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猩々の兎  作者: 蓮見 退
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【その兎の目の色は何色だった?】


 私たちは毎日、朝日が森から顔を出す頃に起床する。

早起きしなければならない理由も特にないのだが、幼い頃からの習慣はなかなかなおらないものだ。

朝の張りつめた冷たい空気を肺いっぱいに吸い込んで伸びをする。今日という一日の始まりだ。

「おはよう」

 隣に寝具を構える彼に向けて、乾いた声で朝の挨拶を。

ここ二年間近く、朝一番の挨拶の相手はラルフ兄さんと決まっている。それもそうか。両親と暮らしていたあの頃とは違うのだから。

だが、振り返った先にラルフ兄さんの姿はなかった。

「ラルフ兄さん?」

 先に起きてしまったのだろうか。

ラルフ兄さんの方が私よりも早く起床することは別段珍しいことではないので、特に不思議にも思わずに、部屋の窓を開けた。むしろ、私がラルフ兄さんよりも先に目を覚ます方が珍しいことなのだ。

ラルフ兄さんは、いつもなら起床してからもしばらく寝具の上でまどろむのが習慣なのだが、しばしば私の代わりに朝食を作りたがることもある。

たまたま今日がその日であったとしても珍しくは無い。

 なんて。私は眠気が残る頭をたいして動かそうともせず、楽観的にそう考えていた。

 ところが、何の変哲もなかったはずの朝の風景は次の瞬間に一転してしまう。

「ティアナ! 起きてるか!? 来てくれ、ティアナ!」

 リビングの方からだ。聞き間違えるはずも無い、ラルフ兄さんの声がリビングの方から聞こえてきた。

それも、いままでに聞いたことが無いような切羽詰った声だった。

 髪を整えることもせず、乱れた格好のまま寝室を飛び出した。裏返ったラルフ兄さんの声が、私の胸中をかき回している。一体何が――。

「ラルフ兄さん! どうしたの!」

 リビングに入ると、すぐ足元にうずくまったラルフ兄さんの体があった。私と同様に、寝巻きのままで髪も四方八方にはねている。

 そして、うずくまるラルフ兄さんの目の前には、南京錠の開いた鉄の籠と

 ――目を閉じ倒れた二羽の兎。

 干草を敷き詰められた鉄の籠の中には、赤い血の跡が点々としていた。床に敷きつめられた干草には血の痕が無い。おそらく、ラルフ兄さんが新しい干草を敷いたのだろう。

床に敷きつめられた干草の上には、二週間ほど前に我が家へとやって来たばかりの二羽の兎が横たわっていた。

 ――二羽の、私たちの子供。

口元が赤く染まっている。干草についた血は、兎が吐血したもののようだ。

「病気……?」

 外傷は見られない。そうとしか考えられなかった。

ラルフ兄さんも同じように考えていたようで、特に反論することもせずにただ兎の腹を撫でていた。

「どうしよう、このままでは死んでしまうんじゃ……!」

 ラルフ兄さんは、私以上に落ち着きを失っていた。私を見つめる目は、いつもの頼れる兄のものではなく、眼光は幼さを宿している。

私を一人の妹としてではなく、一人の女としてでもなく、母親を見るような目で、私に助けを求めていた。初めて聞く狼狽した声に、焦点を失った目。どうしよう、どうしようと。

「ええ……そうね……ちょっと待って、今……」

 私の声も、いつになく弱弱しくか細いものだった。

顔を覆う前髪をかきあげると、冷たい汗に濡れた髪が指先に絡みついた。

二羽の兎は、私たちの中で想像以上に大きな存在となっていたのだ。

ラルフ兄さんが発した「死」という単語が、私の体の中を鋭く貫く。誰が、何が、死んでしまうというのだろう……。私たちの子供たちが……?

 いけない。落ち着くのだ。

 苦しそうに胸を上下させる二羽の兎に視線を落として、呼吸を落ち着ける。

「獣医は」

「だめだ、この村に獣医なんていないし、僕たちにそんな金はない!」

「な、何か薬になるようなものは……」

「薬!」

 はっとしたように叫ぶと、ラルフ兄さんは寝室へと駆け戻っていった。

数分もしないうちに、リビングへと再び戻ってきたラルフ兄さんの手には、麻でできた小さな袋が握られていた。

「忘れていたよ……。兎を買ったときに、病気になってしまったときにと薬を渡されていたんだ。これを……」

 袋に施された封を開けようと、忙しなく手を動かすラルフ兄さんの後姿を眺めながら、私はどこか醒めていた。

眠気から覚醒した頭が、徐々に落ち着きを取り戻した脳が警鐘を鳴らしている。

何か、何かがおかしい。

「あれ?」

 袋の中から白い錠剤が、一粒だけラルフ兄さんの掌にこぼれ落ちたのを見たとき、警鐘の音は更に大きくなった。

 病気になってしまったときに飲ませる薬……? おかしい、おかしいのだ。

よく考えてみれば分かることだった。兎など今までに一度も見たことの無い私たちには、二羽の兎が本当に何らかの病にかかってしまったのかどうかは分からない。

吐血した、という状況だけを見て病気だと信じて疑おうとしなかったが、兎が病気になったという考えの根拠はこれだけだ。ただ喉に干草を詰まらせただけかもしれないではないか。

 それに、「病気になってしまったとき」と言われて小さな袋一つを渡すなんてことは、どう考えてもありえない。

病院に一度も行った事がない私でもそれくらいならば分かる。病気にはいろいろな種類が存在するはずなのだ。そして、かかった病気の種類によって、薬の種類は異なるのではないか?

人間に限られたことではなく、兎に対しても同じことが言えるのではないか?

 どんな病気にかかるかなど、売り手には予想できないはず。それなのにも関わらず、“病気にかかったときの特効薬”として一種類だけの薬を渡すのは、やはり変だ。

 どんな病気にも効くような薬が開発されたなんて話は聞いたことが無いし、つい先月だって、国王の弟が病で亡くなったばかりなのだ。そんな薬があるならば国王の弟がみすみす死ぬわけがないだろう。

 そして、なによりは薬の数だ。

「一粒、だけ?」

 何故、二羽の兎を売っておきながら、薬は一粒だけなのだろう。

 数を間違えただけ、か……?

「どうしようティアナ、薬が一つしか無いんだ!」

 ラルフ兄さんの揺れる瞳が私を見つめる。頭の奥で鳴らされ続ける鐘の音は無視できない。でも、私はどうすれば――。

ただラルフ兄さんの瞳を見つめ返すことしかできないでいると、ラルフ兄さんは下唇を噛み締めて二羽の兎に向き直った。

片方の兎を抱き上げると、必要以上に大きな声で一気にまくし立てる。

「仕方ない。とりあえずこっちにだけ薬を飲ませよう。すぐに馬を借りて、隣の村の獣医まで行けば二羽とも助かるかもしれない」

「でもお金が」

「大丈夫。お金のことなら僕がなんとかする。思い出したんだ、都市の友人にあてがある」

 お金のあてなど無いことは、考えずとも分かった。そして、ラルフ兄さんの一言で、隣の村には獣医がいるということも思い出す。

「ちょっと待って兄さん。それなら今すぐに隣の村を目指しましょう。薬を飲ませたりなんかしないでいいわ!」

 今すぐにでも薬を口元へねじ込もうとする兄さんの腕を両手で掴んだ。言葉だけでは、今のラルフ兄さんは止まらない気がしたのだ。

 静かに手を止めたラルフ兄さんだったが、首だけを後ろに回転させて振り向いた彼の目は、鳥肌が立つほどに冷えていた。

 まるで私たちを追い出した両親のような――。

 信じられない、と目が、赤い口を開いて叫んでいるようだった。

「君はこの子たちのことが心配じゃないのか……?」

「何を言ってるの、兄さん。心配だからこそよ。心配だからこそ、すぐに医者へつれていくべきなのよ!」

「今ここに薬があるのにか? 隣の村へはどんなに急いだって二時間はかかるんだ。二人(・・)とも助からないかもしれない。それなのに!」

 ラルフ兄さんは落ち着きを取り戻すどころか、更に落ち着きを失っていった。睡魔から開放された私の脳には聞こえてくる警鐘が、彼には聞こえていない。

 睡魔なんかじゃない、もっと悪い魔に憑かれているのではないかと思えるほど彼の目は私を見てはいなかった。

「ラルフ兄さん! 聞いて! ねえ、私の声が聞こえる? 大丈夫、そんなにすぐ死んだりしない! 薬を置いて!」

「黙るんだ! この子達のことを、僕たちの子供だと心から思っていたのは僕だけだったようだね。残念だよティアナ!」

 私の掌から力が抜けていき、ラルフ兄さんの腕が再び動き始めた。

その一言で、私の体から力という力が抜けていくのが感じられる。ラルフ兄さんの腕から離れた私の掌は空を掴み、そのままだらりと垂れ下がった。

「違うの、兄さん。違うの」

 そう呟くが、彼の耳まで届いているとは到底思えない。もはや彼の視界のなかに私はいなくなってしまった。

残った力を振り絞って、なんとか立ち上がる。私の意思とは関係無しに勝手に後ずさりを始める両足が止まらない。

 散乱した干草を踏み潰しながら、どこまでも後ろへと進める気がしていた。しかしそんなはずはなく、私の体はテーブルにぶつかることでようやく動きを止めた。

 それとほぼ同時に、白い錠剤が兎の口内へと消えていくのが見えた。

 頭の中で鳴っていた警鐘が、消えた。

 ラルフ兄さんは、ゆっくりとした動作で兎を干草の上へと横たわらせると優しい手つきで腹を撫で始めた。相変わらず苦しそうにしているが、特に悪くなった様子も無い。


 ……。私の、考えすぎ、だった……?


 しばらくその場にとどまって動こうとしないラルフ兄さんも、先ほどよりは落ち着いているように見える。

 と思ったのも一瞬だった。

 ――やはり、異変は起きてしまった。

「っ!」

 ラルフ兄さんが声にならない悲鳴を上げて、私の隣まで後ずさった。私は、目を大きく開いたまま、ソレから目を離せないでいた。

薬を飲まされていない方の兎と、同じように目を開いて。

 ついさっきまで目を閉じていた、薬を飲まされていない方の兎が突然目を開いたのだ。

それも、尋常でないほど大きく目蓋を持ち上げて。

「ひっ」

 無意識に喉元からもれ出た声を、掌で覆って抑える。聞かれてはいけない気がした。この兎に、音を与えてはいけない気がしていた。

 それから起こった出来事は、あまりにも鮮明な映像として私の脳裏に焼きついている。きっと、ラルフ兄さんもそうだろう。

 

それは、一言で言えば“共食い”だった。


 むくりと起き上がった兎が、傍らで荒い息をするもう薬を飲まされた方の兎に駆け寄ると、耳の先端に噛み付いたのだ。

薬は与えられていないはずなのに、突然動き始めた兎は躊躇無く同族である兎を頭から食らった。

 自分に与えられなかった薬を、奪おうとするように。

 予想できるはずがないではないか。こんなことになるなんて。

兎の赤い目からほとばしる狂気に圧倒され、私たちは何もすることができなかった。膝の力が抜けてしまったらしいラルフ兄さんの肘を支えるのがやっとだった。それすらもうまくいかずに、ラルフ兄さんは私の足元に崩れ落ちるようにして座り込んだ。

 異常だ。どう考えても、この状況は異常だった。

こんなにも残酷な異常を受け入れることも、理解することもできるはずがない。食っている。兎が兎を、食っている。見たままの情報がそのまま頭の中を駆け巡って、激しい吐き気をわき上がらせた。

 みるみるうちに兎の肢体(したい)は赤くそまり、半分以上がなくなり、果てには全身に返り血を浴びた、禍々しい一匹の兎だけが残った。

血に染まった兎は、大きく開いた目をこちらに向けていた。

睨むと言うよりは、眺めると言った方がいいだろうか。どこか無関心な瞳が私を捉えていた。

 いいや違う。

 兎が見ていたのは私ではなく、ラルフ兄さんだった。

ラルフ兄さんの目を、瞳の奥を、眉間を伝う汗の一粒を、凝視していた。初めから私のことなんて見ていなかったのだ。ラルフ兄さんの視界からも、兎たちの視界からも、私の姿は消えていたのだ。

「に、兄さん」

 足元に崩れ落ちた兄さんの方を揺すっても、声をかけても、ラルフ兄さんの瞳は兎の赤い目から逃れられないままだった。

 警鐘が再び大きくなり始める。

 このままではいけない。

「ラルフ!」

 咄嗟にあげた叫び声に反応したのは、皮肉にもラルフ兄さん本人ではなかった。

兎は一度小さく耳を揺らすと、風のように走ってリビングを出て行ってしまった。吐血をして苦しそうに横たわっていたのが嘘のように、兎は(せい)を取り戻していた。

 兎が出て行き、静寂を取り戻した室内に血の臭いが混じった朝の空気が流れ込む。

どういうことなのだ。一体、何が起きたというのだ。

自問自答をする気力もなくなっていた。常軌を逸した現実に、ひたすら打ちのめされることしか出来ない。

そもそもこれは現実に起きたことなのか? 私は夢をみているだけではないのか?

「ティアナ」

 空想に救いを求め始めた私の思考は、ラルフ兄さんの声であっさりと断ち切られた。

足元でへたり込む兄さんは、虚ろな目で鉄の籠を凝視したまま動かない。それでも、私の名前を呼んでくれた。ようやく、私の名前を。

「すまないティアナ。少し、一人にしてくれないか」

「ラルフ、兄さん」

 ゆらりと立ち上がったラルフ兄さんはそう言い残すと、私には目もくれずにリビングを出て行った。寝室の方で扉が閉まる音がする。

 ある朝のこと。

 それは突然に起こってしまった。

 あまりにも唐突で、突飛な出来事。

 リビングに残されたのは、涙を流すこともできずに棒立ちする私と、さっきまでは私の子供だったものの血液と。

虚しいまでにいつもどおりの、村の朝の空気だけだった。




 壁に付着した血の痕を眺めながら立ち続けてどれくらいがたっただろうか。きっと、そう時間は経っていないと思う。

 ほんの数分で、私をとりまく全てがおかしくなってしまった。

 赤い目をした兎を発端に、全てが。

 ラルフ兄さんもおかしくなってしまった。寝室からは物音一つ聞こえてこない。心配ではあるが、今寝室に戻るのは躊躇われる。

もう、私しかいない。

 私一人ではどうもできないが、私が行動を起こさないといけないことも確かだ。いつまでも何もしないでいると、また何かよくないことが起こってしまうのではないかと考えてしまう。

 まず、私は寝巻きを脱いで白いカットソーとスカートに着替えた。

乱れた髪を二つに分け、耳の後ろで結い、飛び散った血で汚れた寝巻きを持って家の外にある水飲み場へと向かった。

 水飲み場で顔を洗い、桶に水を汲んで寝巻きをつけておく。血がおちそうになかったが、寝巻きは今水につけてあるものを含めて二枚しかないので、捨てるわけにもいかない。

 顔から滴るしずくをぼんやりと見つめながら、これからどうしようかと考えているとふいに後ろから声をかけられた。

驚いて後ろを振り向くと、そこには驚愕の表情をした見知った顔がいた。

「どうしたの、そんなに怖い顔をして」

 サントスとバレリオ。双子の兄弟の曾祖母であるソニアが、そこにいた。

(よわい)九十を超える高齢である彼女は、近寄り束ねた髪を一房手に取った。先端に赤い血がついているのを見つけて、私は慌てて身を引いたがソニアも血に気がついてしまったらしい。皺だらけの顔をくしゃりと歪ませ、柔らかな笑顔を作ると、

「何があったんだい」

 と訊いた。ただならぬ雰囲気を感じ取ったのだろうか。いつになく慎重な口調だった。

 私は躊躇った。

あんなにも異常で禍々しい出来事を、他人に話したりしてもよいものだろうか、と。第一、簡単に信じてもらえるとは思わなかった。

また、無礼なことに私はソニアのことも疑った。

何に対しての疑いかもはっきりしていないのに、混乱していた頭は外部の者を必要以上に警戒していた。

何故ここにソニアがいるのかと。村民の男衆が農作業を始めるのも、もう少し後のことなのに、畑を三つも挟んだ先に住むソニアが我が家にいるのはどうしてなのか。

「ソニアさんは、どうしてここに」

 いくら考えても答えがでるはずもない。思い切って尋ねると、ソニアは一つ呼吸を置き、明瞭な声で答えた。

「老人の早起きはなおらないから困るね。私は毎朝このくらいの時間に起きて、朝日を浴びるのが習慣なんだよ。そうしたらどこからか大きな声が聞こえてくるじゃないか? それも大分穏やかでないときた。だから心配になってやって来たら、お前さんがここにいた」

歯の抜け落ちた口を大きく動かし、はっきりと腹の底から空気を押し出す。私の瞳の奥に流れる血の更に奥、脳を見据えるように真っ直ぐな眼差しを私に向けて、ソニアは話した。

「何があったかのかは分からないが、私はただの老いぼれだよ」

私の心の内など全てお見通し、ということらしい。

よそ者の私たちに優しさを与えてくれた村民の一人である彼女を一瞬でも疑ってしまったことが急に恥ずかしくなって、私は下を向いた。

「ババアの出で立ちは不気味だから嫌だね。どうだい、落ち着いたかい?」

「はい…」

「よかったら話を聞かせてはくれないかい。話すだけでも楽になるということもあるだろう」

今度は、躊躇うことはしなかった。

本当に話してしまってもいいのか? と拭いきれない疑念を、高齢のソニアなら私が知らないことも知っているかもしれないではないかと自分に言い聞かせてねじ伏せながら、私は今朝のできごとを口早に説明した。

本当はソニアが言ったように、誰かに話してしまいたいだけだった。今朝起きたできごとは明らかに異常であると、誰かに共感してほしかった、だけなのだ。

ソニアがいくら高齢であるとはいえ、彼女がこの状況をどうにかしてくれるとか、そういった図々しい希望は早々に捨てている。

なんだいそれは。そんなに深く考える事なんてないじゃないか。

兎は何やら奇怪な病にかかってしまったようだが、いずれにせよもう兎はいないのだろう? ラルフさんは子供のように可愛がっていた兎が死んだんで、ショックを受けているんだろう。大丈夫。いずれまたいつも通り、優しい彼に戻るさ。

と。そう言って励ましてくれたら、それでいいのだ。

私が今一番求めているのは、安い同情と年上の人間からの「大丈夫」という言葉。それに、根拠のない励ましだ。

大丈夫と一言、そう言ってくれたなら、私はただ頷いて家へと戻って行くだろう。

私を安心させてくれる気休めが、欲しい。

ソニアさん、ね? 世の中変なこともあるものね。

そんな私の想いを知ってかしらずか、ソニアはかさついた唇を僅かに開いたまま私の話を黙って聞いていた。

そして、私の言葉が途切れた瞬間に、消え入るような声で言ったのだ。

「薬は……本当に一つだけだったのかい」

私の期待しない一言を。

何故? 何故そんなことを、確認するの……。そう口に出したい気持ちを必死に押さえ込んだ。

「ええ、間違いないと思います。ラルフにい……ラルフは、何度も袋の中身を確認していましたから」

「それで、その兎は穴兎という種類の兎だと……そう言うのかい」

先ほどまでのはちどきりとした口調とはうって変わって沈んだ老婆の声に、ただならぬ不吉を感じずにはいられなかった。

「ソニアさん! 一体、一体何だって言うのですか!? 何を、何を知って――」

「いいかいティアナさん。穴兎はね――基本的に兎は草食なんだよ」

「そんなことは私だって――。それが何だって言うのですか!」

「落ち着きなさい。兎が兎を食っただって? いかに異様な光景であったかは想像できるが、実際に目撃することなんぞあり得ない。突然肉食になる病? いいや違うね。そんな病はここ九十三年間聞いたことが無いよ」

「それは、ソニアさんが知らないだけかもしれないじゃないですか」

実際、薬を飲まされた方の兎には何の異常も起こらなかったのだ。

薬が効いた兎は発症せず、薬を与えられなかった兎は肉食となった。筋は通っているように思える。

伊達(だて)に歳とってないよ、私は」

「そうは言っても、この村には医者もいなければ獣医もいないんですよ? 他の、そう、都市では当たり前の病気かもしれない」

「まあいい。もう一つあるんだ」

「もう一つ……?」

「穴兎の目はね、黒いものなんだよ。お前さん」

「……え」

鳥肌が、たった。

異常に大きく開いた兎の赤い目を思い出して。

ラルフ兄さんの瞳を掴んで離さなかった、赤く底光りする兎の目。

目尻の真横を、生ぬるい水滴が下った。

いつの間にか、日は高く上り、男衆の声が四方から聞こえてきていた。

「赤い目の兎も、いることにはいる。だが、お前さんの家で飼っていた兎の毛は茶色だったと言ったね? 一般的に、赤い目の兎の体毛は雪の色をしているんだよ。アルビノと言ってね、知って……いなかっただろうね」

「そんな……そんな」

「この歳になったら、無駄にたまった知恵くらいしか誇れるものがないってもんだ」

なんてこと、だ。“異常”は、今朝突然おき始めたことではなかったというのか。

二羽の兎とラルフ兄さんが出会った瞬間から、異常は始まってしまっていたと――

「無闇に否定しようとするのはやめなさい。お前さん、いいかい。お前さんが今しなくちゃいけやいことは“理解”と“呼吸”だよ。息を吸って、心を落ち着けるんだよ。もしかしたら、時間はそうないかもしれない」

言われた通りに、大きく息を吸う。落ち着け、落ち着け、と言い聞かせてみてもなかなか気持ちは静まらなかった。

私の中に、あの兎がいる。

喉元の辺りで、暴れまわる兎が。

赤い目をした――

「時間がないって、どういうことなんですか」

――まあいい。もう一つあるんだ。

ソニアはそう言っていた。

もう一つ? 小説のなかに出てくる探偵のようだ。えげつなく犯人の悪行を暴く探偵のように、何を立証しようと――何を私に示そうとしている……?

「……呪者を、知ってるかい」

腹が立つくらいに、私とソニアの周りを取り巻く環境は変わらず、のんびりとしていた。

聞きなれない言葉を頑として受け入れようとしない村の空気は、私の肺へとなかなか入ってこようとはしなかった。

“呼吸”が、できない。

「ジュシャ?」

「ああ。呪う者と書いて、呪者だ」

絞り出された自らの声に、信じられないと瞳を揺らす老女を前に、私は、“理解”してしまった。

呼吸と言うにはあまりにも荒い動作で、私は肺にたまった緋色の空気を吐き出した。


呪者。


なんて親切な名前だろうか。

職業? あざな? いずれにせよ、失笑が漏れてしまうほど単純かつ明快。そして忌々しい名だ。

――呪い。そうだ、呪いだ。

呪いという言葉が、どうして今まで浮かばなかったのだろう。

今朝の事象を表すに最も適した言葉は、呪いという非現実的なものなのだ。

病気だなんて、現実的な言葉で形容できるようなモノではなかったのだ、あの兎は。

「私もお前さんの話を聞くまでは忘れていたことだから、詳しくは分からないが……」

この老婆は、驚くほど頭がキレる。

人の機微から、話を切り出すタイミングをしっかりと定めて口を開く。

そうしたソニアの頭のよさが、私に落ち着きを与えてくれた。

「昔流行ったことがあるんだ。呪いなんて大層なものじゃなくて、子どもでもできるようなまじないの類いがね。恋人とうまくいくだとか、お金持ちになれるだとか、そんな可愛いものさ。やがて流行は過ぎ、まじないをする人間はほとんどいなくなったんだが……。質の悪いヤツだけが、残ったときいた事がある」

「それが、呪者ということですか」

「そうだ。呪者なんて呼ばれているが、やってることは通り魔とそう変わらないそうだ。町や都市に潜み、道行く旅人に呪いを渡しているらしい」

……そうだ。……らしい。

口調からも、確証のない曖昧な話だということがよく分かる。

「何でそんなことをするのでしょう?」

「理由なんかないさ。誰でも、どこの村だろうが国だろうが構わないんだ。呪いを使いたくて、誰かを困らせたくて仕方ないんだろうよ。自分が一番呪われていることにも気づいていないんだ」

「ソニアさんは、ラルフは呪者に遭ったと?」

暫し躊躇ってこら、彼女は私から視線をそらした。

「そうとしか考えられないんだよ、私には。見知らぬ中年女からタダ同然の値段で買った二羽の兎。二羽とも同時に病――今となっちゃ病かどうかも怪しいが――にかかり、用意されていた薬は一粒だけだった。なにより、兎の共食いと赤い目……。私にはもう――」

「待ってください、ソニアさん」

私に反比例して落ち着きを失おうとするソニアの言葉を無理に遮った。

「呪いには対象がいるはずですよね」

ソニアは、答えなかった。

その沈黙こそが答えだ。

もしも呪者がいたとして、私たちがその被害に遭っているとするならば、

悪意の対象は間違いなく、ラルフ兄さんだ。

今日、私は一度も兎に触れていない。薬を飲ませたのもラルフ兄さんであるし、兎が去り際に見つめた瞳も、ラルフ兄さんのものだ。

服を着替え、髪を結い、顔を洗い、ソニアと会話を交わせている分、私は正気を保っていると言えるだろう。

あくまで自己申告なので、確証はないが。それでも、ラルフ兄さんよりは自我を保てているように思える。

呪われたのがラルフ兄さんだとしたら――。


――もしかしたら、時間はそうないかもしれない。


ソニアの考えが当たっていたとしたら。



「ラルフ兄さん!」



私は駆け出していた。

ソニアに礼を言うことも忘れて、家の中へと。





               ●


「ラルフ兄さん!」

ソニアは、そう叫んで飛び出したティアナを見てもさして驚きはしなかった。

「兄さん……?」

ティアナが金切り声で兄さんと叫んでいたのが胸に引っ掛かったが、そんなことはすぐにどうだってよくなっていた。そんなことよりも、胸中を掻き乱す不安を早く取り除きたかった。

「本当に呪者に遭っていたなら、大変なことになる……」

独り言を呟きながら、元来た道を戻る。途中、一度ふりかえると、水飲み場に放置されたままの寝巻きが水に浮いているのが目に入った。

視力の衰えた彼女には、その色彩までは分からない。

「呪いは解けるまで続くもの……。そして、恨みのない呪いは蔓延するもの……」

サントス、バレリオ。

曾孫の名前を祈るように呟きながら、ソニアは家路を急いだ。

どうか、老い腐った記憶の蔵から呼び覚ました呪者という存在が、迷惑な老人の勘違いでありますようにと、姿の見えない神に祈りながら。



             ●



 革ブーツの紐をほどくのももどかしく、土足で家のなかに上がり込んだ。

「兄さん! ラルフ兄さん! いるの!?」

村民に聞かれてしまうかもしれない、とそんな心配事は脳の片隅にすら存在していなかった。

生臭い血の臭いがリビングに充満している。壁と床にこびりついた血は――

「……っ!」

綺麗に無くなっていた。

臭いだけを残して、跡形もなく。

いよいよソニアの言った言葉が現実味を帯始めた。非現実が現実味を伴って、私を見ている。背後に視線を、感じた。

キッチンの方から物音がする。鈍い金属音。

襲い来る恐怖心を振り払うために大声をあげて振り返った。

「ラルフ兄さん!?」

そこには――ラルフ兄さんが(たたず)んでいた。

赤く染まった寝巻き姿で、髪は跳ね、素足は血で汚れている。

……血?

「ラルフ兄さん、その血……」

額に前髪がはりついているせいで、私からは彼の表情を窺うことはできない。

こちらから近づこうと足を踏み出す。一歩踏み出したところで、ラルフ兄さんも同じようにして一歩、私に近づいた。

駆け寄って今すぐ抱き締めたいのに、それなのに、足が――動かない。

ゆらり、ゆらりと。長身にみあわない足取りでこちらに近づくラルフ兄さんが、

怖い。

「ねえ、ラルフ兄さん――」

背後の壁に手をついた。


「――その血は、誰のもの?」


声もあげず、足音すらさせず、ラルフ兄さんは迫った。

(ひら)いていたはずの距離はほんの数秒で無いものとなり、すぐ眼前にラルフ兄さんの顔が現れた。

背後に冷たい壁の温度。耳元に金属音。

ラルフ兄さんの手には、一本のナイフが握られていた。私の眉間を貫くはずだったナイフは狙いを大きく外れて右耳元をかすめ、壁に深々と突き刺さった。

刃の一部が砕け、パラパラとこぼれ落ちる。

何が、起きているの。

「にい……さん……?」

鼻と鼻が触れるほどに迫ったラルフ兄さんの顔は、豹変していた。

二羽の兎と同じ赤い瞳。

異様に鋭く尖った犬歯。

その表情一つで、彼を別人に変えてしまう笑顔。

白い歯を光らせ、爽やかに笑ったラルフ兄さんの面影はもはやそこには無かった。

鋭い犬歯を唇から覗かせてニヤリと口元を歪める。赤い目は私を見ているようで、私を見てはいはなかった。

私の声がラルフ兄さんに届いていないのは明白だった。

 壁から抜けなくなったナイフを引き抜こうとするラルフ兄さんを押しのけ、まるで夢の中にいるかのようにうまく動かせなくなった足をもつれさせながら家の外に飛び出した。

ラルフ兄さんにかかった呪いを――解かなくては。

自分でも驚くほど、意識ははっきりしていた。

赤く染まった兄さんの目。兎の眼球をそのまま埋め込んだかのように、どこまでも赤い瞳を、元の黒く澄んだ瞳に戻してあげなければと。

本当に呪いなるものが存在するのか? とはもう考えられなかった。

ラルフ兄さんの周囲の酸素が、彼の体が、瞳が、狂気を発し、身を刺す不の妖気を発していたのを私は身を持って感じ、見たのだ。

しかし肝心の呪いを解く“方法”が分からない。

家の前で立ち止まっているわけにもいかず、私はでたらめに道を走った。

ソニアに相談しようかと思ったが、すんでのところで思いとどまる。

ソニアの家にはサントスとバレリオも住んでいるのだ。幼い彼らを巻きこむのは忍びなかった。

それに、呪者について語ったときでさえ曖昧な話し方をしていたソニアが、これ以上何かを知っているとは考えにくい。

さあ、頼れる他人はいなくなった。

どうする。どうする。どうする!

足を止め、額に手を当ててじっくりと考えたい。だが、いつ追ってくるかも分からないラルフ兄さんのことを思うと、足をとめることもできない。

運動なんて久しくしていなかった体は、走りだすとすぐに悲鳴をあげた。

息があがり、喉が渇き、汗が吹き出る。

目的地を定められないままひたすら走っていると、道がとぎれた場所――つまりは村の端に辿り着いてしまった。

とぎれた道の先には、乾いた色の木々が鬱蒼と茂る森が広がっている。

朝の森は、人間を寄せ付けないどこか神秘的なベールに包まれていた。

今までに森へ足を踏み入れた回数なんて数えるほどしかなく、それも毎回傍(そば)にはラルフ兄さんがいた。

とても森へ入る気にはなれず、村の中心へと戻る道へ右折しようとした、とき――思い出した。

この森を越えた先の町には、この辺り一帯で一番大きな図書館があるということを。

ラルフ兄さんが呪者に遭ったとされる町や首都がある方角とは真逆の方向。

国の外れにあるその村には、宗教書から子ども向けの絵本まで、古書も新書も、と。幅広い蔵書を誇る図書館があるのだ。

――そしてまた、私たち兄妹の実家がある町でもある。

現在も私たちを捨てた両親が変わらず暮らしているであろう、かつての思い出が残る町だ。

 首都にはもっと大きな図書館があるのだろうが、私たちがかつて暮らしていた町の図書館が、私が知る中では最も書物の充実した図書館だ。

 あそこになら、呪いに関する本があるかもしれない。

確証は無かった。だが、図書館以外に手がかりがあるわけでもない。時間も無ければ、悩めるだけの余裕もなかった。

唯一の手がかりを求めて、私はかの町へと向かわなければならなかった。

 私たちがサントスやバレリオ、そしてソニアが暮らすこの村に転がり込んだときは、村の中心部へ直接続く舗装された道を通ってやって来た。ここからは五〇〇メートル……いいや、六〇〇メートルは離れている。

 やはり町の中心部へ戻ろうか。

両親が今も暮らす町へも度つことには全く抵抗を感じなかった。ただ、森へ踏み込むのをできるだけ避けたいという気持ちが、私の足を止めていた。

 何の準備もなしに森へ入るのは自殺行為ではないのか。

森の中に道標(みちしるべ)があるとも限らない。迷うことなく無事町へ辿り着けるのか、どうか。

 遠く、背後でカラスの鳴く声が聞こえた。ガア、と一声。しゃがれた声で。

腹の中で渦巻き、喉元を突き上げる不安を唾と一緒に飲み込んだ。

 舗装された道は一本道である。隠れる場所もなく、ひたすらに赤茶けた道が続くのだ。そんな所でラルフ兄さんの追いつかれてしまっては元も子もない。それに五〇〇メートル以上も先の一本道へ辿り着くまでに私の体力は大幅に削られるだろう。

 少しでも前に。少しでも早く。

 遠くで鳴いたカラスが漆黒の翼で朝の空へと飛び立った頃には、もう。

私の足は細くうねった道を外れ、枯れ草に覆われた森の土を踏みしめていた。


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