第1話 ペンギンと箸袋
「天ざるセットひとつ」
「けんちんざる」
「山菜とろろざる」
「俺は……やっぱ大盛りざるで」
小諸を抜け、なんとか辿り着いた軽井沢の老舗の蕎麦屋は、観光シーズンから外れた1月にもかかわらず、噂通りの人気で、店の前にはしっかりとした行列ができていた。でも回転は早かった。20分ほど並んだだけで、僕たちは無事、4人がけのテーブルに案内された。
友人たちはそれぞれメニューを決め、僕は迷わず天ざるセットを頼んだ。店は、建物も器も趣があり、天井の高い木の梁が田舎の大きな家のようで落ち着いた雰囲気を醸していた。
注文を終えて、テーブルに置かれた温かいおしぼりで手を拭き、人心地着いた時だった。
パタパタッ。
店内を駆け抜ける足音に僕の視線が吸い寄せられた。
走っていたのは、小柄な女の子だった。まだ中学生くらいか、いや、うまく年齢が測れない。エプロンの下からのぞくのは、真冬だというのにデニムのショートパンツで、足元は白いスニーカー。髪は少し癖っ毛だろうか、ポニーテールに束ねていて、動くたびにふわふわと跳ねていた。
その滑稽で軽快な足取りは、まるでペンギンのようで、彼女がテーブルの間を縫うようにして盆を運ぶたび、僕はどこかの水族館で見たケープペンギンの給餌タイムを思い出した。
「マイコ!走るな!テキパキはいいけど、パタパタじゃない!」
厨房から飛んできた声に、店内の何人かがくすりと笑った。
マイコ?どうやら、あの少女の名前らしい。
それからしばらくして――
「はーい!天ざるおまたせしましたー!」
彼女はまたパタパタと足を運び、僕の前に蕎麦の乗った漆器を置いた。
「ありがとう」と言って顔を上げた僕は、息を飲んだ。
大きな目。控えめな鼻梁。言葉を発するたびに生き生きと動く口元。そして、予想を裏切る、凛とした可愛さがそこにあった。
動きはペンギンなのに。
僕は一瞬、目を奪われて動けなくなった。
「……おいおい、食べようや。お前がここ来たいって言ったんやろ?」
友人の声で我に返った僕は、慌てて箸袋から箸を取り出し、パキッと割った。
──僕たちは大学の冬休み最後の週末を利用して、志賀高原までスキーに行っていた。大学の仲間たちと車を乗り合わせ、徹夜で京都を出て、一晩中、昨年公開されたスキー映画の主題歌をカセットで繰り返し流しながら、翌朝には一の瀬のゲレンデに立っていた。
「ゲレンデのカフェテラスで、滑る貴方に釘付け」
「ホテル一の瀬」という木造のクラシックな山荘風の宿に3泊して、最終日も滑りたかったのだが、あいにく、明日からはもう授業が始まる。帰京しなければならない僕達は、少し後ろ髪を引かれつつも、朝早くにホテルを出た。
帰路は志賀高原から一の瀬を下り、峠を越えて上田へ。
車は菅平高原をかすめる。夏場はラグビー部の聖地も、この季節は静まり返っていた。高校時代にここで合宿した記憶が、雪景色の向こうにぼんやりと浮かぶ。
上田に入り、車窓に上田城址の石垣がちらりと見えた瞬間、思わず前のめりになる。真田昌幸・信繁父子の奮戦は、僕の中では歴史ロマンの金字塔だ。少人数で東軍を翻弄したあの話を思い出すたび、血が騒ぐ。
「ちょっと寄って……」と言いかけてやめた。まだ小諸を抜けて、蕎麦屋にたどり着かなきゃならない。寄り道癖はすでに仲間に見抜かれているし、今日は目的がある。
小諸に入ると、助手席の僕は懐古園を探して目を凝らした。仙石秀久の居城、小諸城は「穴城」として知られ、本丸が城下町より低いという珍しい構造をしている。地形好きとしても見逃せない。
さらに、島崎藤村。高校時代に読んだ『千曲川旅情のうた』が、この町に独特の郷愁をまとわせている。あの歌碑も、たぶん今も変わらず風に吹かれて立っているんだろう。
「……っていうか、ハルヒト、さっきから歴史と文学とラグビーしか言ってへんな」
後部座席からあきれた声が飛ぶ。
「いや、全部そろってるんやって。奇跡のコースやろ?」
そんなやり取りをしながら、僕たちは軽井沢の町に滑り込んだ。
なぜそんな回り道をしたかというと、ただひとつ――この蕎麦屋に来たかったからだ。
かつて皇族も訪れたことがあるという老舗、歴史好きで食いしん坊の僕には堪らない組み合わせだったし、島崎藤村の詩に漂うあの寂しげな空気感とも重なって、どうしても一度この地を踏みたかった。
友人たちも、そんなノリは嫌いではない。むしろ「おもろそうやな」と、僕の思いつきに付き合ってくれた。
肝心の蕎麦は、期待を裏切らなかった。
冷水でキリッと締められた細めの手打ち蕎麦はコシがあり、そばの香りが立っている。つけ汁は濃すぎず、出汁がじんわりと染みてくる。天ぷらは衣がカリッと軽く、中はふんわり、ジュワッと甘みがにじむ。
「だから走るなってば、マイコー!」
再び厨房から飛ぶ声を背に、赤い湯桶を手に、彼女がパタパタとやってきた。
湯桶の口から立ち上る白い湯気が、彼女の頬をほのかに染めている。
「ありがとう、マイコ?ちゃん?」
僕がそう声をかけると、彼女は驚いたように目を丸くした。
「えっ、なんで名前知ってるんですか?!」
いや、あれだけ厨房から叫ばれていれば誰でも気づく。
真冬に短パンで、店内を縦横無尽に走り回って怒られて、それでもちゃんと爪は短く整えてあって、ピアスもしていない。飲食店のアルバイトらしく清潔感があり、何より仕事熱心だった。
年齢は……正直、わからない。中学生にも見えるし、20代半ばくらいにも見える。妙に落ち着いているようで、子供っぽさも残っていて、まるで時間軸のどこかに引っかかってる存在みたいだった。
僕は、周りの友人たちの冷やかし――
「出た?!」
「またや?ナンパですか?」
「マイコちゃん、気をつけてね?」
――を無視して、箸袋に自分の名前と連絡先を書いた。
中田晴人 同志社大学文学部
京都市左京区〇〇町〇-〇-〇〇号
075-〇〇〇-〇〇〇〇
「よかったら、連絡ちょうだい」
彼女はほんの一瞬だけ不思議そうな顔をしたあと、すばやく箸袋を受け取って、短パンの後ろポケットに滑り込ませた。そして、またペンギンのように、別のテーブルへと駆けていった。
「ようやるよなー、ハルヒトはよう!」
友人に呆れられながら、僕たちは店を出た。会計のレジは、別の年配の女性だった。
時刻は午後2時を回ったところ。空気はキリッと澄んでいたが、浅間山のあたりにはうっすらと雪雲がかかっていた。
僕たちは軽井沢を出て、国道18号で小諸・上田を抜け、佐久から山越えの道を松本へ。そこから国道19号を南へ下って岡谷ICに入り、ようやく中央道に乗った。
運転を交代しながら、まるで取り憑いた悪鬼のような眠気を振り払うようにコーヒーをがぶ飲みし、中村あゆみのカセットや、友達の姉がくれたRCサクセションのダビングテープなんかを順繰りに再生した。
夕方、恵那峡サービスエリアに立ち寄った。古い自販機で買ったホットコーヒーは、煮詰まったように苦くて、飲むそばから喉の奥が痺れた。
ここからは僕が運転した。というか、そもそも僕の車だ。
「寝不足で滑ったあとにこの距離は、さすがにしんどいなあ」
助手席の友人があくび交じりに言う。僕も、カリカリだった天ぷらと、さっぱりとしたそば湯の余韻に引っ張られながら、ぼんやりと高速道路のテールランプを追っていた。
関ヶ原を過ぎたあたりから、雪がちらついてきた。タイヤの下でシャーベット状の音がして、車の速度は自然と落ちた。
京都に戻ってきた頃には、もう夜の11時を回っていた。眠そうな友人たちを、それぞれの下宿の前で降ろしていく。堀川の裏手、御所の西側、そして百万遍のあたり。ひとり、またひとりと別れていくのが、なんだか寂しかった。
僕のアパートは出町柳の高野川寄りにある、小さな木造の二階建て。家賃とセットの格安の青空駐車場に車を停め、ルーフキャリアに括りつけたスキー板を外した。盗まれるようなものでもないけど、僕なりにちょっと気に入っていた。
荷物を解く気力もなく、車のキーだけをポケットにしまって、階段を上がる。部屋の明かりをつけると、外の闇にほっとするような、逆に孤独が染み込むような、なんともいえない感情が押し寄せた。
布団に倒れ込むと、そのまま寝てしまった。
翌日から、またいつもの大学生活が始まった。
アパートから自転車に乗り、駅の踏切を越え、鴨川デルタを右手に見ながら賀茂大橋を渡る。朝の空気は冷たいが、鼻を突くような川風が目を覚ましてくれる。今出川通を西へ進み、河原町を渡ったあたりで、左手に御所の森が現れると、もうすぐだ。
同志社大学の今出川キャンパス。レンガ造りのクラーク記念館や、煉瓦とガラスが融合した新しい校舎。大正時代の学生のような気分に浸るには十分すぎる景観だ。
僕は文学部。ジャーナリズム論や近代詩の講義に顔を出しては、ノートよりも隣の女子の髪型が気になってしまうような、そんな日常。
喫茶店で講義をさぼったり、鴨川沿いで友達とくだらない話をしたり。冬の陽は短くて、夕方にはもう街灯が灯っていた。
そんな風に、華やかなゲレンデから極めて地味な日常に戻って一週間ほどが過ぎた。
その日は講義が終わると、なぜだか自炊する気力も起きず、僕は烏丸通から上立売を上がった。昔は白かったはずの黄ばんだテントに、くすんだ緑色で「ごはんや」と書かれた定食屋。学生のあいだでは、知る人ぞ知る人気店だった。
この店はメニューがない。「今日のごはん」だけが、その日のすべて。
今日のメニューは、いわしの煮付け、水菜のおひたし、冷奴、きゅうりとタコの酢の物、そして、味噌汁とご飯。素朴で地味だけど、食べるたびに身体の奥から「うまいなあ」とつぶやきが漏れる味。
常連らしき男子学生が黙ってテレビの相撲を見ていて、湯気の立つ味噌汁の向こうで、お母さんが手際よく皿を並べていた。
ごはんを食べ終えた僕は、店の外に出て自転車にまたがった。烏丸通を下り、今出川通を鴨川の方へと進む。
「……あー、そうだ。洗濯。明日着るもんないやん」
心の中でつぶやいて、コインランドリーに行くか行かないかで逡巡しながら、アパートへの細い路地を曲がった。
と、玄関先に誰かがいることに気づいた。
アパートの外灯が、寒々しいオレンジ色の光で玄関まわりをぼんやりと照らしている。僕は自転車のブレーキをそっと握って止まり、ペダルから足を下ろした。夜の空気が思いのほか冷たく、吐く息が白く伸びた。
玄関の脇、コンクリートの隅に、小柄な誰かがしゃがみこんでいるのが見えた。
よく見ると、それは三角座りでうずくまった女の子だった。
この寒空の下、上着こそ着ているが、足元は白いスニーカーに短いデニムの短パン。細い脚が冷えきって見える。小さな背中に少し大きめな革のリュック。膝の間に顔を埋めていて、その表情は見えなかった。
「不用心だなぁ……」
僕は小さくつぶやいた。
こんな場所で、こんな時間に、ひとりで座りこんでいるなんて。
できるだけ関わらないようにそのまま通り過ぎようと、自転車をゆっくり押して横をすり抜けようとした、そのとき。
その女の子が、ぴょんと顔を上げた。
ポニーテールが弾んで揺れる。
冷気を切るような、ぱっちりとした目が、まっすぐに僕を見た。
「やっと帰ってきた!」
マイコだった。
あの蕎麦屋で、天ぷらを運びながらパタパタと走っていたあの少女――マイコ。
僕は立ち尽くした。
こうして、僕の平穏な日々は終わりを告げた。
夢のような、でもやけに現実的な、冬の夜だった。
このあと彼女は、思いもよらない自己紹介をする。
それがすべての始まりだった。