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猩々の兎  作者: 蓮見 退
4/4

【意義を食った存在】



「バレリオ、サントス! 朝ごはんよ」

 リビングから自分の名前を呼ぶ母の声が聞こえたサントスは、自室のベッドから腰を上げた。

 朝早く起床する曾祖母のソニアはもう家にはいないようだ。朝ごはんの合図はいつもならソニアの仕事だ。そうと決めたわけではないけれど、自然とそうなってしまった家族の習慣。ソニアではなく母が声をあげたということはソニアはもう外出したのだろう。父は畑仕事をしに、ソニアほどではないにしろ朝早くから外へ出かけるので、家族そろって食卓を囲む機会は毎日夕食時のみに限られている。

 この家には現在、サントスを含めて二人しかいない。

「いくら学校がお休みだからって、寝過ごしちゃだめよ。おはようサントス」

「おはよう、ママ」

 薄汚れたエプロンをして朝食をテーブルに並べる母の目の下には、はきはきとした声とは裏腹に濃いくまができていた。

彼女はさきほど、無意識にバレリオの名前を呼んだことに気がついているのだろうか。

「おはようバレ――あっ」

 ほら、また。

 慌てて濡れたままの手で口を塞いだ母を尻目に、サントスは黙って椅子に座り黙ってコップに水を注いだ。

「ごめんなさい……」

 一体母は誰に向かって(こうべ)を垂れているのだろう。

それは間違いなく自分ではないとサントスには分かっていたし、五日前に死んだ双子の弟であるバレリオでもないということもまた、分かっていた。

 温かく柔らかいパンを五脚あるうちの一つの椅子に腰掛けて黙々と口に運ぶ。

隣の椅子には薄く埃が積もっていた。指先でそっと撫でると、本来の椅子の色が細い線となって浮かびあがった。

「どうもだめね……。もうバレリオはいないって、分かってるんだけど、それでも、ね」

 母の短く切り揃えられた髪は寝癖で鳥の巣のようになっていた。整える気力も無いのだろう、とサントスはどこか他人事のように母のやつれた顔を観察する。

「あなたまで殺されなくて本当によかった」

 震える声で言い、母はサントスを抱きしめた。

今にも泣き出しそうな声。必死に嗚咽を堪えた彼女は、何度もサントスとつぶやいた。

 そう。バレリオは殺されてしまった。

 休日でもないのに学校が休校になっている理由の一部も、実のところそれである。

 ここ一週間の間にこの村は変わった。

 殺人はおろか、泥棒や強姦とも縁が無かったこの村で、殺人事件が起こったのだ。

それも相次いで。

狭い村に噂は驚くほどすばやく伝わる。連日村のどこかで不可解な殺人が起こり、村民はパニックに陥っていた。

 今まで事件など起きたことの無いこの村に警備・捜査組織があるはずもなく、村民たちは今日も犯人を特定することもできずにいる。

被害者は皆、体のあらゆる箇所を刃物で滅多刺しにされていたり、頭を鈍器で殴られていたりと、明らかに自然死ではない様子で死んでいたために“殺人”が起きたという事実をかろうじて理解することはできたが、それ以外のことは皆目見当がついていない。

殺人を目撃した者もいなければ凶器も見つからないのだ。

 犯人が見つからないまま数日経った村には、相変わらず殺伐した空気と僅かな緊張感が流れている。

また同時に、被害にあわなかった大半の村民は現実を受け入れることができずに根拠の無い安心感を抱いていた。

自分は殺されないだろう、という。殺人だなんて。まさか自分は、と。

 大事をとって村で唯一の学校は休校となり、自宅謹慎を言いつけられているがそれもほとんど(てい)をなしていないと言っていい。

 二日前にバレリオの葬儀を済ませた我が家族も、遺されたサントスのためにできるだけいつも通りの生活を送ろうと心がけているようで、今日も朝食を食べた後は父の畑仕事を手伝うように母に命じられている。

気を使っているのかもしれない。

 外見だけでいうならば、異なる箇所など何一つとしてなく――太腿の裏に三つ並んだ黒子(ほくろ)まで同じ位置にあった――声も、背丈も、サントスとバレリオは全く同一だった。

いつも一緒に行動をしていたし、それが当たり前のようになっていた。周囲からはさぞ仲の良い双子だと思われていたことだろう。

 その片割れが幼くして死んだのだ。

葬式のときの、大人たちの優しいこと優しいこと。

 かわいそうに。辛いね、といった風に。

名前も覚えていない村民たちが皆泣き叫び、サントスに優しくあたった。

今まで村民に笑顔を振りまいてまわったのはサントスではなくバレリオだというのに。サントスが見知らぬ村民に笑顔を向けたことなど一度としてなかったのに。

名もない大人たちはバレリオの死を心から悲しみ悼み、サントスを心の底から哀れみ、同情し、割れやすいガラスに触れるかのように優しく頭を撫でたのだった。

 姿形が同じだからだ。

 バレリオと同じ顔、背丈、声。その全てが村民に愛され続けたものだった。

それだから、皆は自分に対しても優しいのだ。自分の全てに、バレリオを見ているのだと、サントスは静かに理解していた。

 そして、バレリオが死んでからも彼に助けられているような気分になって、無性にバレリオの横面をはたいてやりたくなる。

 殴る対象である彼はもう、いない。

「犯人、早く捕まらないかな」

 母が口にするのを何度も聞いた。

 とてもじゃないが、

――僕が殺したんだ。

 とは言い出せない雰囲気を漂わせて、母が下唇を噛み締めるのを、何度も。

「外に出るときは気をつけてね」

「うん」

 自分はバレリオのように愛想よく振舞うことも、見知らぬ人に挨拶をすることも、会話で友人を笑わせることもできない。

村民たちの、死んだバレリオの面影へと捧げる無償の優しさは一体いつまで続くだろうか。

「おとなりのティアナさんとラルフさんもまだ見つかってないっていうし」

 見つからないも、捕まらない何も、探そうとする村民がいないのだから当たり前のことなのだが、平和ボケした村の人々はそんなことにも気づいていない。

 村では、殺人のほかにもう一つ事件が起きている。

 若い夫婦の失踪。

畑を三つ挟んだ先に暮らしていた、ティアナとラルフが丁度一週間前に姿を消したのだ。

 彼らのことを夫婦だと認識している者がほとんどだが、実際は少しだけ違う。協会で婚礼の儀を挙げるだけの資金が無いために正式な結婚はまだだと、二人がこの村にやって来たとき言っていたと、バレリオから聞いたことがある。

 ――「内緒だよ」

 彼らが姿を消した日付よりももう少し前のこと。協会で婚礼の儀を挙げることはやはりできないが、自宅でささやかに村民を招いて結婚式を開くのだと、ラルフは幸せそうに語っていた。

 幸せという単語を、絵に描いたような二人だった。

誰もがほほえましい思いで彼らを見守っていた。そんな彼らが姿を消してから、この村は少しずつおかしくなっていったのだ。

言うまでも無く、この僕も。

「二年間何もなかったんだけどねえ……」

 サントスの母は、誰に言うでもなくぼそりと独り言を言うと窓の外に目をやった。

バレリオならば、何気ない母の呟きにすら深くうなずいてみせ、会話を紡いでいくのだろう。

サントスにはそれができず、母と同じように窓の外へと視線を移した。

だれに比べられなくても、比較対象が消えうせても(なお)、自らの中でバレリオと自分を比べる自身が嫌になる。バレリオは死んだのだ。

 母を始めとした多くの村民は、一連の殺人事件の犯人はティアナとラルフではないかと疑っていた。それもそうか、仕方が無いと思う。

 彼らが姿を消したとたんに、悪夢のような事件が起こり始めたのだから。

 だが、真実は違う。

サントスは突然大声で叫びたい衝動に駆られた。村中に響き渡るほどの大きな声で、喉がつぶれるまで。


 僕が殺した。

 

――違う! 犯人は僕だ!

 僕は弟を殺したんだ!


叫びたい。そんな衝動すら押し殺した。

 本当はサントスも、あの日の午後何があったのかよく覚えていなかった。

 ただ、殺した。バレリオを――自分と同じ顔をした少年を殺したという事実だけは脳の奥にこびりついて剥がれ落ちない。

これから先もずっと、忘れることはできないだろう。

 でも、それでも僕は――。

不思議と、罪悪感は感じなかったのだ。

感じることが、できないのだ。


 乾燥した空気と土の匂い。

 傾いた日。

 体中を駆け回る、殺意。

理由の無い殺意に脳が支配されてゆく。

 殺せ、殺せ、殺せ!

誰を? 決まっている。血をわけた、その男を。少年を。

 瞳が熱を帯びる。瞳だけが発熱している。異常な温度になった瞳。

 そして、赤く染まった視界――。



        

            ●




 その日は休日だった。

学校は休みで、宿題も無かった。普段ならばそのような日は友人と遊びにでかけるのが常だったのだが、その日朝寝坊をしてしまったサントスを気遣ったバレリオは友人の誘いを断って午前中を自宅で過ごしていた。

気遣って、というのは語弊があるか。

バレリオはあくまでそうしたいからサントスが起床するのを待っていただけであった。

 目覚めると、既に日が高くのぼっていたのをサントスは覚えている。

 眠りすぎたために重くなった頭を掻きながらリビングの扉を開けると、そこには椅子に腰かけ読書をするバレリオがいた。

 扉が開く音に顔を上げたバレリオと目が合うと彼は眉をハの字に曲げ、苦笑いを浮かべて

「遅かったねー。おはよ」

 と遅すぎる朝の挨拶をした。

「何してるの」

 視線で挨拶に応え、サントスは空いた椅子に腰をおろした。

「何って。サントス兄さんを待ってたんだよ」

 さも当たり前のことのようにさらりと言ってのけるバレリオは本を閉じた。

「遊びに行かなくてよかったの?」

「一人で行くわけないじゃないか」

 そういうものなのか。それは双子だから?

僕がもしバレリオの立場だったなら、一人で遊びに行っていただろうなと薄情なことを思いながら、バレリオの屈託無い笑顔を口を閉ざして受け流した。

「これからどうする?」

 バレリオが足を揺らす。相当暇だったのだろう。早く何か計画を立ててくれ、兄さん。と、無邪気な瞳が訴えていた。

 空腹ではないし、これから友人を追いかける気にもなれない。かといって父の畑仕事を手伝うのはお互いに御免だった。

「そういえば、ティアナさんとラルフさん、結婚式を挙げるんだったよね」

 実際子供であるサントスよりも子供らしく眩しいほどの笑顔で、大量の荷物を家の中へ運び込んでいた彼らのことを思い出した。

「準備、大変なんじゃないかな」

 思いつきで言った言葉だったのに、バレリオは予想以上に食いついた。

「そうだよ! 何で思いつかなかったんだろうなあ。凄く良い考えだよ兄さん! 二人を手伝いに行こうか!」

 のんびりとサントスを待っていたバレリオはどこへやら。予定が決まると途端に「早く早く」とサントスが着替えるのを急かした。

 急かされるままに自室へ戻ると、洋服はベッドに用意されていた。母が置いていったのだ。

放っておくと同じ洋服しか着ようとしないサントスの洋服は、いつも母が用意していく。頼んだわけではないのだが、前に一度「自分で用意するからいいよ」と言ったら「あなたの洋服だけ消耗が激しいのよ。いいから用意されたのを着てなさい」と一蹴されてしまった。

 小麦色の長袖シャツにボアのついた青緑色のコート。畑の土と同じこげ茶色の膝下丈のズボン。少し大きめのコートはもう五年以上使い込んでいる。ようやく丈を詰めずに着られるようになった。

 顔だけ手早く洗ってから玄関に出ると、同じような格好をしたバレリオがボロボロになったブーツを履いて待っていた。

 外は寒そうだったので、できればブーツを履いていきたかったがこれ以上バレリオを待たせるわけにもいかない。

足を突っ込むだけの木靴を履いて、スキップで先を行くバレリオを追いかけた。

 畑三つ分と言っても、自宅からラルフとティアナの家までは走ればものの三分で到着してしまう。単純に伸びる細い道の先に、ティアナとラルフの家が何に遮られることもなく見えた。

畑一つ分の面積はそれなりに大きいが、如何せん数が少ない。

村の人口自体が百にも満たないので、畑を五つ挟もうが六つ挟もうが、感覚的には“お隣さん”なのだ。

 飛び跳ねるバレリオを追いかけ、早足で進んでいると三分もしないで目的地に到着した。今になって、突然押しかけてきて逆に迷惑ではないだろうかと心配になったが、バレリオはもう玄関にあがりこんでいた。慌てて後に続いて玄関にはいる。家の扉は開け放たれていた。

「ティアナさーん! ラルフさーん! こんにちは!」

 バレリオは廊下の奥に向かって高い声を張り上げた。古い家の壁に反響した声が小さくなって戻ってくる。

 ティアナとラルフは自宅で婚礼の儀に必要な道具や衣装を製作する仕事をしていると母から聞いていた。村の中心地へ買い物に出かけていなければ、まず家の中にいるはずだった。

 しかし、日の光に照らされて明るくなった家の中から声が返ってくる気配は、いつまでたっても感じられなかった。

「いないのかな?」

 小首をかしげてバレリオが見上げてきたが、サントスは別のところに意識を集中させていたため何の反応も示さないでいた。

バレリオも慣れたもので、サントスからの反応を待とうともせずに兄の視線の先へ顔を向けた。

 ティアナとラルフの家は、二人が越してきた二年前よりずっと以前からこの場所に建っている。少なくとも、サントスとバレリオに物心がついた頃にはもうこの場所に家は建っていた。

その頃はまだ空き家で、村の子供たちの溜り場になっていたのだが、その頃は、

「こんな足跡なんてあった?」

 サントスは廊下に残った足跡を指差して言った。あまり大きくはない、足跡が廊下に点々と残っていたのだ。

足跡はリビングの方へと向かい、またこっちに戻ってきていた。

「無かったと思うけど……。ティアナさんたちが来てからも綺麗な廊下だったよ、毎日ティアナさんが掃除してた」

「そうだよね……」

 空き家時代にも無かったし、ティアナトラルフ引っ越してきてからもみたことがないとバレリオは言った。

 おじゃまします、と小さく呟いてから木靴を脱ぎ、部屋に上がったサントスは足跡を辿ってリビングへと進入した。サントスに続いてバレリオもブーツを脱ぎ、家にあがった。

 リビングに入った双子は、動きを止めた。

 荒らされたキッチン。何か硬いもので引っかかれたような傷が残る壁。異様な血の臭い。床に散らばる銀の欠片。

「えっ……」

 踏み出しかけた足を止めたバレリオの瞳に怯えの色がうつりこむ。

 何かが、あった。

どう考えても異常な室内の様子に、二人は口を開くことも出来ずに固まっていた。やがて、一足先に落ち着きを取り戻したサントスはバレリオの手首を力のうまく入らない掌で掴み、引っ張った。

「出よう」

「う、うん」

 早足で玄関に向かい、脱ぎ捨てられたブーツをひっ掴んで玄関から飛び出す。足跡の上を走ると、乾いた土は粉々になって形は崩れた。

「サントス兄さん……」

 足を止め、後ろを振り返ったバレリオがサントスの瞳を下から覗き込むようにして言った。身長は同じなのだが、腰が引けていたバレリオはサントスに引っ張られるままに腰を折り曲げていた。

「玄関に靴、一つもなかった」

 悪寒が走った。

「一つも?」

「うん。ティアナさんのブーツも、ラルフさんのブーツも、なにも」

 何だ? 何があった? 

荒らされたキッチンに、無くなった靴。血の匂いが充満するリビングに、血は一滴も残されていなかった。壁についた傷、数日前まであの傷は確かになかった。

 わけがわからない。サントスは不安と恐怖も隠そうとしない弟の顔を見ていられなくなって道に飛び出した。

道にも畑にも人はいなかった。誰でもいい。誰か、誰かに伝えなければいけないと脳が固まりかけた足を動かした。

 何が起こったかは分からないが、何か良くないことが起こったというのは子供ながらに充分理解できた。

そして、若夫婦の家から漏れ出す臭気。これ以上近づいてはいけないと本能が直感している。

 サントスはバレリオの手を放して自宅へ戻ろうと歩き出した。

「兄さん」

 それをバレリオがひき止め、足元に視線を落とす。

「ブーツ、履かせてくれないかな」

 サントスの指先が震えていた。弟に言われて初めて、ブーツの紐を握り締めたまま先を急ごうとしていたことに気づく。

「ああ……ごめん」

 地べたに腰をおろし、力なく笑って「いいよいいよ」と言ったバレリオに、片側の靴を手渡した。

 サントスが握り締めていたせいで緩みきった紐を、小刻みに震える指先で一つ一つ締めていくバレリオを見下ろしていた。

なかなか足首まで到達しない紐が焦りをかきたてる。

早く、と急かしてしまおうか。焦燥と苛つきを言葉にこめて怒鳴ってしまおうか。

「……大丈夫だよ。大丈夫」

 だめだ。急ぎたいのは――早くこの場を去りたいのはバレリオも同じなのだ。ここは我慢しなければいけない。

 僕は、兄なのだから。

 兄、だから。

 兄、なのだ。サントスは、僕は、兄だ。兄だ、から。



 兄なのに?



「ッ!」

 突如サントスの両目を襲ったのは、強烈な痛みだった。

目玉が抉り取られているのではないかと感じるほどの激しい痛み。

「うっ……うあっああああ」

 搾り出された声は痛みに反してか細かった。思うように声が、出せない。

 苦痛の声を上げると同時に立っていられなくなり、両手で目を覆い膝から道に崩れ落ちた。

乾燥した空気と土の匂いが鼻をついた。

 傾いた日が後頭部を照らす。

 体中を駆け回る殺意に発狂しそうだった。

理由の無い殺意に脳が支配されてゆく。

 殺せ、殺せ、殺せ! 誰かが頭の中で喚き散らしている。

誰を? 決まっている。血をわけた、その男を。目の前の、無垢な少年を。

 瞳が熱を帯びる。瞳だけが発熱している。異常な温度になった瞳。

 視界が赤い。前が、見えない。

「っはあ、はあ、っくあ…………」

 それからのことを、サントスは覚えていない。

 バレリオのブーツから紐をそっと抜き取ったこと。

 ゆらりと立ち上がり、バレリオの背後にまわったこと。

 細く白い喉元に当てた紐を力いっぱい引いたこと。

 わけがわからない、といった顔でサントスを見上げたバレリオの飛び出た目を。

 彼はただ、激しい痛みの中で悶えていたのだ。

何が起こっているのかなんて、何一つも理解できずに。

痛みが引き、視界が元に戻ったときにはもう何もかもが終わっていた。

 サントスは自宅からかけ離れた芋畑の中で一人佇んでいたところを母に発見され、自宅に連れ戻された。

何故自分が芋畑なんて場所にいたのかも、全く覚えていない。

 自宅へ戻ると、そこには既に心拍を止めたバレリオと泣き叫ぶ父、そして大きく目を見開いたまま虚空を睨む曾祖母がいた。

 バレリオの亡骸を目にした瞬間に、サントスは思い出す。

断片的に切り取られた映像が体中を駆け回った。ゆっくりと手元に視線を動かすと、サントスの小さな掌のなかには、一本の太い紐が握られていた。




               ●




 麻でできたシャツの上に濃紺のセーターをかぶり、サントスはあの日と同じように木靴を履いて外に出た。

父の畑はここから少し離れた場所にある。そこまでの道程は一人だ。

 今までは二人だったが、仕方が無い。もうバレリオはいなくなってしまったのだから。

 バレリオが死んでから五日が経った今でもサントスは夢の中にいるような気分だった。自分が弟を殺害したとう事実が自分でも信じられない。

 確かにバレリオは出来の良い――良過ぎる弟だった。

自分に無いものを全て持っているように思えた。例えば、子供らしい笑顔。例えば、(みな)を楽しませることができる会話能力。

正直嫉妬をしたこともあった。どう頑張っても、自分はバレリオほど周りの人間に好かれることは無かったし、バレリオが傍にいれば尚更だったから。

 でも、その嫉妬は殺意を抱くまでのものだったのか……?

「……!」

 家を出たところで、聞きなれた声が聞こえてサントスは顔をそちらに向けた。

学校で同じ学年の友人たちが、そこに五人ほどいた。いいや、いたと言うよりは走っていた。

笑いあいながら道幅いっぱいに広がって、こちらに向かって走ってきていた。

 バレリオが死んでから見ていなかった顔に、ふいに懐かしさと刹那の愛おしさがこみ上げてきてサントスは木靴を鳴らして彼らに近づいた。

「や、やあ」

 精一杯口角を緩ませたつもりだったが、どうだっただろう。

友人たちは家の前を少し通りすぎてから足を止め、後ろを振り返った。

「ああ……」

 やはありバレリオのようにはいかないか。

どこか冷たい反応の彼らに若干の違和感を覚えつつも、足を一歩踏み出して語りかける。

「これから父さんの仕事を手伝わなきゃならないんだけど、午後から僕も遊びに混ぜてくれない? どこで遊ぶの?」

 五人は顔を見合わせて眉をひそめた。

背中に冷たい汗が吹き出る。バレリオといたときは、こんな反応じゃなかったのに、どうしたのだろうか。そんなに僕の表情は硬いだろうか。

 バレリオと共に行動していたときには見られなかった反応に戸惑いながらも、サントスは尚も口角を上げながら待った。

 ――が。

「やだよ」

 返ってきた返事は実に無慈悲で辛辣なものだった。

「な、なんで……?」

「そりゃあ」

 五人の中で一番体格の大きな子供が困ったように笑いながら口を開く。

「バレリオがいないんじゃ、お前いてもつまんないし」

 次いで隣の子供も、真っ赤な口を開けて。

「バレリオがいればさ、同じ顔が二つあるから鬼ごっこなんかすると面白かったけど、もうそれもできないし。サントスってバレリオがいなきゃなんも無いじゃん?」

 何も、言い返せない。

開いた口がふさがらず、こめかみに大量の汗が浮いた。ショックかどうかと問われれば、ショックだと答えるが予期していなかったかどうかと問われれば、そうだとは頷けない事態だった。

 つまらない。

 そんなことは自分が一番よく分かっている。

「でも」

「でも?」

 からかっているのではない。この子供たちは、本当に僕のことを――

――必要としていない?

「でも……」

 言葉を続けることが出来ないサントスを鬱陶しそうに眺めながら、子供たちは言い放った。

彼らの瞳が赤く染まっているように見えたのは、僕の錯覚か。

「サントスってさ、バレリオがいなきゃいる意味無いんだよね」

 行こうぜ、と呟いた子供たちはそういい残して走り去って行った。

 彼らの背中に自分の居場所はもはや見えなかった。

こんなにも、狭いものだったのか? こんなにも、自分の存在はバレリオに支えられていたのか?

 意味が無い。

僕の存在意義は、バレリオがいるからこそのものだったのか?

「僕だって……」

 遠くかすみ、もう見えなくなった友人だったはずの子供たちの背中に向けて、サントスは吠えた。

今までに発したいつの声よりも大きく、悲痛な声で。

「僕だって、何で殺したかなんか分からないんだ!」

 何で、何で殺してしまったのかなんて。分かるはずが無い。

毎日毎日出来の良さを比べられようが、しつこいほどに僕を慕ってこようが、僕たちは兄弟だったんだ。

殺せるはずが無い。

僕はバレリオのことが嫌いなんかじゃなかった! 

殺したいだなんて一度だって、思ったことなんてなかったんだ! 

なのに、なのに!

「何で……何で、何で何で!」

 頬を涙がつたい、落ちる。

「どうしたの!? 大丈夫兄さん?」と問いかけてくれる弟はどうしようもなく、死んでしまったのだ。この手で、殺してしまったのだ。

 足から力が抜け落ちて土ぼこりの舞う道に座り込む。

涙がとめどなく眼球から溢れ、嗚咽が止まらない。


 うな垂れる少年。バレリオ否、サントスは大切な弟を――自分の存在意義をも殺してしまったのだ。

あまりに幼い彼は、ひたすらにあの日の自分を呪った。

あの日、わきだす殺意を押さえ込むことができなかった自分を呪った。

「サントス……」

 背後から声をかけられた。僕の名前を呼んでいる。僕を?

バレリオじゃなく、本当に、僕を?

 背後から近づいたソニアは、痛む腰をかがめて力強くサントスを抱きしめた。

「あんたは……自分をも殺してしまったんだね」

 視界が大きく歪んだ。涙越しに見た世界に僕の居場所は、無い。

「そんなことはない」

「えっ」

「口にしてたよ」

 老婆はしゃがれた声で話し、更にきつくサントスを抱きしめた。

「バレリオがいなくなっても、お前さんはお前さんだよ。少なくとも私は、誰がなんと言おうとお前さんの存在を認め続ける。サントス、お前さんは何も悪くないんだ」

 幼く、弱い少年の体に老婆の言葉が染み渡り、涙となり流れ出る。





「悪いのは全部、呪者なんだから」


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