「初恋の人に似てたから」 そんな方、こちらから願い下げです
「エレノア、君のことが、夏が冬になるくらいに大好きなんだ! 僕と結婚してくれ!」
王都の喧騒から少し離れた、静かな庭園。
伯爵令息ダイアン・オーブリーは、膝をつき、顔を真っ赤にしながらそう叫んだ。
その熱烈な……否、あまりに直情的で語彙の乏しい告白に、私、エレノア・ヴィンセントは思わず首を傾げた。
(……夏が冬になるくらい? それはつまり、気温が下がるということでしょうか。情熱が冷めるという意味でしょうか?)
そんな意地悪な推測が脳裏をよぎったが、私は貴族の令嬢としての微笑みを崩さなかった。
一つ上の爵位、それも有力な伯爵家からの求婚は、我が家の地盤を固めるための絶好の機会といえる。
「謹んでお受けいたします。ダイアン様」
淑女の礼を尽くし、彼の差し出した手を取る。
ダイアンは顔を輝かせ、「ああ、やっぱり君は僕の天使だ!」と私の手にかじりつくように口づけを落とした。
◇◇◇
婚約が成立し、私は「花嫁修行」という名目で、早々にオーブリー伯爵邸へと招かれた。
しかし、そこで待っていたのは、貴族社会の常識からはあまりにかけ離れた、不可思議な約束の数々だった。
「エレノア様、本日の装いはこちらでございます」
部屋に運び込まれたのは、目がチカチカするほど鮮やかなピンク色のドレスだった。
胸元にはこれでもかというほど大きなリボンが飾られ、スカートは膝丈に近いほど短く、何層にも重なったレースがフリルのように波打っている。
「……あの、これは何かの間違いではございませんか? 私はもう十八歳です。これは、十歳に満たない子供が着るようなデザインですが」
侍女は困ったように視線を泳がせた。
「ダイアン様の強いご要望でございます。『エレノアには純真な愛らしさが似合う』と。それから、髪型も本日は二つ結びにするようにと仰せつかっております」
「二つ結び……?」
鏡の中に映ったのは、成人の儀を済ませたはずの私が、無理やり幼子のような格好をさせられている滑稽な姿だった。
さらに、ダイアンとの茶会では、さらなる苦行が待っていた。
「エレノア、見て。君のために最高に甘いお菓子を用意したよ。さあ、『あーん』して?」
「ダイアン様、人前でそのような……」
「ダメだよ。君はもっと、子供みたいに素直に甘えてくれなきゃ。難しい言葉は使わなくていい。『おいしい』とか『嬉しい』とか、可愛い言葉だけで僕と話して」
彼は、私が知的な会話をしようとすると、露骨に不機嫌そうな顔をするのだ。
政治の話、領地の話、最近の流行の詩集の話――。
そういった「大人」の話題を、彼は徹底的に排除しようとした。
彼が求めているのは、対等なパートナーとしての妻ではなく、自分の思い通りに愛でることのできる人形であるかのようだった。
正直戸惑っている。
しかし、私は嫁いできた身。まだ実害が出ているわけではないし、伯爵家という大きな後ろ盾を、私の個人的な居心地の悪さだけで手放すわけにはいかない。
私は必死に、自分に言い聞かせた。
「彼はきっと、少しだけ独占欲が強くて、ロマンチストなだけなのだ」と。
◇◇◇
そんなある日、ダイアンが急な用事で領地へ向かい、数日間屋敷を留守にすることになった。
私はこの好機を逃さず、邸内の空気の違和感を探ることにした。
まずは若い侍女たちに、ダイアンの好みについて聞いて回った。
しかし、彼女たちは「ダイアン様はいつもエレノア様を大切に思っていらっしゃいます」と、型通りの答えを繰り返すばかり。一人目、二人目と空振りに終わり、額には汗が滲みはじめた。
最後に訪ねたのは、オーブリー家に長く仕えているという老侍女、マーサのところだった。
彼女はダイアンが生まれた時からこの屋敷にいて、彼の成長を一番近くで見守ってきた人物である。
「マーサ。私はダイアン様の婚約者として、もっと彼のことを深く知りたいのです。彼は……その、少し変わった趣味をお持ちのようですが、それは昔からのことなのですか?」
私の真剣な眼差しに、マーサは深くため息をついた。
彼女はしばらくの間、葛藤するように唇を噛んでいたが、やがて重い口を開いた。
「……奥様になられるお方には、真実を知る権利があるでしょう。坊ちゃまを、これ以上壊さないためにも。こちらへいらしてください」
マーサに案内されたのは、邸の最上階にある、普段は鍵がかけられているというダイアンの私室だった。
彼女が取り出した合鍵で中へ入る。
「これは......」
壁一面に飾られた、何枚もの肖像画。
そこに描かれているのは、すべて同じ一人の少女だった。
プラチナブロンドの髪に、宝石のような青い瞳。年齢は六歳か、七歳といったところだろうか。
机の上には、その少女に宛てられた、決して投函されることのない大量のラブレター。
そして部屋の隅には、少女が着ていたのであろう、小さな小さなドレスが飾られていたのだ。
私は息を呑んだ。
その少女の面影は、確かに私に似ていた。
「この方は……?」
「シェドミア様……現在の、隣国の皇帝陛下に嫁がれたお方です。坊ちゃまが六歳の頃、初めてお会いしたシェドミア様に、魂を奪われてしまったのです」
マーサの声は、憐れみに満ちていた。
「坊ちゃまは、シェドミア様が成長し、遠い国へ行ってしまったことが受け入れられなかった。彼の時間は、あの日、六歳の彼女と遊んだあの日から一歩も動いていないのです」
私は震える手で、机の上に置かれた日記を開いた。
そこには、直近の日付で、あまりに醜悪で身勝手な言葉が綴られていた。
『ようやく見つけた。初恋のシェドミアにそっくりな、エレノアという女を。
彼女を僕の理想通りに塗り替えよう。
大人の女としての知識など必要ない。あの頃の彼女のように、無邪気に笑い、僕に従う人形にすればいい。
そのためには、もっと彼女を教育しなくては。
エレノアをシェドミアにする。それが僕の、たった一つの生きる意味だ』
絶句した。
吐き気がこみ上げた。
彼は私を愛しているのではない。私の中に、かつての少女の幻影を見出し、それを固定しようと執着しているだけだったのだ。
これこそが、彼が私に子供のような服を着せ、稚拙な言葉遣いを強要していた理由。
「……マーサ、なぜこれを私に教えてくれたのですか? これは、実のお父様である伯爵様すら知らぬ秘密なのでしょう?」
私が問いかけると、マーサは悲しげに首を振った。
「もう、坊ちゃまには大人になっていただきたいのです。いいえ……これ以上、誰かを犠牲にする彼を見ていたくない。このようなことは口に出すべきではないのですが――坊ちゃまは、もともと貴族として人を導く器ではありませんでした。あまりに純粋すぎて、あまりに独りよがり。誰かが彼を、この執着から解き放ってやらねばならない。それができるのは、今やエレノア様、貴女しかいないのです」
マーサが奔流のように言い切った言葉は、慈愛であると同時に、主君に対する最後通牒のようにも聞こえた。
日記を閉じ、深く呼吸を整える。
ダイアンが求めているのは、成長することを禁じられた「理想の少女」。
だが、私は一人の自立した女性であり、ヴィンセント家の誇りを持つ貴族なのだ。
(……よく分かりましたわ、ダイアン様)
確かに、貴族は恋愛で結婚するわけではない。だから、彼を愛することができないのは私の責任だ。
しかし、婚約者をきちんと見れないような相手では、わが一族に今後どのような害を及ぼすかわからない。
彼が私を「初恋の人」の代用品として扱うというのなら、私もまた、彼を「婚約者」として扱う必要など微塵もない。
胸の奥に、決意の炎が灯るのを感じた。
私はマーサに礼を言い、部屋を出た。
ちょうどその時、ダイアンが予定を早めて帰館したという知らせが入った。
階下から、「エレノア! 寂しかったよ、僕のリトル・エンジェル!」という、甘ったるくて不気味な声が響いてくる。
「お帰りなさいませ、ダイアン様。ご移動、お疲れ様でございました」
彼の好くような、甘い微笑みを浮かべる。
今はただ、耐えるときだ。
きっといつか好機が巡ってくるその時まで。
私は代用品を務めるのだ。
◇◇◇
王宮で開催された秋の夜会。それは、この国の名だたる貴族が一堂に会する、一年で最も華やかな社交の場である。
しかし、その入り口で、人々は信じられないものを見たかのように足を止め、ひそひそと囁き合っていた。
「……あれは、ヴィンセント子爵家の令嬢か?」
「なんてことだ。伯爵家の婚約者が、あのような……まるで少女のような格好で」
注目の的となっているのは、私、エレノアだ。
ダイアンが「これ以外は認めない」と泣いて縋り、無理やり着せられたのは、淡いピンクのフリルが幾重にも重なった、膝丈をわずかに越える程度の短いドレスだった。
頭には大きなリボンが二つ、高い位置で結われた髪に飾られている。
十八歳という成人の年齢を迎えながら、十歳にも満たない少女のような装いをさせられた私の姿は、洗練された貴族たちが集う中で、あまりにも異様で、滑稽で、そして……不気味であったことだろう。
「エレノア、見てごらん! みんなが君の可愛らしさに釘付けだよ。やっぱり僕の見立てに間違いはなかった。君は世界で一番、愛くるしい僕の人形だ」
エスコートするダイアンは、周囲の冷ややかな視線を「感嘆」だと完全に勘違いしていた。
彼が私に向ける眼差しは、情熱的な恋人のそれではなく、お気に入りの玩具を自慢する子供のそれでしかなかった。
私は、あえて何も言わず、ただ無表情に彼の横を歩いた。
私の心はすでに決まっている。今日、この場を、彼との関係を終わらせるための断頭台にすると。
宴が中盤に差し掛かった頃、会場に緊張が走った。
隣国より帰国中の貴賓、シェドミア皇后陛下御入場の報せが届いたのだ。
ダイアンの「初恋の人」。彼が私に重ね合わせ、私を塗りつぶそうとしていた、その本人が姿を現したのである。
凛とした美しさを纏い、豪華な紫のドレスに身を包んだ皇后陛下が、陛下の隣で静かに微笑んでいる。
その瞬間だった。隣にいたダイアンの身体が、ガタガタと震え始めたのだ。
「ああ……シェドミア……シェドミア……」
彼は、エスコートしていた私の腕を乱暴に振り払う。
そして、あろうことか、大勢の貴族が控える中央の通路へとふらふらと歩み出た。
「ダイアン様、何を……!」
「黙ってて! 君は、そこに座って大人しくしてればいいんだ!」
彼は私を突き飛ばすと、上着の内側から何かを取り出した。
それは、彼が大切に隠し持っていた、古びた、薄汚れたぬいぐるみだった。
「シェドミア! 覚えているかい? あの夏の日、僕たちが一緒に遊んだ時に君が欲しがっていた、クマのぬいぐるみだよ! ずっと、ずっと君のために持っていたんだ! さあ、これをあげるから、僕のところにおいで! あの日のように、一緒に泥遊びをしよう!」
会場は、凍りついたような沈黙に包まれた。
名門オーブリー伯爵家の跡取り息子が、一国の皇后陛下に向かって、薄汚れたぬいぐるみを突き出し、まるで幼児をあやすような口調で、国辱とも言える暴言を吐いたのだ。
皇后陛下は、困惑と侮蔑が入り混じった表情で立ち止まった。
その傍らにいた皇帝陛下が、低く、冷徹な声で言う。
「……この者は、誰だ。我が妻を、あろうことか幼名で呼び捨てにし、このような不衛生なものを差し出すとは。正気か?」
その言葉に、ようやく我に返ったのか、オーブリー伯爵――ダイアンの父上が、顔を土色にして飛び出した。
「も、申し訳ございません! 皇帝陛下、皇后陛下! 息子は、その、少しばかり……酒に酔いすぎたようでございます!」
「父様! 何を言っているんだ! 僕はシェドミアを迎えに来たんだ。隣のあの女は、シェドミアに似せて作った代用品だよ。本物が来たなら、もうあんな女はいらない!」
ダイアンは、私のことを指差して、そう言い放った。
「あんな女」。
それが、彼が今まで「愛している」と言い続けてきた婚約者に対する、最後の言葉だった。
私は、ゆっくりと立ち上がった。
周囲の同情、蔑み、好奇の視線をすべて受け止め、凛とした足取りで、震える伯爵と、錯乱するダイアンの前に進み出る。
私はまず、皇帝陛下と皇后陛下に対し、深く、完璧な淑女の礼を取った。
「皇帝陛下、皇后陛下。この度は、私の婚約者が、多大なる非礼を働きましたこと、心よりお詫び申し上げます」
「エレノア、君、何を……!」
ダイアンが私を睨みつけたが、私はその目を真っ向から見据え、きっぱりと告げる。
「ダイアン・オーブリー様。貴方は私を愛していたのではありません。貴方の記憶の中に閉じ込めた、幼い頃のシェドミア様の幻影を、私に押し付けていただけです」
私は一歩、彼に詰め寄った。
「貴方は私に、十八歳の女性が着るはずのない服を強要し、知的な会話を禁じ、子供のような振る舞いを求めました。それは、私という個人の尊厳を深く傷つける行為であり、貴族としての矜持を著しく欠くものです。貴方が愛していたのは、私でもシェドミア様でもない。貴方の身勝手な『初恋の思い出』という名の、妄想に過ぎません」
「な、なんだと……!」
造作の良い顔が醜くゆがむ。顔は赤を通り越して紫色になっていた。
「さらに、このような国を挙げた正式な宴の場で、隣国の皇后陛下に対し、あまりに不謹慎な態度を取りました。これはオーブリー家の名誉を汚すだけでなく、我が国の外交すら危うくする愚行です。……ダイアン様、貴方は、貴族の義務と責任を何一つ理解していらっしゃらない。そんな方との婚姻など、こちらから願い下げです」
私の言葉は、静まり返った会場に、透き通るような冷たさで響き渡った。
ダイアンは、口をパクパクとさせながら、まるでおもちゃを取り上げられた子供のように、その場にへたり込んだ。
一部始終を聞き終えた皇帝陛下は、こちらに向き直った。彼は私のプラチナブロンドの髪と青い瞳をじっと見つめ、それから隣の皇后陛下と見比べると、ふっと表情を和らげた。
「そなた、名は?」
「ヴィンセント子爵が娘、エレノアと申します」
「ではエレノアよ」
周囲は静まりかえり、陛下の沙汰に聞き入っている。
「そなたのこれまでの忍従に免じて、この場は我も矛を収めよう。我が愛しの伴侶、シェドミアの遠縁であるかもしれぬしな」
そういって横を向く陛下に、皇后シェドミア様も優しく笑みをこぼした。
とても仲睦まじそうである。
◇◇◇
夜会の後、事態は速やかに収束へと向かった。
オーブリー伯爵は、息子の犯した醜態と、皇后陛下への不敬に対し、即座に謝罪の意を表明した。
幸い、皇后陛下が「昔の遊び相手の、あまりの変わり果てた姿に驚いただけですから」と寛大な処置を求めたため、国同士の大きな問題には発展しなかった。が、国内でのオーブリー家の評価は失墜した。
伯爵は、私の父に対し、何度も頭を下げて婚約解消を申し出た。
「エレノア嬢。あのような恥知らずな息子との縁談を、今まで耐えてくださったこと、本当に申し訳ない。けじめとして、息子は本日をもって廃嫡とする。その後は、修道院にて永久に神への奉仕に勤めさせるつもりだ。二度と、王都の土を踏ませることはない」
伯爵の言葉は重く、しかし、節度あるきちんとした貴族としての決断だった。
ダイアンはその後、父の厳しい叱責を受け、泣き喚きながら領地へと連行されていったそうだ。
彼が自分の罪を本当に理解し、大人になれる日が来るのかどうか、私にはもう関係のないことである。
◇◇◇
数日後、私は実家のヴィンセント子爵邸で、久しぶりに穏やかな朝を迎えていた。
「エレノア、お疲れ様。よく頑張ったな」
リビングに入ると、兄が温かい紅茶を淹れて待ってくれていた。
私の理解者であり、今回の騒動でも裏で伯爵との調整に奔走してくれた、自慢の兄である。
「お兄様。……ごめんなさい。我が家の家格を上げるための婚約だったのに、私が壊してしまったわ」
私がそう言うと、兄は男らしい、包容力のある笑みを浮かべて首を振った。
「何を言っているんだ。あんなロリコンのダメ男に、うちの大切な妹をやるわけがないだろう。家格なんてものは、俺が自分の腕で上げてみせるさ。お前が不幸になってまで手に入れる価値のある名誉なんて、この世には存在しないんだ」
兄の言葉に、私はようやく、張り詰めていた心の糸が解けるのを感じた。
「……そうね。私、今回のことでよく分かったわ。結婚に、甘い夢や一方的な幻想を求めるのは、あまりに幼稚で危ういことなのだと」
「その通りだ。貴族の結婚は、信頼に基づいた共同経営のようなものだ。互いの尊厳を守り、同じ方向を見て歩める相手でなければ、何十年と一緒に過ごすことなんてできやしない」
兄は私の前に、好物のクッキーの皿を置いた。
それは、ダイアンが強要したような、口の中で溶けるだけの甘い離乳食のようなものではなく、しっかりとした噛み応えのある、小麦の香りが芳醇な大人の焼き菓子だった。
「お前には、お前自身の知性を愛し、お前という一人の人間を尊重してくれる、そんな本当のパートナーが見つかるまで、ゆっくりしていればいい。それまでは、俺が全力でお前を守ってやるからな」
「ありがとう、お兄様。……でも、次は私が、お兄様を支えられるような強さを身につけたいわ」
「ははは、それは心強いな」
私は窓を開け、青い空を仰いだ。
秋の風は少し冷たかったが、私の胸には、かつてないほどの自由で誇り高い熱が灯っていた。
貴族の令嬢として。
一人の女性として。
私は私の人生を、私の足で歩いていくのだ。




