お願い、教祖様
今月の短編です
あたしは今日も跪く。そこに教祖様がいるのを知っているから。教祖様、あなたはあたしたちをはるかに超越している。あなたが偶像だとしても。あるいは、人の手によって生み出されたものだとしても。
「あなたの迷いをお話しなさい」
まったく同じ音を、あたしは昨日も一昨日も、その前の日も、ずっとずっと聞いている。あたしが話すのは、大抵は家族のことだ。他にあたしを悩ませるものはない。
「あたし、父さんと母さんと、弟の四人で暮らしているんです。――」
あたしたち信者の話を、教祖様は黙って受け入れる。そして、こちらが少しでも話を止めると、教祖様は解をくれるのだ。
「――だけど、父さんは酒に呑まれているような人で、なのに母さんは文句も言わなくて。弟は、あたしの苦労も知らないで、外で面倒事を起こしてばかりなんです」
「さぞ大変でしょう。そういったとき、あなたはどうしているのですか?」
「今日なんて、弟は怒鳴り散らす父さんを置いて出かけていきました。止められるとすれば、上背のある弟くらいなのに。母さんは泣いているばかりで、結局、父さんの癇癪は夜まで続いて。まだ聞こえるような気がします」
「酷い一日でしたね。あなたの弟によく話して聞かせるべきかもしれません」
「もう何度も試しました。お願いです、教祖様。あたしはどうしたらいいのか、教えてください」
あたしが言うと、教祖様はほんの数秒考えた。早く――なんて考えていることに気付き、あたしは深呼吸をした。教祖様を急かそうだなんて。答えがすぐに出るのはわかっているのに。
「……落ち着いて、よく観察してごらんなさい。あなたの両親と弟の様子を。何か、新しいことが見えるはずです」
「……わかりました。教えに感謝します」
あたしが答えたとき、味気ない鐘の音がなった。時間切れだ。すぐに、背後からあたしを詰る声が聞こえた。色々な声が汚い絵具みたいに混ざっていたけど、その内容はわかりきっていた。とっととこの場所から退かないといけない。あたしは急いでその場を離れた。
今回の教祖様の答えは、前回とは違っていた。だけど、いつもよりも人任せな、つまり、あたしに委ねるような言葉だった。あたしはそれがあまり気に入らなかった。明日も来よう。あたしはそう心に決めた。
帰ったとき、家は静かだった。と、思った。だけど、あたしの立てた物音は魔物を起こしてしまった。居間から、がらがらと鳴る瓶の音がしたとき、あたしはすぐに足を速めた。足音はできるだけ鳴らさないで、滑るように自室に飛び込んでから、鍵を閉めた。唸り声はしばらく続いたけど、そのうち聞こえなくなった。今日はついている。
玄関に靴がなかったから、弟はまだ外にいるはずだった。あたしは弟が帰ってくるのを待つことにして、その間に、母さんの様子を見に行こうと思った。静かに鍵を開けて、ゆっくりと両親の寝室を目指した。音を立てずに扉を開けるのには慣れていた。
中を覗くと、母さんは眠っていた。寝台の隅で、小さく身体を縮めて。その姿勢を見れば、わざわざ確認しなくても、顔に新しい痣があるのはわかった。罪悪感が募った。あたしは母さんを起こしてしまう前に自室に戻った。居間の前を通ったとき、轟々とした鼾が聞こえてきた。不愉快だった。
あたしは部屋に入ろうとして、やめた。玄関の扉が開く音がしたからだ。とはいえ、その音は微々たるものだった。弟は、あたしよりも静かに動くことが得意なのだ。あたしは暗い廊下で待った。すぐに、弟の細長い影がぬっと現れた。弟はあたしがそこに突っ立っていたことに驚き、はっと息を吸った。声を上げないでくれてよかった。そう思っていると、弟はあたしの腕を掴み、自分の部屋に引っ張り込んだ。
そっと扉を閉めると、弟はそこにもたれながらあたしを睨んだ。電気はつけなかった。あたしも睨み返し、口を開いた。
「何」
「こっちの台詞」
遅い声変わりをした弟の声は、あれに似てきていた。わざと寄せているんじゃないかと思うくらいには。というのは、あたしは弟が柔らかく話せることを知っていたからだ。だけど、弟は日ごとにぶっきらぼうになっていくようだった。それが癇に障る。
「どこ行ってたの」
「外」
その答えに、あたしは思わず舌打ちした。どうせ、わけのわからない連中に酒を恵んでもらっていたに違いない。くだらない……
そこで、あたしは教祖様の言葉を思い出した。よく観察すること。そんなことをして何になるのかわからないけど、やって損はないような気がした。あたしは威厳を保とうとするみたいに腕を胸の前で組んだ。それから、じっと弟の顔を眺めた。暗闇に目が慣れて、あるいは記憶が見えない部分を補って、弟の不機嫌な顔はよく見えていた。どんよりした瞳、太い鼻筋、への字に曲げた唇。初めて見たときは、もっと可愛らしい面持ちをしていたのに。今、弟は満ち足りていない。
「……何が気に入らないの」
できれば、もっと優しく尋ねたかった。だけど、語尾を高く上げるのは馬鹿馬鹿しかった。いつから、あたしはぼそぼそと話すようになったのだろう。弟はぴくりとも動かなかった。聞こえなかったのではないかと思ったけど、下唇を噛んでいるのが見えて、答えを考えているのだとわかった。あたしは待った。
けど、結局、弟は何も言わなかった。代わりに、あたしを窮屈な部屋の奥へと押し込んだ。音を立てないように。
朝日が帳の隙間から入り込んできて、あたしは目を覚ました。そんな光は、この家には不似合いだと思った。さっさと寝台を抜け出して、あたしは服を着た。顔を洗い、居間を覗いた。母さんはもう起きていて、朝食を並べていた。きっちり、四人分。そのうちの半分は、多分そのまま捨てられるのに。
癖で音を立てないようにしていたせいで、母さんはあたしが戸口に来ているのに気付いていなかったようだった。振り返ってあたしを目にし、驚いたように動きを止める。それから、穏やかすぎるくらいの微笑みを浮かべた。あたしに理解できないものだ。
「おはよう。食べる?」
「……うん」
正直、何かを食べる気分ではなかったけど、とても無下にはできなかった。あたしたちは並んで座った。母さんは料理が上手で、どんなときも手を抜かなかった。母さんにはそれしかなかったから。昔は綺麗だったのであろうその顔は、もう傷と老いでくたびれ果てていた。そのことを考えると、吐き気がした。あたしは朝食を詰め込むようにして平らげた。
あたしが席を立とうとしたとき、長椅子からもぞもぞと動く気配がした。反射的に振り返ると、ぼろ雑巾みたいな出で立ちの父さんが身を起こしていた。さすがに酒気は抜けていた。だからといって、そう簡単に不満と倦怠は消えない。父さんはむっつりと黙り込み、やっとのことで立ち上がった。そして、あたしと母さんなんていないみたいに横を通り過ぎ、廊下に出ていった。
あたしは何となく、母さんの顔を見た。別に何も考えていないように見えた。どうして母さんは平気でいられるのだろう。あたしは母さんのことも観察することにした。この人はあたしの実の母親だ。母さんが再婚するまで、あたしには父親がいなかった。二人が何故結婚したのか、あたしは知らない。大体の予想はつくけど。
あたしの知らないその理由は、この生活に耐えるだけの価値があるものなのか。あたしは母さんの黄ばんだ痣を眺めながら考えた。その価値はあるのか。
ない。少なくとも、あたしにはない。母さんにだってないと思う。けど、母さんにないのはそれだけじゃない。この人には苦悶という感覚がないのではないかと考えてしまうことが、時々あるのだ。この生活に対して何も感じていないから、耐えられているのだと。
父さんが傍を通るのを横目で見もせずに、珈琲を啜っているこの人は、長らく苦しみも喜びも感じていない。あたしはそう想像した。それなら、その表情にもその佇まいにも説明がつく気がしたから。あたしを逃がしても掬ってもくれない理由が、納得はできなくても理解ならできる気がしたから。
あたしは食器を流しに置いてから、居間を後にした。すると、前から父さんがこちらに戻ってくるところだった。父さんはあたしに無関心だった。良くも、悪くも。石ころみたいなものなのだろう。むくんだ顔に埋もれるような鈍い眼差しがあたしに注がれた。あたしが道を開けると、父さんは黙ってそこを通った。
あたしは廊下を少し進んでから振り返った。父さんの左腕があるはずのところを見る。仕事中の事故で片腕をなくしてから、あの人は働けなくなった。高い役職に就いていた人だったのに、何か別の仕事を与えてもらうことすらできなかったのだ。その企業は事故を隠蔽する代わりに、想像だにできないほどの多額の金を父さんに支払った。その金と下りた保険のおかげで、あたしたちは生活できている。何不自由なく。
だけど、父さんはおかしくなった。元々悪かった酒癖が、もっと酷くなった。事故の直前に結婚した母さんに当たるようになった。不幸を嘆くことしかできない魔物になったのだ。
魔物の煩い遠吠えは、この家にも不幸をもたらした。その前が幸せだったかと言われると、よくわからない。だけど、今あたしが不幸なのは、間違いなくあれのせいだった。
今朝の父さんは、珍しく食卓に座った。朝食を食べるつもりかと思ったけど、どうもそうではないみたいだった。母さんは何にも気付いていないかのように食器を洗っていた。あたしはその場から動かずに見ていた。父さんは虚ろな目を皿に向けている。
食べればいいのに。そう思わずにはいられなかった。父さんは日に日に食事を取らなくなってきていた。胃にものを入れると、すぐに嘔吐してしまうからだと思う。痩せ細り、緩やかに衰えていく父さんは、奇妙にも母さんによく似ていた。気味が悪かった。
父さんはいつまでこんな生活を続けるつもりだろう、とあたしはよく考える。あるいは、何故かを。あの人がしているのは長期的な自殺なのかもしれない。人間誰しも、意識的であれ無意識的であれ、いずれ自ら死ぬために生きているものだけど。その目で見れば、あれは短期的な自殺なのだろうか。
わかってあげる義理なんかない。そんな考えが、あたしを押し止めた。あの人はそのうち死ぬだろう。希望一つ抱かないままに。だから、その生について思考することはまったくの無駄だと思えてならなかった。
あたしが心配なのは、むしろ、その死のことだ。あれの生存があたしに与えた損害は、その死によって贖われるのか。まさか、絶望の恨み節を、死んでもなお歌い続けるなんてことはないだろう。死人に口はない。
ぼんやりと突っ立っていたあたしは、父さんが顔を上げてこちらを見つめ返していることにしばらく気付かなかった。濁った瞳は、あたしをあたしだとわかっていただろうか。あたしは動悸がするのを感じて戸惑った。
どうすればいいのかわからず、あたしはただ頷いた。すると、父さんもただ頷き返してきた。この意味不明なやり取りで、あたしは鼓動が激しくなったのを耳にした。あたしは逃げるように自室に引っ込んだ。
あの沈黙を、物悲しいと思うなんて。
そんな過程を経て、あたしは教祖様のところにまた戻っていた。長い行列に並んでいる間、あたしは家族のことを考えた。あの人たちは皆、逃げている。早く終わりが来ることを、口には出さず、それぞれが願っている。馬鹿みたいだ。
あたしはあんな人たちとこれからも暮らしていくのか。到底無理だと思った。あたしはとっくに我慢の限界だった。観察しても何も変わりはしない。あたしは救いを求めて教祖様の前に跪くのだ。もっと決定的にすべてを変える方法を教えてもらうために。今日こそは誤魔化されない。
あたしは待つことに辟易しながら、のろのろと進む人々の後ろで爪を噛んだ。苛立ちが募った。あたしの前にいる人たちが、あたし以上に思い悩んでいるとはとても思えない。この人たちに、腐った土壌から立ち上る苦い空気の味なんてわからないだろう。肺が黒く染まり、死んだため息をついていることを自覚したことがあるなら、先を行けばいい。
そして、ようやくあたしの番が回ってきた。あたしは教祖様の前に跪くよりも早く口を開いていた。
「あたし、父さんと母さんと、弟の四人で暮らしているんです。だけど、父さんは酒に呑まれているような人で、なのに母さんは文句も言わなくて。弟は、あたしの苦労も知らないで、外で面倒事を起こしてばかりなんです」
「さぞ大変でしょう。そういったとき、あなたはどうしているのですか?」
「あたし、教祖様に言われた通り、あの人たちのことを観察しました。わかったのは、皆現実から逃げているだけだってこと。もう、あの人たちは駄目なんです」
あたしはそこまで言ってから深く息を吸った。胸が苦しかった。押し潰してきた思いが、身体の中から我先にと這い出してくるみたいだった。中で異臭を放つ穢れを清められるのは、きっと教祖様だけ。教祖様なら、あたしの痛みをわかってくれる。光を差し込んで、すべてを取り除いてくれる。
「それは困りましたね。しかし、諦めるのはまだ早いのではないでしょうか?」
「いえ、駄目なんです。あたし、もう耐えられません。何で、あたしばっかり……」
「あなたのその苦労とは、一体何ですか?それがわかれば、道を示すこともできましょう」
なんてもどかしい。あたしは早く答えがほしかった。教祖様が最後にはわかってくれると知っていたから。正しい何かを教えてくれるとすれば、それは教祖様以外ではありえない。
「そんなの、こんな状況に置かれていることに決まっています!ごみみたいな父親と、藁人形みたいな母親と、壊れた機械みたいな弟に囲まれて日々を浪費しなきゃいけない、あたしの生活!お願いです、教祖様!率直に、あたしはどうすればいいのか教えてください!今すぐに!」
あたしが怒鳴ると、背後の列から非難するような声が上がった。あたしは気にしなかった。教祖様は静かに考えている。
「……私には、あなたの痛みを感じることはできません。しかし、我が子よ、それを分かち合うことはできるのです。あなたの置かれた苦境、それは何たる不幸であったことでしょう?耐え難く、そして許し難く思うのは当然のこと。あなたが痛みを感じたという事実を、私は悲しく思います。
……あなたに道を授けましょう。あなたを苦しめるものを、適切にお捨てなさい。よく観察する目を持つあなたなら、どんな手段を取るべきか、すぐにわかるはずです。あなたは何も間違ってなどいない。自分を信じることです」
そして、退屈そうな鐘の音が鳴った。野次を飛ばされるまでもなく、あたしは教祖様の前を離れた。やるべきことはわかった。あたしは教祖様のことを信じている。その教祖様が、あたし自身を信じろと言うのなら、そうするしかない。頭に思い浮かぶまま、やるべきことをやるだけだ。
あたしは走って家に帰った。昨日よりは早い時間だった。胸が高鳴るのは、走っているせいなのか、それとも……
玄関に弟の靴はなかった。それなら、後回しでいい。
靴を脱いでいる間に、あれの鳴き声が聞こえた。何を吠えているのか、よく聞き取れない。だけど、それはうるさかった。
居間に入っていくとすぐ、身体を小さくして粛々と身を守っている母の姿が見えた。そんな自己防衛、何の役にも立ちはしない。
あたしは母さんを立たせ、寝室に行くように言った。母さんは驚いたようにあたしの顔を眺め、それから急ぎ足でその場を去った。
その間も、魔物は騒いでいた。肩を怒らせ、一本しかない腕を必死に振り回し、何とか力を誇示している。それも、何の役にも立たない。
ごみは、ごみ箱に入れなくちゃ。
あたしは次に寝室に行った。母さんはそこで横になっていた。身体を丸めていないのは、あたしが守ったと思っているからだ。寝息が聞こえた。
藁人形なら、せめてこの運命を呪うのに使おう。
それから、弟が帰ってくるのを待った。寝室の扉を閉じ、玄関に座っていると、やがて弟が帰ってきた。明るい廊下とあたしの姿に意表を突かれたらしかった。
弟は戸惑いながら、寝室と居間に素早く目線を走らせた。両親はどうしているのか、気にしているのだ。
「あの人たちなら大丈夫」
あたしが言うと、弟は満悦して笑った。久しぶりに、快適な夜を過ごせると思っているのだろう。あたしは通りすがりに居間の扉を閉めたけど、弟は気にしなかった。あたしたちは弟の部屋に行った。
「何があった?」
妙に目を輝かせながら、弟はあたしに尋ねた。そんなことはどうでもよかった。
「またお酒でしょ」
あたしが言うと、弟はふと不機嫌な顔になった。薄い笑みを取り外し、背筋を伸ばしてあたしを見下ろす。そうやって外でも虚勢を張っているに違いない。だから、役に立たないってば。
「……何が気に入らないの」
あたしは昨日と同じことを尋ねた。弟はますます顔をしかめた。握り拳に力を入れているけど、弟があたしを殴れないのは知っていた。この人にそんな機能はない。
「何が気に入らないの」
あたしは待った。目を逸らさずに、待った。すると、弟はため息をついて脱力した。
「……この生活。この家族。親父も、お袋も、お前も、全部気に入らない」
「何で」
「何で?誰も守っちゃくれないからだろ?お前も……お前が一番の屑だ!何でいつも――」
あたしは弟を突き飛ばした。もういい。
壊れた機械なら、分解してみようか。
これでいい。これでよかった。もう、あの人たちの眼差しに惑わされることもない。死人の瞳に光はないのだから。あたしは走って教祖様のところに戻った。ここにはいつ来ても行列ができているけど、あたしはそれを全部無視して、教祖様の元へと突っ切った。腕を掴まれても、罵声を浴びせられても、あたしの心は晴れやかだった。
教祖様の姿が見えた。あたしはそこにいた人に退いてもらって、滑り込むように跪いた。
「教祖様!あたし、やりました!あなたのおかげで、やっとできたんです!」
「おめでとうございます、我が子よ。それは素晴らしいですね。ところで、何をやり遂げたのですか?」
読了感謝です
先月の短編 「病室の人」
先々月の短編 「硝子細工と標本屋敷」
連載読んであげてください。小娘にはタフな笑顔の仲間が必要です




