながら“異様な”眠気に逆らえずゴツリと頭をテーブルに打ち付けた。
いたい……
そこで黒羽の意識は途絶えた。
◇
ゆっくりと重たい瞼を開くと見た事の無い天井が目に入り、此処は何処だろうとまだうまく回らない頭で考える黒羽。
やがて徐々に意識が覚醒し、がばりと勢い良く飛び起きた。
「やば……っ、寝ちゃったよ!」
見ると周りには似たような小さめのベッドが何台かあり、恐らくは仮眠室だろうと見当をつける。
近くの扉を開いて外に出ると、アマニスの研究室だった。
「すみません! 寝ちゃってたみたいで……」
机に座り、周りを本や資料等で埋め尽くしながら書面と向かい合っていたアマニスに頭を下げる。
慣れてない仕事に疲れていたとはいえ、寝入ってしまい、仕事を放り出してしまうなど言語道断である。
叱られて当然、普通の仕事なら下手をすればそのまま首を切られても文句は言えない。
「ああ、起きたんだね。疲れていたんだろう? 仕方ないよ。あ、そうだ、ちょっとこっちの資料片付けてくれないかな」
それなのにも関わらず、アマニスは叱らなかった。
叱られるだろうと構えていた黒羽だったが、まるで気にしてない様子のアマニスに呆気にとられる。
人が良いのか、それとも黒羽が居ても居なくてもあまり変わりがないから怒る必要も無いとでも考えているのか。
後者なら悔しい、と黒羽は少し唇を噛んだ。
……しかし、妙にあの眠気は逆らえなかったな?
首を傾げながらも言われた通り、資料を片付ける黒羽。
数時間しか経ってないと言うのに、ここまで散らかせるものかと黒羽は少し変な尊敬の念を覚えてしまったのだった。
そんな日が続き、読み書きにも徐々に慣れ、仕事もなんとかうまくやれるようになった黒羽は、いつもの様に乱雑に置かれた本を元の場所に戻していた。
「え、と……これはこっちで……」
やはり気を抜くと日本語を口にしてしまう黒羽、アマニスには理解不能な言語で呟きながら仕事を続けていた。
静かに、紙の擦れる音が響く中、いきなり研究室の扉が勢い良く開かれ、赤い髪の男が慌ただしく部屋に入って来た。
「フェンデルク博士! このデータは一体何なんだ?」
若草色の髪に同色の瞳、アマニスと同年代と思われる男は片手に一枚の紙を持ち問い詰める。
「いきなり何だい? 資料が散らばるじゃないか」
「いきなりはこちらの台詞だ! 一体このデータのサンプルは何処の何だ?!」
そこで、それまで全く手元の書類しか見ていなかったアマニスがようやく顔を上げ、目の前に晒されたその紙を目にすると、彼は奪うように両手でそれを鷲掴んだ。
「これは……まさか、本当に……!!」
猛烈な速さで鷲掴みした資料を読むアマニスと、それをやや興奮した面持ちで待つ男に、黒羽は思わず片付けていた手を止めてその様子を眺めてしまっていた。
お互いに興奮しているのか交わす言葉は早く、聞き取ることは難しい。
まあ、聞き取れたとしても黒羽には理解できない話だろうと、再び手を動かし始める。
あと数冊で終わるだろうという時、いつの間にか席を立っていたアマニスが黒羽の肩を叩いた。
「黒羽、すまない……少し出て来る。恐らく遅くなるだろう。君はもう上がって良いよ」
「え? あ、はい。じゃあこれだけ片付けちゃいますね」
残りの何冊かを手に取り頷くと、アマニスはその男を連れ、部屋を出て行った。
本棚に本を戻し、パンパンと手を叩いて埃を落とす。
『魔力と血の関係性』
『魔力酔いとその対処法』
『魔力泉の湧き出る理由』
――様々な魔力に関する本。
良く見ればアマニス自身が著者である本もちらほらと見える。
今までは家で手伝っていた黒羽は、アマニスがなかなかに有名な魔科学者であった事を知り、驚いた。
普通なら例え雑用でも雇ってなどくれないだろう。黒羽は自分に都合の良いばかりの幸運に感謝しながら未だに会えぬ親友を思った。
――哲哉、お前は、大丈夫なのか? この仕事を終えたら、絶対に探しに行くからな。
地球では本当にただの友達で、親友で、悪友で。
――“友情”? なんだよ、そんな恥ずかしい言葉。
まともに考える事なんてしないその関係なんて軽いもの。
お前の為なら命懸けてやる――なんて、ドラマや漫画だけだと。
それでも、今感じている“これ”はなんだと。
それはただこの世界で唯一“地球”を感じることが出来るからかもしれない。
だから執着しているだけなのか。
こんな、恥ずかしい様な感情な訳が無いと“言い訳”をしてみる。
独りじゃ駄目だ。独りを認めたら狂ってしまう。必ずこの同じ世界“ファブニル”に居る筈だ、探し出して、一緒に帰るんだ、と。
もはや黒羽にとって哲哉の存在は“この世界”での生きる希望となっていた。
地球での生活で得た常識や価値観は、そんなにすぐ変えられるものではない。
例えこの世界に、誰もが憧れる夢のような魔法という存在があったとしても、まるで現実感のない生活に日ごと“何か”が奪われる感覚を覚える。
それが何かは分からないが、まるで足元がふわついて、立っているのが分からない様な。
それこそ夢の中に居るような感覚に陥っていた。
この研究所へ来てから、寝るのは研究室の隣のあの仮眠室だった。仕事時間などは決まっておらず、アマニスは一日中研究を続け、黒羽はそれに付き合っていた。
だがアマニスが何処かへ行き、仕方無く早上がりした黒羽はやることも無く、仮眠室でゴロゴロと横になり暇を持て余していた。勉強の為、本でも読んでみようかと先程しまった本棚から適当な本を取り出す。
深緑色に染められた革のカバー。指二本程の厚さのその本は、何度も読まれているようでカバーが擦り切れていた。パラリとめくると、ここ数日でよく見る単語が目に付く。
――魔力……種類……魔法……て、この……を見ると……――
全て読める訳ではない言葉の羅列を眺め、意味が繋がらない文字を目で追う。
何回も見れば分かるようになるだろうか?
ベッドに横になりながら読み進める黒羽は、部屋に白い気体が充満し始めた事に気が付かなかった。
少し甘い匂いが、かろうじて、感じられる程度……――
少し、お話が動いてきました。(ニヤニヤ)




