第10話 舞子与一と骨付鳥
「あ〜、よく寝た!」
それが2人同時に目を覚まして同時に言った言葉だった。
時計を見ると、朝の5時半。
昨夜は2人とも8時過ぎには寝てしまった。
舞子は、すっかり元気とはいえ病み上がり、僕は僕で長距離運転で、さすがに疲れも溜まっていたのだろう。
同じ言葉が同時に出たことがおかしくて、顔を合わせて笑いながら、次に出た言葉もまたもや
「お腹すいた!」
が同時だったので、僕と舞子はゲラゲラ笑った。
平和な朝だ。
「もう起きとん?ほんなら、朝ごはん用意しよか?」
襖の向こうから奥さんの声がした。
よほど僕たちの笑い声が大きかったのだろう。
他に宿泊客がいなくてよかった。
「こんなに早くて大丈夫なんですか?」
と僕が訊いてるのに、舞子が僕より大きな声で
「お願いします〜」
と 布団の中から返事をする。
「まだ6時にもなってないのに、いいのかなあ」
僕がそう言うと、舞子は「えへへ」と笑いながら、いそいそと身支度を始めた。
布団から出て、洗面所で顔を洗う音が聞こえる。
その間に僕も布団をたたみ、荷物をざっくりまとめた。
やがて台所から、ジュウジュウと油の音が聞こえてきた。
焼き魚だろうか。
だしの香りに混じって、ふわりと甘い匂いもしてきた。
「昨日のしょうゆ豆、また出てくると思う?」
「うーん……出てきそうな気がする」
「うれしいの?」
「……まあまあ!」
しばらくして、襖がすっと開いて、奥さんが顔を出す。
「ご飯できたけん、そろそろどうぞ〜。お味噌汁、あったかいうちがいっちゃんええけんね」
「はーい!」
朝の光が差し込む居間には、昨日と同じちゃぶ台が置かれ、食事が並べられていく。
舞子はワクワクした顔で、並べてもらうのをじーっと見ている。
焼き鮭、出汁巻き卵、しば漬け、お味噌汁、炊きたての白ごはん。
そして──やっぱり出てきた。
「しょうゆ豆だ〜」
舞子が嬉しそうに笑う。
「昨日、あんたがよーさん食べてくれたけん、今朝はもうちょっと甘う煮てみたんよ」
奥さんはそう言って、湯呑みにお茶を注いでくれる。
「いただきます!」
僕達は手を合わせた。
味噌汁は白味噌仕立てで、豆腐とわかめがふんわり浮かんでいる。
「……ん? 味噌汁、白味噌なんや」
「うちは昔から白味噌やけんね〜。ちょっと甘いけど、慣れるとこれがええのよ」
という奥さんの言葉通り、白味噌の味噌汁は美味しかった。
白味噌って、お雑煮以外ではあんまり食べないのだけれど。
ごはんも粒立ちがよく、思わずおかわりしたくなる美味しさだ。
「やっぱりこれ、好き……」
舞子がしょうゆ豆を一粒つまんで、しみじみと言う。
たしかに、あの味には何か中毒性がある。
お茶を一口飲んで、舞子はまたしょうゆ豆を口に運んだ。
朝食を食べ終えたのは、まだ6時半だった。
僕たちは部屋に戻って荷物を整えた。
「よいしょっと……布団、押し入れに──」
「あっ、それ、しまわんでええよ〜」
台所から顔をのぞかせた奥さんが、手を拭きながら笑った。
「そのままにしとってくれたほうが、干したり点検したりできて助かるけんね」
「あ、すみません!ついクセで……」
僕たちは顔を見合わせて、ぺこりと頭を下げた。
静かな朝。
旅の途中とは思えないほど、のんびりした時間が流れていた。
部屋に奥さんが用意してくれたお茶を飲みながら、僕たちはしばらくのんびりしていた。
舞子は縁側の座布団の上で、まるで猫みたいに背中を丸めて日向ぼっこしている。
僕も、とろりとした眠気がやってきた。
あれだけ寝たというのに。
ボーン
居間の方から、柱時計が時を知らせる音が聞こえた。
時計を見ると、8時半だ。
また2時間も眠ってしまったようだ。
「舞子、そろそろ行くよ」
縁側の舞子に声を掛ける。
「もう出る?」
「うん……そろそろ荷物積もか」
宿の玄関で靴を履いていると、舞子がぽつりとつぶやいた。
「……ちょっと、お腹すいてきたかも」
「はやない?今朝、いっぱい食べてたやん」
「うーん……でも、うどんの口になってきたっていうか……」
確かに、言われてみれば僕も同じような感覚があった。
あの朝ごはんは美味しかったけれど、油分は控えめで、体には優しいぶん腹持ちはよくない。
そこへきて、旅の空気に背中を押されるように、何かを“もうひとつ”食べたくなる気持ちが湧いてくる。
「あと、あれかも」
舞子が言う。
「旅してると、なんか“食べとかないと損”みたいな気持ちにならない?」
それは、旅先の胃袋あるあるだ。
日常なら見送る軽食も、今この場所でしか食べられないとなれば、話は別。
「よし、じゃあ行く?うどん?」
「うん!」
僕たちの頭の中は、もうすっかり“うどんモード”だった。
奥さんに支払いを済ませる。
料金は本当に2人で5000円だった。
それだけじゃない。
「今日も天気ええけん、気持ちええドライブになるわ〜。あ、これ持っていき」
渡してくれたのは、小さなタッパー。
しょうゆ豆だ。
「うわっ……!」
「昨日の残りに、今朝炊いたのも足しておいたけんね。冷めてもおいしいけん、途中でお腹空いたときにでも」
舞子は両手でそれを受け取って、顔をパッと明るくした。
僕たちは車に荷物を積み込み、奥さんに手を振って出発した。
「ありがとうございました〜!また来ます!」
「気ぃつけてな〜!しょうゆ豆、こぼさんようにね〜!」
助手席に座ると、舞子は早速タッパーを膝に抱えながら、
「これ、今日のおやつだからね。うどん食べるまで開けちゃだめ」
と念押ししてきた。
はいはい。
◇ ◇ ◇ ◇
舞子のナビは今日も的確だ。
「今日の目的地はね、同じ町内の、かわひがし?かわとう?のにぃななろく。」
システム手帳を繰りながら僕がそう言うと、舞子は地図を見て
「うん。今日は近いし、しかもシンプルだね!」
と言った。慣れたものだ。
「次行くとこは、最後ちょっと道ややこしいんだけど、近くまで行ったら細かい道は覚えてるから、その近くの大きい道までで案内して」
「オッケー」
宿を出ると、まずは県道202号線を東へ。
「ずーっと道なり。そいで、国道438号線が出てきたら左折して、またずーっと道なり。そしたら、ハルくんが言ってるあたりに着くと思う。」
舞子の言葉通り、道のりはシンプルだった。
20分も走ると、覚えのある場所に出た。
「←琴南公民館」
看板を左に曲がると、すぐに公民館。
その先で小さな橋に出る。
渡ったところで右折して、村落の中の細い道へ。
ゆるい坂道を上がると、どう停めて良いのか悩んでしまう不思議な形をした駐車場が見える。
まだ1台も車は停まっていないもんだから、なおさらどの向きが平行なのか悩みながら僕は車を停めた。
「こんなとこにうどん屋さんあるの?」
舞子はそう言いながらも、期待で目を輝かせている。
車からほんの少し坂道を上がると、右側に、どこからどう見ても民家にしか見えない木造の建物。
のれんも看板も出ていない。
引き戸の横に簡素な長椅子とテーブルがあるだけだ。
でも、引き戸をからからと開けると、中は紛れもないうどん屋さん。
朝の光に照らされて、釜と、うっすら小麦粉で白く彩られた麺打ち台が輝いて見える。
「食べますか?」
白い割烹着を着た小さなおばあちゃんが声を掛ける。
「はい。もういけますか?」
「熱いのですか?冷たいのですか?大きいのですか?小さいのですか?」
この店の選択肢はこれだけで全部だ。
「えーっと僕は、大の熱いので。舞子は?」
「私も大の熱いのください」
「はい。10分ほどかかりよるんで、お待ち下さい」
店の外の長椅子テーブルに座って、僕は煙草に火を点けた。
「まだかな。まだかな。」
舞子が歌うように呟いている。
「できとるで〜」
奥からおばあちゃんの声がした。
中に入って湯気の出る丼を受け取る。
「卵、2つもらうね~」
と声をかけ、ザルに積まれた卵を舞子にも渡す。
「まずそれ割って、うどんの上に落として。」
「そしたら、次に、そこのタッパーのネギを入れる」
舞子は目をキラキラさせながら、うんうんと頷いて僕に従う。
「それで、最後にこの醤油を回しかける。かけすぎると塩辛くなるから気をつけて」
「で、最後に、箸で混ぜる。親の敵みたいに混ぜる!」
「さ、いただきます!」
丼を持って店の外に出た僕達は、一気にすすった。
「うわ!うわ!うわ!」
舞子が叫ぶ。
「なにこれ!?なにこれ!?」
僕も一緒になって、麺をすする。
麺の熱でとろりと卵が絡んだうどんは、腰があって、でも口当たりは濃厚にして柔らかく、ネギと醤油の香りが立ち上ってくる。
これはそう、和風カルボナーラだ。
例によってほっぺたを膨らませて何も喋らなくなった舞子は、すごい勢いで麺をすすっている。
多分今、巨大隕石が横の畑に落ちても気づかないのではないだろうか。
「あ~!!!美味しかった!ごちそうさま!」
僕と舞子は声を揃えて手を合わせた。
「昨日も一昨日もフェリーも全部美味しかったけど、ここのはまた全然違う新世界だね!」
「やろ?ここは絶対に外されへんねん」
「うん!最高だよ!ありがとう!」
ひとしきり美味しい美味しいの感想を述べあった後、お店に丼を返して精算する。
「大2つと卵2個です」
食べたものは自己申告だ。
「320円ね」
またしても衝撃の価格だ。
お金を払うと駐車場に戻り、僕達は車に乗り込んだ。
まだ美味しさの余韻に包まれている。
車を擦らないように慎重に向きを変え、また国道まで村の細い道を走る。
時間はまだ朝の10時。
「今日はどうするの?」
「うん。えーっとね、舞子、たぬき好き?」
「たぬきさん!?うん!かわいいじゃん!」
「オッケー。じゃあ、ちょっとしばらくドライブね。1時間くらい」
そう言うと僕は車を北へ向けた。
ここからは舞子の案内がなくても、なんとなく北へ向かって走っていれば、その内に案内看板が出てくるはずだ。
山越えのものすごいワインディングロードを抜け、しばらく走ると工事用のトラックがやたらと目につくようになった。
道沿いにある立て看板や垂れ幕によると、新しい空港を建設中で、来年には開港するらしい。
「高松空港(仮称)建設現場」
空港予定地を越えて、今度は国道193号線を北へ。
そこから30分程も走ると、あの有名な栗林公園が見えてくる。
「くりばやしこうえん?くりりんこうえん?」
「りつりん」
「え!?なんで?なんであれでりつなの?」
舞子と他愛のない会話をしながら栗林公園の横を通り過ぎ高松市内の中心部に入ると、目的地である屋島の案内がちらほら出てくる。
それに従い、東へ車を進めると、やがて駐車場の表示だ。
坂道を登り、駐車場に着いた。
駐車場に車を停めると、さっそく視界に入ってきたのは──
「えっ、たぬき……多っ!」
舞子が駆け出した。
「わー!こっちにもいる!あ、こっちはおなか出てる!ていうか、どれもおなか出てる!」
土産物屋の前にズラリと並んだ信楽焼のたぬきたち。
大中小、ニッコリ笑顔にほろ酔い顔、笠をかぶったものやお腹に“招福”と書かれたものまで、よりどりみどり。
「これ、全部たぬきで統一されてるのすごくない?普通さ、うさぎとか、かえるとか混ざってるのに。ここ、完全に“たぬき推し”!」
舞子は、たぬきの間を縫うように歩きながら、まるでお気に入りのキャラに囲まれてるみたいなテンションだった。
途中、木彫りのたぬきの隣に置かれていたリアルな剥製には、
「うひゃっ!……えっ、これ、生きてたやつ……?」
と飛びのいたが、しばらくして笑いながらポーズを取った。
「ハルくん、これ撮って!」
僕はポケットから、さっき買った写ルンですを取り出す。
舞子はたぬき像の隣でピースサインを決めていた。
そのまま展望台方向に歩くと、途中にあった案内板が目に入る。
「屋島合戦絵巻」と書かれた看板には、義経が海を越えて夜襲をしかけた話や、那須与一が扇の的を射抜いた名場面が、イラスト入りで解説されている。。
「ここが源平合戦の舞台なんだね……」
舞子は珍しく真面目な顔で看板を読んでいる。
「“与一、扇の真ん中を射よ”……って、これ、すっごいプレッシャーじゃない?」
「ハズしたら、たぶん討たれてたやろな」
「いやあ〜……戦ってそういうとこ厳しいよね……」
歴史の悲喜劇に思いを馳せつつ、小高い広場に出ると、今度は「かわらけ投げ」の的台が見えてくる。
「えっ、これ投げるの?!」
舞子はすぐに売店で三枚セットの素焼きの皿を買った。
「心願成就」「厄除け」「恋愛成就」と書かれた三枚に、マジックでなにやら書き込んでいる。
「なに書いたん?」
「内緒。恋愛系じゃないよ。たぶん。」
笑ってごまかしながら、舞子は一枚目を構える。
的は、少し離れた崖の先にある、金属製の輪。
「ふっ……いざ、出陣……!」
と口にした直後、スパーン!と見事に左の茂みに消えた。
「……あれ?」
「風、風のせいやな」
二枚目、三枚目も結局外れてしまったが、舞子は悔しがるよりも、皿が空に放物線を描くのを面白がっていた。
「ね、なんかさ、割れた音も気持ちいいよね。厄が落ちたって感じ」
そのあと、展望台にある望遠鏡に百円玉を入れると、
「あっ、あそこ!フェリーかな?動いてる!……あっ、もう終わった!?早っ!」
「あーあ、それで100円か……」
「でも楽しかった。見えた、海!」
最後は、売店でソフトクリームを買ってベンチに腰かける。
「うん……バニラうまっ。濃いのにしつこくないっていうか……あ、ハルくんも食べる?一口だけならあげる」
と、まるで犬に餌をやるような手つきで差し出してくる。
「ありがたく、たぬきの神に感謝しながらいただきます」
「なんかちょっとその言い方イヤ!」
2人で顔を見合わせて笑った。
山の上の風は涼しく、眼下には高松の街並みと瀬戸内海が広がっていた。
ソフトクリームのカップを手にしたまま、舞子はしばらく何も言わず、海の方を見つめていた。
その横顔は、どこか凛として、でもどこか幼くて、まるで風景に溶けてしまいそうだった。
「……ここ、来てよかった」
ぽつりと、舞子が言った。
「うん。僕もそう思う」
僕もまた、景色の向こうに何かを探すように、遠くを見つめていた。
屋島の風は、まだ夏の名残をほんのり残しながら、僕たちの頬を優しく撫でていた。
◇ ◇ ◇ ◇
「なんかまたお腹空いてきた…」
舞子が言う。
時計を見ると、時間は12時半。
「んー、ギリギリ間に合うかな」
僕はそう言うと、まだたぬきに心惹かれている舞子を促して車に戻り、少し急いで今度は西に向かった。
幸い、平日の昼間だということもあって道は空いていた。
海沿いの県道をずっと走り、高松市から坂出市を抜けて丸亀市へ。
大きな川の堤防の上の道を走っていく。
「次もうどん?」
舞子が訊く。
「ううん。骨付鳥。これ食べて京都に帰ろう。」
「え!?香川で骨付鳥食べるの!?何で?あの、甘いタレの付いた美味しいやつでしょ!?」
「んー」
僕が曖昧に答えると、
「あれね、小さい頃大好きだったんだけどめったに買ってもらえなくて、やっと買ってもらって家に持って帰って食べようとすると、お父さんとお兄ちゃんが『一口ちょうだい』って言って大口開けて『これも一口や!』って食べちゃうんだよー」
と、プンプン怒り出してしまった。
「ほら、あそこ。」
「いちつる?」
「いっかく」
駐車場に車を入れて、歩いて玄関にむかう。
白壁に瓦屋根がのり、古民家風の上品な店構えで、庇の着いた木の階段を上がる。
中に入ると、これまた木の風格が漂う広い空間が広がっている。
店中に、にんにくと鶏の脂が混じり合った、こってりとした香ばしい匂いが充満していた。
入った瞬間、その熱気と匂いに包まれて、僕も舞子も思わず顔を見合わせる。
「……なんか、すごい匂いだね」
「戦ってる感じするやろ?」
「え、誰と……?」
笑いながら席に案内され、テーブルにつく。
窓際の席からは、土器川の堤がちらりと見える。
木のテーブルには、紙ナプキン、つまようじ、そしてすでに水が入ったグラスが並んでいた。
「じゃあ、俺は“親”で。ちょっと固めやけど、味が深くてクセになるんよ」
「私は柔らかいやつがいいな」
「じゃあ“ひな”やな。こっちはジューシーで、皮もパリパリ」
「雛……。なんか名前が可愛すぎて逆に怖いけど、お願い!」
注文を済ませてしばらくすると、厨房からさらに強烈な香りが漂ってきた。
にんにくが焼ける音、ジュウッという脂の跳ねる音、そして一瞬だけ鼻にツンとくる胡椒の刺激。
「うわ……さっきより濃くなってない?」
「たぶん、今うちらの焼いてる」
「え、私たち……香ばしいの?」
まずはキャベツが出てきた。
キャベツをかじっていると、やがて、銀色の皿にのせられた骨付鳥がやってくる。
ジュウウウ……という音とともに、油と肉の匂いがふわっと立ち上る。
「はい、親と雛、どちらもお持ちしました〜。とり、熱いけん、気をつけてね」
舞子の前に“雛”が置かれた瞬間、彼女はぴたりと動きを止めた。
「……なにこれ」
本当に、素でつぶやいた。
「えっ、こんがりどころじゃない……えっ、黒い、ていうか……テッカテカ……」
「照りや。あぶらや」
「ていうか、にんにく!にんにくすごっ!」
「今さらやろそれ」
「いや……あたし、骨付鳥って、あの、ほら……お祭りの屋台のやつみたいな……甘いやつ想像してたから……」
「みたらし団子の親戚みたいな味?」
「そうそう、砂糖醤油の。照り焼き風というか。もっと、かわいいやつ」
目の前にあるのは、照り焼き風どころか、銀色に輝く皿にのった、黒々とした皮をまとった肉の塊。
その皮はパリッと焼けて泡を吹き、にんにくと胡椒が弾けるような香りを放っている。
舞子はしばらく、目の前の雛を見つめたまま、動かなかった。
「……なんか、見た目の圧がすごい……」
でもその表情には、ほんのりとした葛藤が浮かんでいた。
にんにくと胡椒と脂の三重奏が、確実に彼女の理性を侵食している。
「……とりあえず、一口だけ、ね」
「で、どうやって食べるのこれ?」
「箸袋で細いとこ巻いて、手で持ってかぶりつく!」
「分かった!」
そう言って、舞子は骨の部分に箸袋を巻いてかぶりついた。
皮がパリッと裂け、じゅわっと肉汁があふれ出す。
「えっ……なにこれ……」
ほんのひとかけを口に運ぶ。
「おいし……ちょ、これ、なにこれ……うそ……やばっ」
「……うわ、皮パリパリ!中ジューシー!にんにく!でもしつこくない!え、え、え!」
「うま!…でも、これ、めっちゃ味濃くない?しかもピリピリ辛い!」
「せやな、一鶴はスパイスきつめやからな」
「白いご飯とか、あったら欲しい!」
「あるある。ちゃんとおむすびあるで。頼んだるわ」
僕は店員さんを呼んで、おむすびをひと皿注文した。
少しして運ばれてきたのは、三角形の白いおむすび。
黒ごまがこんもりとのり、中央の一個だけ海苔が巻かれている。
横には、鮮やかな黄色のたくあんが添えられていた。
「わ……これ、かわいい」
舞子はさっそく、ひとつ手に取ると、ちょっとだけ骨付鳥の味の残る口の中に放り込んだ。
「……あああー、助かる〜〜!!」
思わず声が漏れている。
「辛い→白米→しょっぱい→白米!これ!これだよ!」
そして、見事なリズムで交互に食べはじめた。
舞子はほっぺたをパンパンにふくらませ、言葉も忘れてひたすら咀嚼している。
一心不乱、全力集中。
おむすびは、あっという間にひと皿なくなった。
「ハルくん、もうひと皿おむすびお願い!」
やがて2皿目が運ばれてきたとき、僕は言った。
「そのおむすび、皿にある油にちょんちょんとつけて食べると最高やで」
「え!? そんなことしていいの!?」
「ええねんええねん、うまいからやってみ」
舞子は恐る恐る、黒ごまのてっぺんを皿の端にちょんちょんとつけてから、ぱくりと一口。
「……なにこれ……うっっっま!!やば!!ちょっとなにこれ!?革命!!」
口いっぱいに頬張ったまま、目だけこちらに向ける。
骨付鳥とおむすびの無限ループに突入し、皿の下にたまった油をつけながら、舞子は骨の周りの肉を丁寧にしゃぶっていく。
その動きに一切の無駄がない。
「うわあ……やば……ありがとう……誰に言えばいいのこれ……」
「店かな」
「一鶴さん……尊敬……」
小声でつぶやきながら、舞子は最後までキレイに平らげた。
骨しか残ってない銀皿を見つめて、ちょっと寂しそうに見えたのは気のせいだろうか。
◇ ◇ ◇ ◇
会計を済ませ、車に戻った舞子は放心状態だった。
「うどん、うどん、しょうゆ豆、うどんときて、最後にこれは強烈すぎる」
「美味しかった?」
「美味しいとかそういう話じゃなくて、凄すぎた!」
うん。大満足だったようだ。
「じゃあ帰ろうか」
「えー!」
と、コンサートで『次が最後の曲です』と言われた客のような声を舞子が上げる。
「もうさすがに3日も香川にいる。また連れてきてあげるから、ね?」
「絶対?」
「うん絶対。」
「絶対だよ?」
「分かった。約束する。うどんと金毘羅さんとしょうゆ豆とたぬきに誓って」
「『名物 かまど』にも誓って」
「分かった。かまどにも誓う」
やっと納得した舞子の頭を手のひらでぽんぽんし、僕はアクセルを踏んだ。
助手席でポニーテールが揺れていた。




