第6話 ラム・イズ・オーヴァー
3月に入ったとはいえ、京都の空気はまだしんと冷たい。
朝から寒いとは思っていたが、昼過ぎには粉雪がちらつき始めた。雪はやがて、北の山が見えなくなるくらいの、本気の吹雪になった。
その日、僕は布団から出られなかった。身体が鉛のように重くて、節々が痛い。
体温計を見て、ぎょっとする。38.9度。
これは……たぶん、インフルエンザだ。
「ねえ、病院行こ?」
舞子が、湯たんぽみたいな顔で覗き込んでくる。前髪がぴょこっと跳ねているのが、妙に心強い。
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舞子は医者に一緒に行くと言いだしたが、
「すぐそこだから、家で待ってて」
というと、納得してくれた。
診断はビンゴだった。インフルエンザB型。
医者は「今は薬があるからね」と笑っていたが、そんな簡単に笑えるならこんなにフラフラにはならないはずだ。
家に戻ると、舞子が真剣な顔で例の子供用料理本を開いて、食い入るように読んでいた。
「おかゆ作るから、待っててね」
言われるがまま、布団に潜っていたが、届いたおかゆには、大根おろしがたっぷり入っていた。さっぱりしていて悪くはないが、僕は正直おかゆが苦手だ。
なんにも食べた気がしない。
続いて作ってくれた生姜のハチミツ湯は美味しかったけど。
昔から、病気のときは肉で治してきた。高校時代、ラグビー部の監督が言っていた。
「風邪には鉄分とタンパク質や。肉食うて寝たら治る」
それを信じて、今まで何度も乗り切ってきた。だから今回もそれでいけるはず。
「舞子、頼みがある」
僕は財布から一万円札を出した。正月、実家で親からたんまりもらったお年玉の残りだ。
「……ステーキが食べたい」
「えっ、インフルで?」
「頼む。いい肉を……できれば霜降りじゃなくて赤身のいいとこで……」
舞子は数秒、目をぱちくりさせてから頷いた。だが、その目に浮かんだ「どうしよう」の色には、僕は気づかなかった。
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京都の街は、3月なのにまさかの吹雪。
舞子は、いつもの短パンにジャンパーという出で立ちだったが、雪を前にして一度止まる。
「……ステーキのためだしなぁ」
と呟いて、再び自転車にまたがった。吹雪の中、川端通りをまっすぐ南下し、三条通を抜け、四条通で西に入って河原町へ。目指すは阪急百貨店の精肉売り場。よく分からないなりに、「デパートなら、いい肉があるはず」との読みだった。
彼女が買ってきたのは、神戸牛のヒレ。二枚で、ゆうに六千円を超えていた。
「焼き方、詳しく聞いてきた!」
帰ってきた舞子は、濡れた前髪をぴょこんと垂らして、メモを片手に笑っていた。
ぼんやりとした頭で、台所で格闘する舞子の気配を感じながら僕はまどろんでいた。
「お待たせ!できたよ!」
肉は、文句なしにうまかった。
赤身ならではの歯ごたえがありつつ柔らかく、舌の上でとろける。
舞子が塩加減に迷いながらも、店の人の言う通りに焼いたそのステーキは、人生で五本の指に入る美味しさだった。
そして、僕の予想通り──
翌朝、熱がすっかり下がっていた。僕は勝ち誇った気分だった。
舞子は納得のいかない顔で、でも僕の回復を喜んでくれた。
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だが、僕が肉パワーで復活した翌日の夜、今度は舞子がぐったりと布団に沈んだ。
「うう……なんかフラフラする……」
まさか、と思ったら案の定だった。今度は舞子がインフルエンザにやられてしまったようだ。
「筋肉が痛い、関節が痛い、体がだるい、喉が痛い、めっちゃ暑い、甘いものが食べたい、スープ飲みたい、なんかたいくつ~」
寝ない。
テンションが高く、ぐずる。
仕方なく、マッサージをし、舞子が買い置きしていたフルーチェを食べさせ、クノールのスープを飲ませ、いかるがのフルーツ牛乳、すりおろしりんご、しまいには親父から聞いた怖い話まで。
一晩中、舞子の世話で、僕はろくすっぽ寝られらなかった。まあ、病気の時は仕方ないか。
「明日、朝イチで病院連れてくから」
そう言って、僕は濡れたタオルで氷を包み、それをスーパーのビニール袋に入れて舞子の頭の下に置いた。
寝ない。
熱で寝られない舞子は、僕が大学の授業で使う源氏物語を読み聞かせろとごねはじめた。
どうしたもんだ。
僕と舞子の攻防は、白白と夜が明けてきて、2人共限界が来て寝落ちするまで続いた。
翌朝、前回僕がかかった医者に舞子を連れて行った。
「これは、インフルやなあ。そら、カップルやったら移るわなあ」
余計なことをいって先生が笑う。
「まあ、栄養取って、暖かくして寝てたら治るわ。薬も出しとくから」
というわけで、今度は僕が舞子の回復を手助けする番になった。
よし。栄養といえば肉だ。
何かないかと冷蔵庫を開けると、ジンギスカン用のラム肉がぎっしり入っていた。
そういえばこの前、タツヤが女の子と六甲山牧場へ行ったときにノリで土産に買ったはいいが、どうしたものか手に負えなくて、僕に譲ってくれたんだった。
──よし、これでいこう。
「ちょっと買い物行ってくる」
僕が言うと、まだ熱にうなされた舞子が、一人になったら寂しい。死んじゃうかもとまたもやぐずり出した。
冷凍庫にあったピノと、みかんの缶詰を与えるとやっと納得した。
ていうか、どんだけ色んなものを買い置きしてるんだ、こいつは。
まるで冬眠前のリスじゃないか。
すったもんだの末、やっと出かけられた僕は商店街を回って、もやしと玉ねぎ、ピーマンを買った。
タレの材料は、ニンニクも生姜も調味料類も全部台所に揃っている。
幸いなことに、舞子が買い置きしていたりんごまである。
ニンニク、生姜、玉ねぎとりんごはすりおろし、醤油・酒・みりん・砂糖を加えてひと煮立ち。とろみが出たら、ごま油を垂らして白ごまを擦って加える。
簡単だが、北海道出身の同級生が教えてくれた、現地仕様の本格ダレだ。
「ジンギスカンの主役は、実はもやしやからな」
掛け布団の上でアシカのように手足をパタパタさせて唸ってる舞子を抱き上げて、コタツにつれてきた。
じゅうじゅうと美味しそうな音を立てて焼けるラム肉を目にした舞子は、驚いた顔で僕を見上げた。
「なにこれ…?うわ…ひつじさんって食べられるんだあ…匂いヤバすぎ美味しそう…」
おそるおそる食べる。
「おいしい…」
しかし、取り皿に半分だけ、ご飯も半分だけ食べたところで、えづいてしまった。
「美味しいのにっっ!めっちゃ美味しいのにっっ!しんどくてこれ以上ムリだよぉ…食べたいよぉ…」
そうなのか。しんどい時は誰でも肉を食べたら回復すると思っていた僕には、理解できないことだが、弱ってるから胃が受け付けないのか。
まあ、食べられないものは仕方ない。羊に罪はない。
僕はひとりでモリモリと羊を食べはじめた。
美味い。
特製のタレが絡んだラムロースはもちろん、その脂を吸ってクタクタになったもやしがたまらない。
やはり、ジンギスカンの主役は、羊ではなくてもやしだ。
一瞬舞子のことを忘れていた。
ふと視線を感じて舞子の方を見ると、横になりながらも親の仇とばかりに恨めしそうに僕を見ていた。
「また元気になったら絶対作ってやるから!」を10回言っても、舞子は「それ…舞子の…舞子のひつじさん…」と本気で泣きながら繰り返している。
早く元気にしてやらないとめんどくさすぎる。
何だったら食べやすいか…お好み焼きが好きなのは知ってるけど、お好み焼きは舞子には叶わない。
舞子のお好み焼きは、もはや達人レベルなのだ。
あ!舞子の好きなうどんはどうか?
舞子が1人の時はうどんスープの素を使って、卵とじうどんをよく作っているのは知っている。
スーパーの5袋100円の何のコシもキレないうどんを。
「舞子?うどんなら食べられる?」
『うどんなら…』と、舞子はうわごとのように答えた。
よし。やはりうどんだ。
なら、本物のうどんを食べさせてやりたい。
もう春休みだ。予定なんて何もない。
よし、舞子を香川に連れて行こう。ついでに温泉も。
あんなほんのちょっとのジンギスカンでも、消化のために力がいるのか、やっと黙って眠りに落ちた舞子の顔色が少し戻り始めたのを見て、僕は決めた。
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舞子は関西と軽井沢、筑波万博くらいしか行ったことがない。
「香川に行く」と言えば大はしゃぎするだろう。きっと熱がぶり返す。
だから、何も言わずに連れて行くことにした。
僕の車、スプリンターカリブは、後部座席を倒すとほぼフルフラットになる。
押し入れからたくさんのクッションを敷き詰め、ポテチとフルーツ牛乳も積んだ。
ジンギスカンを消化すべく寝ている舞子を毛布に包んで抱き上げて車まで運び、その「巣」に詰め込む。
「お薬貰いに行くの?」
こんな早朝に開いてる病院があるわけはないのだが、というか、昨日歩いて行っただろ、と思いながら、
僕は「そうだよ」と答えてシートベルトを締めた。
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こうして、まだあたりは真っ暗の午前5時、僕たちは出発した。
鴨川デルタも、暗くて何も見えない。
春はもう、すぐそこまで来ていた。