新築でも田舎なら
前章にも述べたように、私たち一家は私と姉が高校生のとき、両親が新しく建てた家に引っ越した。
それまで住んでいた家は、氏神さんの森やお大師さんの井戸(弘法大師の井戸)への小道、竹薮や山道がある田舎の村とはいえ、一応その村落の中にあった。
年越しには門口に提灯を飾り氏神さんへ甘酒をいただきに鍋を持って行き。年に一度、お大師さんの井戸の井戸がえ(井戸掃除)をし。秋祭りにはお相撲さんがやってくる。
私がほんに小さい頃はそのような行事事のまだ行われている村であった。
…残念ながら今では井戸がえのみが残っているのだが。
一家が引っ越したのは北側の村外れ、左右が田んぼの道をしばらく進んだ先である。舗装された道なりに左に進めばしばらく行けば隣村。右に曲がれば一応車が通る幅はあれども舗装されていない地道。で、その地道の行き止まりに当家がお米を作っていた田んぼを宅地にして建てられた我が家がある。
手前には四軒の家が田の字のようにあり(この四軒も元は田であった場所に建っていた)、我が家から先は畦道しかないような場所であった。
長閑なもので、この五軒の住人もしくはその来客以外は通る人影も無く。
斜め裏のお宅は、そこそこ大きな犬を放し飼いにし。
裏の小山には雉が鳴き。
イタチは後ろ足でひょこりと立ち上がる姿を見せた。
そして我が家では新築だというのに木造・土壁・木製のガラス戸、開けっ放しの玄関がいけなかったのか。それより何より立地条件の所為なのか。
前の家と違うのは水洗トイレになったからか、ハエの姿を滅多に見なくなったことだけで。
その数は減りこそすれ、油虫と脚高蜘蛛様のご尊顔を拝むこととなり~いや、激減したといってもよいのだが、如何せん特に蜘蛛様とはおさらば出来たと思い込んでいたのでショックが大きかったのである~、その上、見たくも無い新顔を目にすることと相成ったのである。
先の家が店・工場であったため、両親は朝早く村内の工場へ向かい、昼食時、自宅への来客時、そして一日の仕事を終えてからしか滅多と家に帰ってこなかった。
そんなであったので、依然として家事は私たちと祖母が主にこなしていた。
そうして私が風呂場で洗濯をしていたある時。姉が勝手口横にあったブルーシートを片付けようとそれをめくりあげたその下に。
とぐろを巻いた「まむし」がいた。
今でもその瞬間のこわばって動けなかった姉の姿をまざまざと思い出すことが出来る。
ほんの1メートルも離れていない足元に大きなまむしがいるのだから当然で、私も何も出来ず固まったままであった。
その時。
「じっと しとっきゃ」
と言った祖母が鍬をおもむろに持ってきて振り上げたかと思うと。
「がしん、がしん」
と、何度か鍬を振り下ろし、まむしの頭を切断したのである。
以前から祖母は
「田圃にはハビ(祖母はまむしをハビと呼んでいた)がおる。」
と言い、頭が三角やからすぐ解ると教えてくれていたのだが、さすがにこんな間近でのご対面は私たちにとって初めてのことであり。
頭がほぼ千切れているのにまだひくひく動いているずんぐりと太いまむしを見て、祖母の逞しさに驚いた。私と姉だけではどうなっていたかと思うとよくぞ祖母がいてくれたものだと感謝したものだ。
いやに手馴れているように思えたのはそれだけまむしと出会うという経験を重ねてきた、ということなのだろう。
山裾の田畑には、必ずといってよいほど土手、石垣があり、用水路がある。
移った家も元々田であったのでご多分に漏れず。
諸々の好条件により住み着いているのが、まむしであり。
このとき以外にもほんの偶にではあるが見かけて飛んで逃げたものである。
我が家では引っ越す前から九官鳥を飼っていた。
上手に喋り、まるで返事をしているようであった。
当然新居にも連れて行き可愛がっていたのだが、あるとき鳥かごから忽然と消えてしまった。一体どうしたんだろう、逃げたのだろうかといっていたのだが、床下に九官鳥の羽が散らばっているのを見つけた。
おそらくヘビか猫に捕らえられたのだろう。
今から思うに村外れに引越し、知り合いとも離れ、おまけに昼間は私たちも学校にいき誰もいない家での祖母の無聊を慰めてくれていたのであろう。
空の鳥かごを前に物に動じない祖母が寂しげであったのを思い出す。