縞の座布団
私の家には母が嫁入り道具として持ってきた座布団や、両親が新しく購入した物以外に、昔から普段使いとしている座布団があった。
ペタンとした、煎餅布団ならぬ煎餅座布団である。
今思うと貧相なそれは、座布団カバーのサイズより少し小さく、細長い布を何枚か接いで出来ていた。
祖母はたまにそれの側面の糸をほどき、中の綿を干していた。
昨今目にするような白くきれいな綿ではなく、茶色のつぶつぶのまじった、晒されていない、よく言えばオーガニックコットンであろうそれは、所々何かをこぼしたような染みもあり、薄汚れて見えた。
外して洗濯した座布団の側が乾けばまたその中に綿を入れて綴じる。そうして長年使ってきたのであろう。
また、洗濯といっても洗濯機は、そんなものの2,3枚では使っていなかった。我が家には古い洗濯板があった。手で洗い、すすぎ、糊付け ~祖母は糊をかうと表現した~ し、干す。
そうやって長年、本当に長年使ってきたのであろう。
あるとき祖母が、端切れを出してきているところに出くわした。昔、ズボンの裾上げの仕事をしていた時の、端切れだとのこと。その中に、縞の座布団と全く同じものがあった。
そうか、こうやって集めた端切れを大切に使い、座布団を作ったのだと、初めて知った。
苦労したとも、苦しかったとも言わない。お金がなかったとも聞いたことがない。
祖母にとってはそういう生活がごく当たり前、当然のことであり、普通の生活だったのであろう。
晩年認知症が進んだころ、母が、座布団の整理をするといい、祖母のそれを処分した。
捨てないでと言いたかった。嫌だった。祖母の生き様を、否定されたように感じた。
でも、反対は出来なかった。
私は、両親が一生懸命働いてきてくれた間、祖母と過ごした。
私は、祖母が黙って生きてきたのを横で、物心ついてから今までの期間ではあるが、見てきた。
だから分ることがあり、見えるものがある。
母は、嫁いできて一生懸命働いた。
母は、あまり祖母と接していなかった。接する時間もなかった。
だから理解出来ないことがあって当然であり、思い入れも少なくて当然なのだ。
母が悪いわけではないのだ。
どう見てもみすぼらしい。
どう見ても汚い、それが、客観的に見た祖母の座布団なのだ。
理解した。また、言っても無駄だとも、理解した。
感傷だけではいけないことも、理解した。
だが、未だに、捨てられた祖母の座布団を思うとき、目頭が熱くなる。