スーパーの袋 前編
日本が未だ貧しい明治に生まれ、戦中戦後ととりわけ物の無い時代を生きた祖母は、とにかく物を大切にした。つまりは、なかなか物を捨てなかった。
足袋や肌着に穴が開けば継ぎをあてる。包装紙や梱包に使ってあったリボン、紙紐は仕舞っておく。
前掛けは座布団同様、端切れを集めて縫ったもので。
今あるものを新しく買いなおすのは余程のことであり、少々の難があろうが辛抱して使えるうちは手入れして使い続けていたように思う。
また、当時暮らしていた我が家にしても土間の横、上がり框には冬場には火鉢が置かれ。壁際にはガラスの代わりに虫除けの網の入った水屋が置かれていて。台所は竃さん ~かまどのことである~ のある土間。お風呂は五右衛門風呂、つまりはゲス板を踏んでお湯の底に敷いて入るものであったため、小学校低学年頃までは到底一人で入れなくて。
その他もろもろ、思い起こせば時代から少々取り残された感も否めない環境であった。そして両親共に揃い そうも不自由なく育った母にとり、嫁ぎ先のこの環境は中々に辛く馴染めぬものであったことは想像に難くない。
そもそも祖母とは日中一緒に何かをして遊んでもらった記憶もそんなには無く、家事を仕込んでもらう過程でのやりとり、祖母が内職をしている横でのひと時やその手伝いなどが日常での主な祖母との過ごし方であった。
それでもそんな生活の中で。
年に数回電車に乗り3、4駅離れた町の商店街に姉と一緒に連れて行ってもらい。
おうどんを、ほんとに偶に食べて帰り。
お土産に鳥の腿肉の照り焼きを買ってもらう。
両親が忙しく、学校が休みだからといっても外出も滅多と出来ず。そんな私たち姉妹であったので、祖母に連れて行ってもらうそれをとても楽しみにしていたものである。
思えばこれが自分自身にもお金を使わず節約してきた祖母の精一杯であったのかもしれないと、今は寂れてしまった駅前から伸びる商店街の当時の賑わいとともに懐かしく思い起こされる。
小学校高学年、そして中学生になり、家事も何とか教えてもらった範囲ではこなせるようになっていった私は、祖母と共にいる時間が段々と少なくなっていった。そしてそれに従い共に出かけることも無くなり。
そうして母と祖母、双方との距離感が等しくなるなかで子供の私に影響を与えていったのは、母の日常発する言葉の数々であった。