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猩々の兎  作者: 蓮見 退
2/4

【異端の兄妹-S】


私は、国の中心地から離れた小さく寂れた村で暮らしていた。もはや過去形で語らねばならないことが非常に悔やまれるほど、その村は私にとって都合の良い村だった。  

村には名前もなければ(おさ)もいなかったが、伝統すらないこの村の村民は(みな)、毎月国へ納める年貢と自分の家族がなんとか生きていけるだけの賃金を稼ぐためだけに働き、時に小さな宴を開いては酒を頭から浴び、穏やかに日々を過ごしていた。

 私はといえば、婚礼の儀に花嫁が身に纏う清純な白を基調としたドレスや、髪飾り、花束にレースのテーブルクロス。これら婚礼の儀に使用する道具を依頼がある度に製作しては売るという仕事を生業に、村に流れる穏やかな空気を吸って生きる村民のうちの一人にすぎなかった。

決して裕福ではなかったが、愛する兄のラルフと二人が生きていくには何不自由無く、私たちは間違い無く幸せだったのだ。誰に聞かれても私たちは幸せだと胸を張れたし、鉛筆を握り締めテーブルに噛り付いていたあの日だって、同様だ。


 両親に勘当されただとか、

兄妹同士の婚礼を教会で挙げることは認められていないだとか、


そういった事実はただただ事実にすぎず、私たちの幸せを邪魔するにはあまりにも非力な事実だった。

 婚姻という名の儀式を、お互いに愛し合う人間同士で挙げるのは至極当たり前のことではないのだろうか。例えそれが同姓同士であったとしても、もう数日も生きていられないような老人同士であったり、血の繋がった者同士であったとして、何の問題があろうか。

 人間にとっての婚姻が単なる子孫の繁栄目的で無くなってからもう随分と経つ。歴史上にも愛に生き、愛に死んだ人間は掃いて捨てるほど見受けられるというものだ。子孫の繁栄よりも愛情や権力が先立ってお互いを抱き合う人間という種は、もはや生き物の輪を外れてしまったと言ってもいいだろう。

 私たちは人間だ。

 しかし、両親はどれだけ説明しても私たちのことを理解しようとはしなかった。まるで化け物でも見るような目をして私たちを睨みつけて、淫乱だ恥を知れと喚き散らし、遂には私たち兄妹を馴染み深い家から追い出してしまったのだ。

 両親だって、お互いに愛し合っていたからこそ婚姻の契りを交わしたのだろうに。決して人間と言う種を繁栄させたいからといって結婚したのではないだろうに。

生き物としての本能よりも先に感情を優先させた私たちは、両親と何ら変わらず人間だったというのに。

それでも両親は、私たち兄妹の間に愛がうまれたという事実が受け入れなかったらしい。


だが、何度でも言おう。それでも私たちは幸せだった。


私たちが兄妹であるという事実を隠して訪れたこの小さな村は、私たちを暖かく迎い入れてくれた。婚礼の儀を華やかにする私たちの手先は、この村の若者にはたいそう喜ばれたものだった。

村にやって来たばかりのある日新婚かと訪ねられたことがあった。本当は国の法律によって血縁者同士の婚礼は教会で行えないことになっていたのだが、貧しいがために教会を借りることができなく、正式な結婚はまだしていないと言うと、村民たちは私たちは村に慣れるまで惜しみなく面倒をみてくれた。

兄妹二人そろって(なご)やかにゆっくりと、着実に年をとっていきたい。たったこれだけの願いを携えてやって来た私たちに、この村はどこまでも優しかった。

 村に暮らし始めて二年が経ち、何も無いが平穏な日々を享受していたあの日も。

ラルフ兄さんが私に告げた、私一人では抱えることが出来ないほどの幸せを日常に溢れさせた一言を聞いた、縫い針を動かしていたあのときも。

「ティアナ、やっぱり僕たち、結婚式を開かないか」

 いつになく真面目な顔でそう言ったラルフ兄さんは、私がしばらく口を開いて呆けていると、照れたように髪を掻いた。

「でも、私たち教会は借りれないし……」

「いいや、この家でだよ。確かに正式な結婚はできないけれど……。この村の人たちを呼んで宴を開くんだ」

「ラルフ兄さん!」

 手にしていた縫い針をテーブルの上に放り出して隣に座るラルフ兄さんの首に抱きつくと、彼の大きな掌が私の髪を優しく這った。頬が濡れているのが分かる。真っ直ぐに床へと零れ落ちた(うれし)(なみだ)の塩辛さを唇に感じながら、私はラルフ兄さんに体重を預けた。

「そんなに大きな声を出したらだめだよティアナ。村の皆に聞こえたらどうするんだ」

「ええ、そうね、ごめんなさいラルフ。でも本当に嬉しいの!」

 ラルフ兄さんは頬を膨らませて見せたが、さして怒っている風でもなく目を細めると、すぐに口元を緩めた。歓喜で火照った私の頬に伸びたラルフ兄さんの冷たい手が心地良い。

 頬を撫でた掌はそのまま首筋へと降りていき、肩の上を滑っていく。

目を伏せ、呟くようにラルフ兄さんは語った。

土の匂いが混ざる午後の空気を、ラルフ兄さんの低い声が揺らす。

「ティアナのドレスを僕が縫って、僕の衣装はティアナが作るんだ。森に出て花を摘んで、家中を花の香りでいっぱいにする。村の子供にお菓子も焼いて、夜は君と二人きりで明かす……」

 黒く澄んだラルフ兄さんの瞳に見据えられながら、低く落ち着いた声で紡がれる私たちの晴れ姿に思いを馳せる。純白のドレスを身に纏う私は美しいだろうか。ラルフ兄さんの隣に並んでも恥ずかしくないくらいに、美しく着飾ろう。

ラルフ兄さんの衣装はどうしようか。多少派手でも構わない。ラルフ兄さんが着るにふさわしい、目が覚めるような黒い生地を使って――

「今まで作ったどのドレスよりも綺麗なドレスを作る……。ティアナの白い肌に負けないくらいに、白くて綺麗なものを」

 うなじの辺りに冷たい人肌を感じた。もう何度も――目で、指先で、頬で、――確認した、骨ばった彼の掌の感触をじかに感じる。

ラルフ兄さんの膝の上に跨ると、高く上った正午の太陽に照らされた彼の(まつげ)が私の眼前に迫った。

ゆっくりと目を瞑る……が、何も起こらない。不思議に思って目蓋を開くと、悪戯っぽく笑うラルフ兄さんの顔が少し離れた場所にあった。

「……もう」

 視線のやり場に困る。こんなことは久しぶりだったのだ。兄妹だということを無理矢理忘れようと、貪るように愛を確認しあっていた数年前の私たちが嘘だったかのように、ここ二年間私たちは緩やかに停滞していたから。

「もう二年だな」

 久方ぶりに聞いた低く腹の底に響いてくるような甘い声に、私の耳が手を繋ぐのが気恥ずかしかった少女時代の私のように赤くなるのが分かった。

「そうだね……」

 うなじにあった冷たい掌が首筋をつたい、私の体側を流れ落ちていく。薄い木綿のブラウスの上を、淀みなく滑るラルフ兄さんの掌を目で追いかけているうち、掌は視線を逃れるようにして膝下まで広がるスカートの下へと姿を消した。川に生きる魚のように滑らかに、白い皮膚の表面を滑っていく。

「あっ」

 冷たく汗ばんだ掌が私の太腿を軽くつねった瞬間、漏れでた声を押さえ込むようにして唇を塞がれた。




        ●




 日が暮れ始めた頃、製作途中のドレスを仕舞い込むラルフ兄さんを背後に夕飯の後片付けをしていると、食器を濡らす水の音の合間を縫って「あっ」という呟きが耳に入った。

「どうしたの?」

 振り返ると、ラルフ兄さんがドレスの材料を保管している箪笥を覗き込みながら唸っていた。

上から下まで引き出しを出しては戻しを繰り返すし、ひとしきり確認し終えるとこちらを振り向いて困ったなと眉をひそめた。

「このドレスを作り終わったら、もう材料がなくなってしまうみたいだ」

「あら」

 水を止めてからスカートで軽く手を拭き、ラルフ兄さんの隣に並んで引き出しの中を覗き込むと、確かに生地も糸も、二人分の衣装を作るには到底足りない量しか残っていなかった。製作途中のドレスは隣の村から依頼されたもので明日には完成する予定だが、今残っている材料では製作途中のドレスを完成させるのがやっとだろう。

「明日買出しに行って来るよ」

「そうね。それなら準備しないと……」

 私たちが暮らすこの小さな村では、婚礼の儀に使用する道具を作るための材料を調達することはできない。足りない分を借りて来ようとしても、この村の村民は主に農業を営んでおり、私たちのように手に職をつけている人間は少数派だ。ましてや婚礼の儀に使用する道具を製作している人間は私たちの他にいないので、村民から借りることは不可能だ。

そもそも、依頼内容の八割を占める花嫁衣裳の製作には上質な生地が必要になる。生活必需品ですらなかなか手に入らないこの村では、婚礼の儀に使うような上質な生地は手に入らない。

 そこで、年に数回安く生地を手に入れるために都市の市場へ赴くのだが、この仕事はラルフ兄さんの担当となっている。その間に私がドレスを完成させ、新たな依頼を受けに近隣の村を渡り歩くのだ。

「きっと良いものを見つけてくるよ」

 都市まではどんなに急いでも片道四日はかかるので、少なくとも一週間はラルフ兄さんの顔を見ることができない計算になる。だが、このとき私は、いつもなら感じるはずの寂しさを感じなかった。

 婚礼の儀を挙げるための計画を練るごく普通の男女とはこういうものなのか。と、意識はもう、ラルフ兄さんが帰宅した後どんなドレスを作るかに向いていたのだ。

 今まで辛いこともあった。死んでしまいたいと思うほどに辛いことも。それでも、今日まで生きてきて本当によかったと、ラルフ兄さんの背中を見つめながら満たされる胸の内から幸せが漏れ出してしまわないよう、両手を胸に当てながら思いに浸っていたのだ。

 ――束の間の幸せであることなんて、このときの私は想像だにしていなかった。



                 

                 ●




「……ハァッ、ハッア、ハア」

 乱れた呼吸を落ち着けるために、足を止めてそばにあった切り株に腰を下ろす。

見上げると、空を覆い隠す木の葉の間から射し込む太陽の光が目に()みて、無意識に涙が一つすじ零れ落ちた。頬にできた傷にぶつかっては折れ曲がり、歪な線を描いて零れ落ちる涙が唇の端から口内に侵入する。

 塩辛い。

 ああ、あのときも。あのときも、涙を流して喜んだのに。

「どうして……」

 小刻みに震える膝頭を必死に押さえながら、唇を噛み締める。答えが分かっていても、そう呟かずにはいられなかった。

 背後でガサリ、と音が鳴る。

反射的に後ろを振り返ったが、そこには何もなかった。風が枯葉を舞い上げたのだ。

しばらく座ったまま動きを止めていると、途端に眠気が襲ってきた。一晩中走り続けてきた疲労が、どっと音をたてて私を襲う。

このまま倒れこんで眠ってしまえたら、どれだけ楽なことか……。重くなった目蓋に降り注ぐ朝の空気が睡魔を後押しするように心地良く吹いている。私に、眠れ、眠れ、と暗示を――呪いを、かけるように。

 呪い。

 いけない、私は何をしているのだ。休んでいる暇など、無い。

  ――行かなければならない。

 そうだ。ラルフ兄さんにかかった呪いを解くために、私は行かなければならない。

兎に、

――いいや、呪者(じゅしゃ)に――

呪われたラルフ兄さんを救うことができるのはきっと、私だけなのだから。




                    ●




 ラルフ兄さんが材料の買出しに出かけてから二週間と一日が経ったその日、私は朝からラルフ兄さんの衣装ののデザイン画を描いて過ごしていた。

「ただいま」

 日が傾き始めた頃、玄関の方から物音と共にラルフ兄さんの声が聞こえてきて、私は急いで席を立った。

玄関には、既にいくつか荷物が積み上げられていた。

村民の一人から借りた荷馬車いっぱいに積まれた荷物を、早速ひとつずつ丁寧に家の中に運び込むラルフ兄さんをいつものように手伝いながら、私は「おかえり」と微笑みかける。

 今回の仕入れは常に無く大掛かりだった。いつもより大きな荷馬車を借りて行ったのは知っていたが、まさかその荷馬車がいっぱいになるほど買い込んでくるとは。

 つま先で立っても届かないところまで積み上げられた荷物を家の中に運び込む作業は、覚悟していたよりも腰にきそうだ。日差しも強い。

私は額の汗を掌の甲で拭うと、ブラウスの袖を肘まで押し上げて荷馬車に乗り込んだ。

 そして、ようやく荷物の約半分を家の中に運び込んだところで、道の奥から見知った顔が歩いてくるのに気がついた。初めは荷馬車を引く馬に興味がわいたらしい彼らは、やがて傍らの私たちに気がついて大きく両手を振った。

駆け足で近づいてくる人影は、徐々に輪郭を濃くしていく。道の奥から近づいてきた二つの人影はやはり、近所に住む双子の兄弟だった。二人のうちの一人が速度を上げてラルフ兄さんに駆け寄っていく。

「ラルフさん、今回は遅かったんだね」

 畑を三つほど挟んだ先に住んでいるこの双子の兄弟は何もかもが瓜二つで、村に暮らし始めて二年が経った今でも外見だけでは見分けがつかない。

「やあ、バレリオかな? 今回はティアナのための生地を見繕っていたから少し時間がかかってしまったんだ」

 ただ、言動や仕草で見分けがつくこともある。双子は思考の内容まで同じことがしばしばあると言うが、それでも根本的な性格は異なっているようだ。

弟のバレリオは兄と比べて気立てがよく愛想がいい。誰に対しても明るく振舞い、村ですれ違う人間には、たとえよそ者であろうとも無邪気な笑顔で挨拶をする。私たちがこの村に訪れたとき、真っ先に話しかけてきたのもこの少年だった。

「ティアナさんのため?」

 バレリオの後に続いて私たちに近づいてきた少年は、兄のサントスだ。弟のバレリオと背丈も変わらなければ髪型、容姿、全てに至るまで外見は瓜二つである。

一方、サントスはバレリオほど愛想がいいとは言えない。彼が一人で村を歩いているときは、決して村民に自ら話しかけようとはしないし、そばにバレリオがいるときのみ、つられるようにして口を開くのだ。愛想笑さえ浮かべずに。

 しかし、決して私はサントスのことが人間として嫌いというわけではなかった。むしろ可哀想だとすら思っていた。

何かがある度に、出来のいい弟と比べられるというのは、兄という立場のサントスにとってコンプレックスになっているに違いないのだ。

「そうだよ。実はね、今度僕たちは結婚することになったんだ」

「そうなの!? 僕たち(・・・ )はもう二人はとっくに結婚しているんだと思っていたよ!」

「教会を借りるお金はないから、この家でささやかにね。勿論(もちろん)村の皆も招待するよ! でもまだ準備が全くできていないんだ。だから二人とも、このことはまだ誰にも言わないでくれるかな。僕たちだけの秘密だ」

 ラルフ兄さんが長い指を唇に押し当てて方目を瞑ってみせる。

 子供はこの手の“秘密事”が大好きだ。瞳を輝かせて「うん!」と首を何度も縦に振るバレリオは、片田舎の微笑ましい光景としては完璧だった。

「じゃあ僕たちもお祝いを贈らないといけないね! そうだ、サントス兄さんと一緒にお菓子を作るよ! サントス兄さんはすごいんだよ、お母さんよりも料理が得意なんだ。だからね、きっと大きくておいしいケーキを作るよ! ね? サントス兄さん」

「そうですね。がんばります……」

 弟に自慢されたサントスは照れくさそうに俯きながら後頭部を掻くと、「おめでとうございます」と続けた。

 双子が去った後、私たちは仕入れた生地や装飾品の材料を箪笥と倉庫に別けて仕舞い込む作業に戻った。

滑らかで光沢のある純白に生地。新しい縫い針。色とりどりのガラス球にリボン。

実際に運び出してみて分かる分量の多さ。

これからは節約を心がけなければならないかと考えていたところをラルフ兄さんには見抜かれてしまったらしい。「大丈夫だよ」と荷馬車の方から声をかけられた。

得意げな顔をして荷馬車につながれた馬をさすりながら、

「いつも仕入れてる店の店主に頼み込んで、安くしてもらった。僕だって食卓に草ばかりが並ぶのは嫌だからね」

 と言った。

「そんなに顔にでてた?」

「いや。もし僕がティアナの立場だったら、この量の荷物を見て真っ先に“節約”という単語が浮かぶだろうから」

「ラルフ兄さんには何でも分かっちゃうのね」

 最後に残った荷物を家の中に運び終えると、荷馬車と馬を家の裏に繋ぎ、くたびれた革のブーツを脱ぎ捨てて家のなかに戻った。

相当疲れていたのだろう。ラルフ兄さんは真っ直ぐリビングへ向かうと、二つしかない椅子の片方にどっかりと腰をおろした。

「これで本当におかえりなさい、だね」

「ああ、ただいま」

ラルフ兄さんは製作途中のデザイン画を愛おしそうに眺めながら、テーブルに肘を突いて、デザイン画の中のラルフに向かって呟いた。

「そりゃあ、僕は君のお兄さんなんだから」

「え?」

 片側の空いた椅子に座ろうと、その大きな背中に歩み寄る。

「僕がティアナのことならなんでも分かってしまうのは。僕は君の兄だからね」

「……ラルフ兄さん」

 私が描いたデザイン画に薄っすらと積もった埃を手で優しく払う、彼の大きな体に似合わない小さな動作がたまらなく愛しくなって、ラルフ兄さんに触れたいという思いが猛烈な勢いでわき上がってくるのを、私は抑えきれないでいた。そんなに寂しいことを言わないで?

 あまりに大きな幸せをもたらしたラルフ兄さんの提案によって感覚が麻痺していたようだ。

約二週間。私は一日たりとも寂しさを感じてはいなかったのだ。十五もの朝日が昇るのを一人きりで見送ったというのに。

いつにも増して激しい寂寥感が、思い出したように私の首元を襲って止まらない。

愛おしさと寂寥感が喉元で混ざり合い、衝動を抑えきれなくなった私は、背後から思い切りラルフ兄さんに抱きついた。

 突然抱きつかれたラルフ兄さんは驚いたようだったが、静かに息を吐くと私を振り払うこともせずに黙って抱かれていた。

家の外から聞こえてくる、近所の婦人方の話し声。

子供たちがあげる甲高い笑い声。

農作業に(いそ)しむ村民たちの足音。

それら全てが耳の奥に心地よく響いた。

 ラルフ兄さんの髪から漂う、都市で利用しているいつもの宿屋の、石鹸の匂い。

 シャツからは嗅ぎ慣れた彼の匂い。私と同じ血が流れる、身体(かれ)の匂い。

 ――大丈夫、彼から彼以外の匂いはしない《・・・・・・・・・・・・・》。

生ぬるい温度の空気が私たちの髪の間を吹き抜けていく。このまま眠ってしまえそうなほど、緩やかで止まりかけの時間が、この空間には溢れていた。

「ああ、そうだ! ティアナ!」

 静かに目蓋を閉じようとしていた私を目覚めさせたのは、ラルフ兄さんの大きな声だった。肩越しに巻きついた私の腕をそっと退()け、席を立って玄関へと戻って行く。

何事かと怪訝に思っていると、しばらくしてから両腕に大きな籠を抱えたラルフ兄さんが戻ってきた。

鉄で出来た重そうな籠である。中からは干草のような臭いと――獣の臭い?

「帰ってくる途中の町でね、こいつらを買ったんだ」

 鉄の籠を床に下ろすと、籠に取り付けられていた南京錠がジャラリと音をたてた。

()()か、南京錠は二重についていた。

「四〇歳くらいかな、中年の女の人が薦めてきてね。可愛いだろ? 僕が買出しに出ていていないとき、ティアナ一人じゃ寂しいんじゃないかと思って」

 

 籠の中に入っていたのは――二羽の兎だった。


 体は薄い茶色の体毛で覆われており、長い耳をぴんと立てている。小さな鼻をひくつかせて、赤い目を私に向けていた。

(あな)(うさぎ)という種類の兎らしい」

 ラルフ兄さんはそう言うと、ポケットから取り出した鍵で南京錠をあけようとかがみこんだ。南京錠は、一つの鍵で両方とも開錠できた。

 私は兎が籠の中から飛び出すのではないかと心配になったが、そのようなことはなく、二羽の兎は外の世界を警戒するように鼻をいっそうひくつかせ、なかなか籠の中から出ようとはしなかった。

見かねたラルフ兄さんがぎこちない手つきで一羽の兎を抱きかかえると、「落とさないように」と添えて私に手渡してきた。

 初めて見る兎にただただ呆けていた私は慌ててラルフ兄さんの手から兎を受け取った。

絵本や図鑑の中ではみたことがあったのだが、実際に生きた兎を見るのはこれが初めてのことだった。

 ……温かい。

 体毛は柔らかく、つぶらな赤い目はとても可愛らしかった。噛み付くこともしなければ、犬のように吠えることもない。予想していたよりも重く、落としてしまわないようにラルフ兄さんの前に座り込んだ。

床に広がったスカートの上に、恐る恐るといった足取りでもう一羽の兎が籠から這い出てきた。小さな額をラルフ兄さんが人差し指で撫でると、体を丸めて動かなくなってしまう。

「かわいい……」

「喜んでくれた?」

 私の顔を覗き込んで言ったラルフ兄さんの顔を真っ直ぐに見つめて、大きく首肯する。

「ええ、勿論よ!」

 頷かないわけが無いではないか。

私が寂しくないように。孤独感を感じないように。わざわざ。

私のことだけを思って贈ってくれたプレゼントが例え何であっても、それがラルフ兄さんの手から贈られたものであるならば、私は心の底から喜びを感じることができるのだ。

 私が喜ぶ様子を見て安心したのか、ラルフ兄さんも兎を抱きかかえて私の隣に腰をおろして「お茶を淹れてくれるかな」と、首をこちらに向けて言った。

「ええ」

 お茶を淹れるためにキッチンでお湯を沸かしていると、背後から弾んだ声が聞こえてくる。十数日ぶりに聞く、どこか子供っぽいラルフ兄さんの声。

「ここからそう遠くない町で一泊したときにね、路地で売られていたんだ。なんでもその女性が飼っていた兎が十数羽幼獣を産んで、育てきれないんだそうだ。ほとんどタダみたいな値段で売られていたし、可愛いだろう? 僕たちじゃ子供もつくれないし、丁度いいと思ったんだ」

 両親の家で暮らしていたときから使っていたティーカップを棚から二つ出してきて、残量の少なくなった砂糖瓶と一緒にテーブルに並べた。

このティーカップの数が増えることは、これから先も無いだろう。

 兄妹で子供をもうけた場合、奇形児が産まれやすいと、むかし通っていた教会で聞いたことがある。

真偽は分からない。真偽を確かめようにも、金銭的な余裕ができたことなどこれまでの生涯で一度もなかったので医者に相談する機会も無かったし、前例を聞いたことも無ければ誰かに聞く勇気も無かったのだ。

 しかし、奇形児の育児に、一般的な育児よりもお金がかかるのは目に見えていることだ。もし奇形児が産まれてしまったとき、子供の分までの収入をかき集める自信が、私たち二人には無かった。

 週に三日(みっか)食卓に肉を並べ、二月(ふたつき)一回催(もよお)される村の宴に葡萄酒を持って行き、一生に一度の婚礼の儀のために色のついたガラス球をいつもより多く買う。これだけのことをするのが精一杯なのだ。

 ……だから、この家のティーカップが増えることはないし、いつまでもリビングの椅子は二脚のままだろう。

 ティーポットの中で濃くなったお茶をカップに注いで、床に座るラルフ兄さんに手渡した。私も、カップと砂糖瓶を手にして隣に腰をおろす。

「大切に、育てましょう」

「名前はどうしようか」

「やだ、ラルフ兄さん。子供じゃないんだから……」

「子供だよ」

「え?」

 砂糖瓶の中から砂糖を一つまみカップの中に落とすと、水が円形に小さく跳ねた。その音に反応するように兎の耳が(わず)かに揺れる。

「僕たちの子供だよ」

「……」

 ラルフ兄さんの目線はたった今我が家にやってきたばかりの兎に注がれたままで、もしかしたらその言葉は私に向けられたものではなく、ラルフ兄さん自身と二羽の兎たちに言い聞かせているのかもしれない。

軽い嫉妬すら覚えるほどに、赤い目をした兎がラルフ兄さんの腕の中で丸くなっている光景は違和感のないものだった。

ラルフ兄さんの手首が、流れるような動作で口元へカップを運び、熱い紅茶を口内へと流し込む。そして、「おいしい」と呟いた。

 ――その言葉は、私に向けてのもの?

「ときどき……本当にときどき、本当は僕たち、兄妹なんかじゃないんじゃないかって、思い込んでしまいたいときがあるんだ」

「……うん」

 困ったような微笑を浮かべて、ラルフ兄さんが言う。今度こそ、確実に私に向けて発した彼の言葉。

私には彼が微笑みを口元に作ろうとしたのが分かったけれど、もしこの場に赤の他人がいたならば、その人の目にはただ口元をひくつかせただけだと映ったことだろう。

 それからラルフ兄さんは、口を開くのを躊躇う様子を見せて、もう一度ティーカップを口元に運んだ。そして、自嘲気味な笑みを浮かべ、(かす)れた声でこう言うのだ。

「でもね、僕はティアナの声で“兄さん”と呼ばれるのがたまらなく好きなんだ。兄さん兄さんと僕を呼ぶ君を抱きしめるのが、とても」

「……ええ」

 私はティーカップを兎の隣に音をたてないように置いて、ラルフ兄さんの腕に掌を重ねた。土ぼこりでざらついた感触が、ひどく懐かしい。……懐かしい?

土ぼこりにまみれるまで遊んだ幼少期の一日。畑を耕した三年前の一日。ラルフ兄さんと過ごしたあまりにも多すぎる一日一日が、鮮明に思い出される。懐かしさを感じてしまうほどに、私とラルフ兄さんの関係は世界中のどの恋人たちよりも長く、深い。

こんなにも近くにいるのに、私たちが一つになることは永遠にできないのだと改めて思い知る。私たちは近すぎた。

それはたとえ婚礼の儀を挙げたとしても。

 何度素肌を重ねあっても。

 この体に流れる血の色は、変わらずどこまでも同じ赤色なのだ。

「それでもいいの……」

「え?」

「私は充分幸せよ、ラルフ兄さん。ラルフ兄さんがいて、私がいて、いつまでも二人でい るの。この村の人には私たちがさぞ幸せな夫婦に見えるでしょう。それでいいの……。私はそれだけで幸せよ。それにほら、私たちには今日子供ができたじゃない?」

 おどけて兎を抱きかかえてみせると、突然兎が足をばたつかせて危うく落としてしまいそうになった。慌てて両手を忙しく動かす私を見て、ラルフ兄さんが噴出(ふきだ)す。

「そんな顔しないで?」

「ごめんね、ティアナ」

 二人で兎を抱いて微笑みあう。私たちの子供を抱いて。

これでいいのだ。考えても辛くなるだけなのだから。

私たちにとって都合の悪い現実は、忘れなければならない。これは必然だ。そう思い込みでもしないと、やっていけないではないか。

私たちだけは、誰に否定されようともこの関係を認めていかなければならないのだ。永遠に私たちが“兄妹”であるという事実はどうあがいても変わらない。世間に私たちが“結ばれた”と認識させるには、嘘を突き通さなければならないこともまた、必然。嘘を吐き続けることができないほどに弱いのであれば、忘れるしかないのだ。

 私たちが兄妹であるということを。

 分かっている。分かっているのに――それでも私は、彼のことをラルフ兄さん《・・・》と呼ぶことをやめられない。




ティーカップのお茶が冷めきってしまったのにも気づかずに、優しい顔に戻ったラルフ兄さんと共にこれからの計画についてぽつりぽつりと、夕闇が訪れるまで語りあったあの日。あの日と同じ幸福が、これからもずっと続いていくと何の疑いも抱かずに信じ込んでいた。

 私たちは何も知らなかったのだ。

 兎とはすべて目が赤いものだと思い込んでいたし――それになにより、

――これが束の間の幸せであることも、このときはまだ。


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