かいな
最後の段が言葉足らずであったため、書き足し・訂正をいたしました。申し訳ございません。
祖母は頭痛持ちで、よく市販の頭痛薬や、売薬(置き薬)の頭痛薬を飲んでいた。また、肩凝り性でもあった。
私も情けないことに小学校中学年からすでに肩をこらせていて、よく祖母と揉みあいをしたものである。
祖母の、太くて逞しい手でゆうるりと揉んでもらうととても気持ちが良かった。特に首筋をさすってもらうのが、大好きであった。
と、いうように。まずは大抵私から揉んでもらった後に祖母を揉む。
到底上手とはいえない孫の揉み方、また、肩たたきであっただろうが、気持ちよいと言ってくれた。
だか、如何せん腕力も持久力もさらには忍耐力も足りない小学生である。もうちょっとここを、となると、面倒さが表れていたように思われる。
そうなってくると祖母は、
「あと、かいなだけもんどいてや」
と、毎回、私に言っていた。これが出ると、仕上げである。
腕を、ぎゅっぎゅっと揉み解して終了だ。
そんな調子であるのだが、
「あぁすっとした、気持ちよかったせぇ」
と、言ってくれ。
私は終わったことにほっとするとともに、ちょっとした後ろめたさを感じたものだ。
ところで、この日常使っていた「かいな」という言葉や、他にも普段祖母が自然と使っているので当たり前のように思っていた言葉が、古語辞典に載っているようなものだと後に知り、驚いたものである。
かいな、おとがいなどといった体の各所を示す言葉や、願うなどの言葉の、今との意味の違いなど。明治の前は、そういえば江戸時代なんだと、教科書で習った時代が、ずっと昔だと思っていた時代が実はすぐそこなんだと解り、その流れの中で生きてきた祖母を、改めて見つめなおした。
そのまさに激動の時代の生き証人のはずの祖母であるのだが、自分の来し方についてはとんと話を聞いたことがない。
何かの折に、たとえば端切れを見たとき、裾上げの仕事をどこそこでしていたというようにぽつりと話はするのだが、それだけである。
そんな祖母なのだが。
小学校で、家人から昔の話や戦争体験を聞いてくるという宿題が出たときのことである。
祖父は昭和19年に南方で戦死している。
祖母は、詳しい話はしてくれなかった。
食べるものも何もかも足りなかった、疎開してきた人がたくさんいたとは教えてくれた。
山の向こうがまっかっかやったと教えてくれた。
そしてそのあと。
「戦争なんか二度といらん。」
と、ぼそりと言った。
私が成人し、結婚し、そして子供を産み。そうなってみても祖母から見れば孫など、どうやってもいくつになってもまだおしりに卵の殻がついているようにしか見えないのであろうか、しんどいと弱音を吐くこともなく、ぐちさえもまたろくに聞かせなかった。
その祖母が言ったこの一言は。
当時小学生であった私の心に、この祖母がそこまで言うほど嫌だったのかと、恐ろしかったのかと印象深く焼きつき。
弱音を見せることのない祖母により新たにぐちの上書きをされることも、
弱音の上書きをされることもなく。
私の耳に、心に。
今も染み付いてしまっている。