あなたの夢の代金は、もう払いません
リビングのテーブルには、一枚の請求書が置かれていた。
魔導具の素材屋からのものだ。金額は、一般家庭の三ヶ月分の生活費に相当する。
「……ルーカス。これは何?」
私の問いかけに、ソファに寝転がって難解な魔導書を読んでいた夫、ルーカスは面倒くさそうに片目を開けた。
「ああ、それか。新しい魔導回路の実験に必要な竜の鱗だよ。どうしても必要だったんだ」
「どうしても、って……。先月もそう言って、高価な水銀を買ったばかりじゃない。今月はもう食費だってギリギリなのよ? 家賃の支払いも待ってもらっているのに」
私がため息混じりに訴えると、ルーカスはガバッと起き上がり、不機嫌そうに髪をかきむしった。
「エレナ、君はまた金の話か。うんざりだな」
彼は侮蔑の色を隠そうともせず、私を睨みつけた。
「いいかい? 僕が研究しているのは永久魔力機関だ。これが完成すれば、エネルギー革命が起きる。そうすれば金なんて掃いて捨てるほど入ってくるし、君だって公爵夫人並みの暮らしができるんだ。今はそのための投資期間だろう?」
――投資期間。
その言葉を聞くのは、もう何度目だろうか。
ルーカスは、かつて王立アカデミーを主席で卒業した天才魔導具師だった。「だった」というのは、彼が組織のしがらみを嫌って独立し、在野の研究者になってからもう五年が経つからだ。その間、彼が完成させた魔導具はゼロ。未完成のガラクタと、積み上がる借金だけが、我が家の資産だった。
「でも、現実を見て。来週にはパンを買うお金もなくなるのよ。私は翻訳の仕事を入れて、夜なべして稼いでいるけれど、それだって限界があるわ」
「だから! 君がちまちま小銭を稼ぐことに必死になっている間に、僕は世界を変える研究をしているんだ! 妻なら、夫の夢をもっと信じて支えるべきじゃないのか!?」
怒鳴り声が部屋に響く。
私は口を閉ざした。
かつては、その情熱に惹かれたこともあった。「君となら世界を変えられる」という言葉に、夢を見たこともあった。けれど、五年という月日は、夢を風化させるには十分すぎる時間だった。
私が必死に稼いだお金は、彼の研究材料に消える。
私が作った温かい食事は、「研究の邪魔だ」と冷めるまで放置される。
私が繕ったシャツを着て、彼は「君は所帯じみてきたな」と笑う。
支える。信じる。
その美しい言葉は、いつしか私を縛り付け、思考を停止させる呪いになっていた。
***
決定的な亀裂が入ったのは、それから数日後のことだった。
仕事を終えて帰宅した私は、玄関に見慣れない上質な革靴があることに気づいた。
リビングに入ると、ルーカスと、一人の若い女性が向かい合って座っていた。
落ち着いた藍色のドレスを上品に着こなし、知的な眼鏡をかけた女性。テーブルの上には、私が普段は買えないような高級な茶葉の紅茶が香り立っている。
「あ、エレナ。お帰り」
ルーカスは高揚した様子で言った。まるで、世紀の大発見をした時のように。
「紹介するよ。彼女はセリーナ嬢。大手貿易商会の令嬢で、僕の研究に興味を持ってくれたんだ」
「初めまして、奥様。セリーナ・バーネットと申します」
セリーナと名乗った女性は、優雅に立ち上がり、完璧なカーテシーを見せた。
その表情は穏やかだが、眼鏡の奥の瞳には、どこか私を品定めするような冷徹な光が宿っていた。
「先生からお話は伺っております。……生活がお苦しい中でも、研究を続けていらっしゃるとか」
「ええ、まあ……」
「素晴らしい情熱ですわ。ですが……」
セリーナはちらりと、部屋の隅に置かれた私の仕事道具(翻訳用の辞書や書類の山)に視線をやった。
「奥様。失礼ながら申し上げますが、先生のような稀有な才能をお持ちの方に、日々の糧を得るための心配をさせるのは、いかがなものでしょうか」
「……はい?」
私は耳を疑った。
「先生の理論は、既存の魔導学の枠を超えています。今の時代がまだ追いついていないだけ。それなのに、奥様が『食費代がない』『家賃が払えない』といった俗事ばかりを口にされては、先生の翼を折ってしまうことになりませんか?」
淡々とした、理知的な口調。
けれど、言っていることはルーカスと変わらない。むしろ、理解ある第三者を装っている分、よりタチが悪かった。
「そうなんだよ、セリーナ嬢! まさにその通りだ! エレナはいつも貧乏臭い雑音ばかり撒き散らして、僕のイマジネーションを阻害するんだ!」
ルーカスが我が意を得たりとばかりに叫ぶ。
セリーナは同情するように微笑み、ルーカスの手に自分の手を重ねた。
「お可哀想に、先生。真の理解者がそばにいないというのは、天才にとって最大の孤独ですわね」
そして、彼女は私に向き直った。
「奥様。私は、先生の研究こそが未来を作ると確信しております。ですから、今回の竜の鱗の代金も、私が工面させていただきました。……純粋な、学術への寄付として」
「……寄付?」
「ええ。父の商会としても、先生のような才能には投資する価値があると考えておりますの。これからは、私が先生の研究環境を整えさせていただきますわ。先生には、もっと相応しい場所が必要ですもの」
彼女の言葉は、美しかった。
利益を求めるパートナーではなく、才能を愛する理解者という仮面を完璧に被っている。
でも、私にはわかる。彼女の目は、ルーカスを見ていない。
「天才を見出し、支援している私」「高尚なことに金を使っている私」に酔っているだけだ。
ルーカスは、そんな彼女の自己陶酔に気づかず、ただ自分を肯定してくれる女神が現れたと信じ込んでいる。
「エレナ、聞いたかい? セリーナ嬢は別邸のアトリエを提供してくれると言っているんだ。そこなら、思う存分実験ができる。君に気兼ねして、狭い部屋で縮こまる必要もないんだ!」
ルーカスは私を見た。その目には、もはや私への愛情など欠片もなく、ただ邪魔者を見る苛立ちだけがあった。
「エレナ。僕には、セリーナ嬢のようなパートナーが必要なんだ。君のように、僕を現実に引きずり下ろそうとする人間じゃなくて、一緒に高みを目指してくれる人がね」
その瞬間。
私の中で、張り詰めていた糸が静かに切れた。
ああ、そうか。
この人は、私の苦労も、献身も、すべて足枷だとしか思っていなかったんだ。生活を支えるために泥臭く働く私の姿は、彼の天才というセルフイメージを傷つけるノイズでしかなかったのだ。
「……そう」
私は深く息を吐き、そして憑き物が落ちたように笑った。
「よかったわね、ルーカス。理想的な相手が見つかって」
「ああ。わかってくれたか、エレナ。これからは……」
「ええ、わかったわ。じゃあ、私はお役御免ね」
私はセリーナを見た。
「セリーナ様。夫を……いえ、この『天才』を、よろしくお願いしますね。どうぞ、心ゆくまで支援して差し上げてください」
「ええ、もちろんですわ。奥様には荷が重かったのでしょうけれど、私なら大丈夫ですから」
セリーナは優越感を隠そうともせず微笑んだ。
私は肩をすくめ、ルーカスに向き直った。
「離婚しましょう。書類は後で送るわ」
「なっ……! おい、待てよ! 離婚だなんて、そんな極端な……」
「極端? あなたが望んだことじゃない。相応しい場所へ行くんでしょう? 私は俗事にまみれて生きていくから、住む世界が違うわ」
私はその場で結婚指輪を外し、テーブルの上に置いた。
カラン、と乾いた音が響く。
「さようなら、ルーカス。あなたの夢の代金は、もう払わないわ」
***
家を出た私は、安宿を借りて、ひたすら仕事に没頭した。
ルーカスの世話や借金の工面に費やしていた時間と労力がすべて自分のために使えるようになると、驚くほど仕事が捗った。翻訳の質が上がったと評判になり、報酬も増えた。生活は質素だったけれど、自分で稼いだパンを、誰に気兼ねすることなく食べる夕食は、何よりも美味しかった。
それから半年後。
私は仕事の打ち合わせで、ある商会のサロンにいた。
そこで偶然、噂話を耳にした。
「……バーネット商会のご令嬢、大変らしいわよ」
「ああ、あの自称・天才魔導具師に入れ込んでた件?」
「そうそう。別邸まで与えて支援してたらしいけど、半年経っても何の成果も出ないし、要求ばかりエスカレートするって」
私は紅茶を持つ手を止めた。
「なんでも、『実験に必要なミスリルが足りない』とか『研究に集中するために専属のシェフを雇え』とか、言いたい放題だったらしくて」
「うわぁ……。で、どうしたの?」
「セリーナ様も最初は才能への投資って言ってたけど、さすがに愛想が尽きたみたい。『私が愛しているのは才能であって、怠惰な穀潰しではありません』って言って、アトリエから追い出したそうよ」
「冷たいわねぇ。まあ、自業自得だけど」
私はふっと笑って、紅茶を口に運んだ。
セリーナという女性の本質は、見栄と虚栄心だ。成果が出ない天才なんて、彼女にとってはブランドバッグの偽物と同じ。価値がないと分かれば、未練なく捨てるだろう。
その日の帰り道。
事務所の前で、見覚えのある男がうずくまっていた。ボロボロのコートに、伸び放題の髭。かつての「天才」の面影はない。
「……エレナ」
私に気づいたルーカスが、よろよろと立ち上がった。
「エレナ、助けてくれ……! 行くところがないんだ……!」
「あら、ルーカス。セリーナ様のアトリエはどうしたの?」
「あいつは悪魔だ! 僕の研究を理解しようともせず、成果が出ないと分かるとすぐに見捨てた! やっぱり君しかいないんだ、エレナ。君だけが、僕の人間性を愛してくれていた!」
ルーカスは涙を流して縋り付いてきた。
「戻ってきてくれ。やり直そう。今ならわかるんだ、君の作ったスープの温かさが。君が繕ってくれたシャツの着心地が。……僕は、君に甘えていただけだったんだ」
その言葉は、もしかしたら本心かもしれない。失って初めて気づく、というやつだ。
けれど、気づいたからといって、壊れたものが元に戻るわけではない。
「ルーカス」
私は彼の手を、一指ずつ丁寧に剥がした。
「あなたは私を愛していたんじゃないわ。私という安全地帯を愛していただけ」
「ち、違う……!」
「違わないわ。だって、セリーナ様が現れた時、あなたは私をどう扱った? 俗物と見下し、彼女の理解に飛びついた。……それがあなたの本性よ」
私は一歩下がった。
「甘える相手が欲しいなら、実家にでもお帰りなさい。……もっとも、あなたのご両親も、『才能のない息子など知らん』と仰っていたそうだけど」
「エレナ……頼む、見捨てないでくれ……!」
「見捨てたんじゃないわ。あなたが、自分で選んだ道よ」
私は踵を返した。
背後で絶望の叫び声が聞こえたが、私は振り返らなかった。もう、彼の夢のために、私の現実を犠牲にすることはない。
私は空を見上げた。
雲の切れ間から差し込む光が、私の足元を照らしている。
これからは、私自身の夢のために生きていく。
誰かに投資するのではなく、私自身の人生という、確かな資産を積み上げていくために。
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