批判殺到でサ終した乙女ゲー世界を、未実装キャラとともに改変します!
ストーリーチケットをご購入くださいっ!?
いま令和6年なんですけどっ!
「──アキ、怪我はないか?」
「あ、はい……。大丈夫です、ルドリックさん」
膝頭にジリジリと生じる、擦り傷の熱い痛み。
慣れないヒールのせいで、石畳の歩道で転んでしまったわたし。
そんなわたしへ中腰で手を差し伸べてくる、グレーな長髪の美青年騎士、ルドリック。
がっしりとした体躯でありながら、高身長ゆえに見た目の印象は細く、湾曲を描いた眉と大きめの瞳が、柔和な印象を生んでいる。
そのルビーのような赤い眼球に映るのは、輝く栗毛色のウェービーヘアーを持つ、少女然の垢抜けない女。
それがこの世界……このゲームの主人公、アキ。
首都の巨大学園、その寮に住まう一生徒。
わたしは、そのアキ。
ここは、サービス終了したファンタジー乙女ゲー「ラグナロクの中心で愛に吼える」の世界──。
『【重要】「ラグナロクの中心で愛に吼える」は2024年6月28日をもってサービスを終了させていただきます』
SNSの公式アカでその通知を見たとき、わたしの動揺はわずかだった。
胸の内を占めるのは、ああやっぱり……という、苦々しい思い。
それもそのはず、「ラグほえ」はことしに入ってから暴走の一途──。
「あっ……ルドリック。アキと付き合っているって噂、やっぱり……」
「ま、待て……ムスタン! 誤解だっ!」
……うん、これこれ。
これがサ終の元凶。
わたしたちのわきから現れたのは、攻略対象キャラの一人、ムスタン。
薄紫色のボブカットにあどけない顔つきの、わたしより背が低い魔導士の少年。
魔導士ローブの下に短パンを穿き、膝から下の生脚を露出させている、いわゆるショタキャラ、弟系キャラ。
ゲーム中唯一の年下設定で、ユーザー間で安定した固定ファンを持っていた。
「いた」という過去形で言わないといけないのは、とても残念──。
「ラグほえ」運営は、現ユーザーの課金ではサービスを維持できないと判断したのか、年明けからあからさまに、男性同士のいちゃつき要素を盛り込んだ。
腐女子を新規層として取り込もうという、見え透いた判断。
こっちがダメならあっち、という安直な思考。
その安っぽいマネー回収シナリオが、いま目の前で再現されてる──。
「ルドリックは、いつだって……。僕の騎士で、いてくれたのに……」
「……それでいいのか、ムスタン。いつまでも、だれかに守ってもらえるという生き様で?」
……ねーよ、そんな設定。
「僕の騎士」なんてムスタンの台詞、シナリオ全部読み返したけど一度もなかったわ。
令和5年の大晦日までは、そんな設定ミリもなかったんだよ。
新春イベントが、おちゃらけたギャグ展開で──。
お年玉と銘打ったログインボーナス、大放出で──。
その月末までは、路線変更に気づけなかったけれど……。
バレンタインイベントではもう、みんなさすがに顔歪んだよね。
なにしろ、男同士でチョコ交換展開──。
『『『『『……はあ?』』』』』
一気にSNS上へ蔓延した、違和感の嵐。
関連ワードが続々トレンド入りし、悪目立ち。
これがいけなかった。
ショタキャラのムスタンが男オタクの目に留まり、「ムスたん」としてバズった。
バズってしまった。
おねショタ、おにショタのみならず、ムスタンの女体化、ふたなり化が流行。
同時にゲーム内で、男性ユーザーから女性ユーザーへのフレンド申請爆増。
それによって従来の「ラグほえ」ユーザーは激減。
引退者続出。
その騒動の影で、公式サイトからしれっと消されたメインシナリオライターの名義。
あの、時に軽快で、時に優雅な物語は、この先にはもうない。
ここからお出しされてくるのは、いわば公式の二次創作物──。
「公式が出したらそれが正史なんだよ」という正論をSNSで目にしては、事実陳列罪でブロックの刑。
それでも……そんな日々でも、わたしみたいな古参ユーザーたちは、なんとか耐えた。
ゲーム内での楽しい思い出。
コミュニティー機能を通じたファン同士の交流。
グッズのランダム特典、その交換会場で触れた優しさ、ほっこり。
そしてリアルイベント会場の、運営陣と声優陣によるサービス不滅宣言へと流した熱い涙──。
その古参の心の支柱を、たやすくボッキリ折ってきたのが、さらなる邪悪な仕様変更──。
「……ムスタン!」
「……ルドリック!」
転倒したままの主人公を差し置いて、抱き合おうとする美男子二人。
そこで世界は止まる──。
そして空中に浮かび上がる、憎々しいメッセージ──。
『このストーリーはここまでです。続きを読む場合はストーリーチケットをご購入ください』
ストーリーチケット。
女性向けソシャゲ黎明期によく見られた仕様。
男性ユーザーに比べて「ガチャ」に慎重な傾向が強い女性ユーザー対策として、シナリオの続きを読ませるために導入された課金アイテム。
濃厚なラブシーンを見るためにはお金を出しなさい、というわかりやすい要求。
中には、会話たった5タップで次のチケットを要求してくる強欲ソシャゲもあった。
これは結果的にガチャ以上に不評で、令和ではほぼほぼ見られなくなる。
その平成のシステムを、「ラグほえ」は令和6年に実装したのだ。
わたしの目の前にいるルドリックとムスタンは、時間が止まったように停止。
抱き合う直前の笑顔のままで、フィギュアかCGのように固まっている。
人によっては、二人へ近寄ってガン見したり、くんかくんかしたりするのかもしれないけれど……わたしには無理。
自力で立ち上がり、スカートをはたいて砂を落とし、この場をあとに──。
「はあ……」
制止した世界で一人漏らす、重い溜め息。
「ラグナロクの中心で不満に溜め息」……か。
こんな世界、来たくなかった……けれど。
現実世界で死んでしまったのだから、しょうがない。
死んでわたしはここにいる。
その実感と記憶は、しっかりあるのだけれど……。
死んだ原因、理由がすっぽりと、記憶から抜け落ちてる。
願わくば死因が、「ラグほえ」のサ終に悲観した自害……でないことを祈る──。
──ガチャッ……バタン。
学生寮の自室のドアを開けて、帰宅。
この部屋にはベッドと木製デスク、天蓋付きベッドに化粧台、課金やイベント報酬で手に入れた衣装とアクセサリーの数々。
そして……初期配置かつ移動不可の、大きな柱時計。
いまこの制止した世界の中で動いているのは、わたしと柱時計だけ。
針と振り子が、律儀に、愚直に、時を刻んでる。
そして2時間おきに、世界が動き出す。
「ラグほえ」のストチケ無料配布も2時間おき──。
「ふう……。次のストチケまで、1時間半かぁ……」
ベッドへと腰を落としてから、仰向けになって腕枕。
真上に見えるのは、天蓋の裏側、その板張り。
女ならば一度は憧れる、天蓋付きベッドだけれど。
その望みをこんな世界で叶えたところで、ちっともうれしくない。
「……あーあ。ここがストーリー路線変更前の、『ラグほえ』世界だったらなぁ」
「おまえもそう思うか」
「……っ!?」
突然の、低めな男の声。
聞き覚えのない、声優の声。
驚きで腰が勝手に「く」の字に曲がり、上半身が起き上がる。
声の出所……勉強机には、椅子の背もたれを体の正面で抱いて座る、見知らぬ男。
黒く長い前髪で片目を隠した、やや色白の、線の細い青年。
「あ、あなたは……?」
「俺はラヴァード・ブック」
「ラヴァード……ブック……」
……いたかしら、そんなキャラ。
記憶にない。
攻略wikiの内容をほぼほぼ把握してる古参勢のわたしの脳内にない、ということは……謎の人物。
「そんな奴知らない、といった顔だな。無理もない。俺は未実装キャラだ」
「み……未実装キャラ?」
「幸い、一部セリフのボイス収録が済んでいてな。そのおかげで、こうして声で話すことができる」
ゆらりと立ち上がる、ラヴァード……さん。
七分袖の黒いシャツ、あざとく露出させたへそ周り、細身の体をより細く見せる黒いスキニーパンツ。
うなじで束ね、腰まで垂れ下がる後ろ髪には、光沢ある碧色のメッシュ。
背丈は……わたしより頭一つ分高そう。
これは、刺さる人が結構いそうなルックス。
そういうわたしも、かなり──。
いやいやじっくり観察する前に、確かめることが一つ。
「ラヴァードさんは……チケットない状態でも動けるんですか?」
「ああ、未実装キャラだからな。この世界の仕様の外に生きている」
未実装キャラ……ということは。
まさか、この人……。
「もしかして……。シナリオ大改編の前に実装が予定されていたキャラ……あ、いえ。お方……ですか?」
「そうだ。あのメインストーリー路線変更時に、人知れず消された存在。それが……俺」
低音ボイスだけれど、声はどこか幼げ。
声優さん、だれなのかな?
ともあれ、庇護欲に駆られて天井までガチャ回しそうな人いそうな、儚げで憂いのある印象。
あっ……ラヴァードさん、ベッドの縁へ腰下ろしてきた……。
「……俺と一緒に、物語を元へと戻してくれないか?」
「元……。改編前の設定、ですね」
「うむ。おまえが都合よくモテまくる、虫のいい物語だ」
そ……そこはオブラートに包んで言ってもらえれば……。
だけど、物語を元に戻すって……そんなことできるの?
「元に……戻すって。いったいどうすればいいんですか?」
「おまえがモテまくればいい」
「えぇ……?」
「単純な話だろう?」
「単純ですけど、簡単ではなさそうな……」
「フフッ……まあな。この世界の男たちはいま、異性への興味をほぼ失っている。設定上、垢抜けない平凡な女のおまえには、ハードモードだろう」
……きっと、そう。
いまのここは、ほぼほぼBLの世界。
BL世界の女性主人公……苦労しないわけがない。
BL界隈だと女性キャラは、見切れや匂わせですら拒否反応起きるのに──。
──ボーン……ボーン♪
あっ……柱時計の時報。
1時間ごとのお知らせ。
ストチケ配布まで、あと1時間。
「さあ……行こうか、アキ。時間が惜しい」
「あ、あの……ラヴァードさん? わたしたち以外まだ、止まっていますよね?」
「だからこそ、だ。世界が止まっているうちに、課金アイテムを奪いまくる」
「ええーっ!?」
「俺もおまえも、酷い扱いを受けたんだ。それくらいは許されるだろう?」
時間が止まっているうちに泥棒……。
でもそれって……バレることのない完全犯罪!
その発想はなかった!
微課金勢だったから、そもそもアイテム屋を覗く習慣が身に着いてなかった!
「じゃあ、えっと……。魅力値激増のパーティードレスや、移動先が増える馬車も無課金で手に入る……ってことですか?」
「当然。それからストーリーチケットもな。これからは、好きなタイミングで世界を動かせるぞ」
「あっ……。なるほどぉ!」
時が止まっているうちにアイテム強奪して、自分を思いっきり強化して、ストーリーを……世界を、元の路線へと戻す──。
言われてみれば、なぜ思いつかなかったんだろうって話。
……ううん。
思いついても、わたし一人じゃ実行できなかったかも。
そんなことをすれば、この世界に不具合が生じる……。
この世界がバグって壊れる……。
そんな不安で、結局動けなかったはず。
けれど、この世界の住人の、ラヴァードさんとなら……!
「はいっ! 行きましょう、ラヴァードさんっ!」
「よし。まずは近場の街で、目ぼしいものを漁るぞ。次回のストーリーチケット付与……世界が動き出すまで、遠出はできないからな」
「わかりましたっ!」
二人して、寮の外へ──。
きれいに手入れされた芝生、生垣……。
学園の高い外壁、その向こうに見える白い雲、青い空。
そして、時間停止してるモブの学生たち……。
美しいながらも、空々しい景色。
けれどいまは、見るものすべてに命が宿っているかのよう。
隣に仲間……ラヴァードさんがいるから──。
「ちなみに……ラヴァードさんのプロフって、見ることできます?」
「一応はな。ステータスの類は実装済みだ。だが、見ないほうがいいだろう」
「えっ……。ど、どうして……ですか?」
重度の鬱設定背負ってるとか……。
女たらしだとか、実は犯罪者……だとか?
「一人くらい素性の知れぬ男がいたほうが、おまえも飽きないだろう?」
あ、そういう意味……。
ほっ……一安心。
確かに古参ユーザーのわたしは、この世界のこと知り尽くしてる。
だったら、新規実装キャラ……ラヴァードさんは、これからゆっくり知ればいい。
「はいっ、わかりました!」
「では……行くか。だがその前に、こいつを忘れてはいけない」
──バサッ!
……日傘?
ラヴァードさん、黒くて通気性のある傘を差した──。
「日光が苦手でな。出歩くときは、こいつが手放せない」
「お肌、弱いほうですか?」
「ン……まあな」
「黒ずくめの姿で、日光が苦手……。まるで吸血鬼ですね、アハッ♪」
──びくっ!
「……いま、びくってしました?」
「んん……? いや、おまえの気のせいだ……」
「本当ですか~?」
「……素性を探ってくるなら、組まんぞ。生来俺は、独りが好きなたちだ」
「あっ……いえいえ。わたしの気のせいでした、はいっ!」
ラヴァードさんってまさか……。
本当に吸血鬼……だったり?
でも、「ラグほえ」に魔族系のキャラいなかったから……。
もしそうなら、かえって楽しい生活になるかもっ!
さあここからは、わたしの知らない「ラグほえ」の世界!
設定を元に戻すため……。
そして、その先を創り、そこで生きるため……。
いざ……出発───!
◇ ◇ ◇
あれから──。
ラヴァードさんと出会って、いま半年くらい……かな。
ループ世界のここでは、時間ってあまり意味ないけれど。
ラヴァードさんと一緒にアイテム盗んだり、止まった時間を好きなタイミングで動かしたりで、少しずつ世界を変えていけてる。
ドーピングというか、チートというか……得られたアイテム群のおかげで、わたしはずっとずっときれいになった。
美容も、フォーマルもカジュアルも、アクセサリーも思うがまま。
そしてついに手に入れた、2階建てのちょとした豪邸。
「ラグほえ」男性陣には貧乏画家や根無し草の旅人もいるから、これでいつでもお迎えできる──。
◇ ◇ ◇
「ラヴァードさん、ただいまーっ♪」
「……遅かったな」
「エイセスさんがなかなか帰してくれなくって……エヘヘッ。時間停止のおかげで、ようやく解放されました」
「エイセス……熱血脳筋くんか。アキの推しキャラだな」
「ええ、まあ……。わたしは基本箱推しなんですけど、『ラグほえ』始める前から赤毛キャラ好きで……。正直、彼はひいきしてました。アハハ……」
「チケット使って、デートの続きをしてきたらどうだ? かなり押せているんだろう?」
……そう。
BL世界の住人となった「ラグほえ」のみんなとも、少しずつだけれど近しくなっていけてる。
路線変更があったとはいえ、キャラの基本設定に変更なし。
古参ユーザーのわたしは、みんなの境遇や趣味嗜好を完全把握。
そこへ美を増したことで、みんなの見る目が少しずつ変わってきた。
ときには男装なんかもしちゃって、目を引いてみたり。
けれど──。
「……いえいえっ! 一日三度の食事はラヴァードさんと……って、決めてますから!」
「食事と言っても、出来合いを皿へ並び変えるだけだろうに」
「うっ……。だ、だってこの世界のお食事、出来合いのものしか売ってませんから……しかたないです」
「まあな。料理も弁当も出回ってはいるが、その材料がどこから来ているのか、さっぱり不明。しょせんはゲーム世界だ」
「そのくせ、農民や漁師のNPCはいるんですよねぇ……不思議」
「俺はここの生まれだからまぁいいとしても、アキはどの料理も食べ飽きたろう?」
「……そうでもありませんよ。出来合いのお料理をアレンジしたレシピ、考えるの意外と楽しいんです。ラヴァードさんが食べたことない創作料理、きょうもごちそうしますよ!」
いましがたお弁当屋さんから盗……ゲットしてきたランチセットの数々。
ハンバーグ、ベーコン、目玉焼き、トマト、レタス、タマネギを取り分けて、フィッシュフライ弁当からタルタルソースを拝借……。
これをバンズで挟めば豪華なハンバーガーの出来上がり!
そのバンズは、パン屋さんから失敬してきたコッペパンを、包丁で上下に分割して……っと。
それにしても「ラグほえ」が料理系充実してる作品でよかった……。
サブで遊んでたソシャゲの食べ物アイテム、幕の内弁当とお団子だけだったから、そちらへ転生してたら舌がヤバかった、うん。
さて、コッペパンへ包丁を入れて──。
「……アキ」
「えっ? ラヴァード……さん?」
唐突に背中をくるむ熱気、体温。
腰に回る、細くも力強い両腕。
わたしの上半身が、自ら望んでいるかのように、彼の胸元へと引き寄せられる──。
「あ、あの……ラヴァードさん? わたし包丁握ってますから、危ないですよ?」
「包丁で傷つくほど、俺の体はやわじゃない」
「やっぱりラヴァードさんって……吸血鬼なんですか?」
「そうだ。その俺がいま最も食したいのは……アキ、おまえの血だ」
「ち、ち、血……ですかっ!?」
「心配ない。致死量には程遠い、ほんの一口だ。俺に捧げてほしい」
えっ……ええええ……。
わたしの血を吸わせてほしい……って、ど……どうしよう。
けれどわたし、現実世界ではしょっちゅう小さなケガしてたし。
蚊にもよく刺されてたし。
献血も経験あるし……。
ほんの一口って、いうのなら……。
「じゃ……じゃあ、どうぞ」
「急にで悪いな。エイセスの奴に、やきもちを覚えたのかもしれない」
「えっ……?」
──カプッ!
「あっ……つっ!」
注射を打たれたような痛みが、右の首筋へほんの一瞬。
きっと彼の犬歯の先端。
それから柔らかな唇が、わたしの肌と密着。
これって吸血というより、首筋へのキスなんじゃ──。
「ラ、ラヴァード……さ……ん……」
痛みはもう少しもない。
血を吸われている感じもしない。
これはただただ、首筋への熱いキス……。
ううぅ……口の中が甘酸っぱさでいっぱい……。
頬がキュウっと内側へ萎む……。
それにしても、一口って言ったのに……長い。
けれどこの時間が、もっと続いてほしい気も……。
彼はいまのいままで、吸血を我慢してくれてたんだから……。
死なない程度までなら……いい……かも…………。
──リーン……ゴーン……リーン……ゴーン♪
「……はっ!?」
どこからか……ううん、家の四方から響き渡ってくる、重くも美しい鐘の音。
失神しかけていた気がするけれど、それで意識が戻った。
ラヴァードさんも、鐘の音に驚くように、牙を……体を離す。
「す、すまない……アキ。おまえの血が美味しすぎて、口を離すことができずに……」
「い、いえ……それはいいんですけど。この鐘って……」
「あ、ああ……。まさか……」
真正面で目を合わせ、二人同時に息をすぅ……と吸う。
「「……祝福の鐘っ!」」
──祝福の鐘。
「ラグほえ」にて、攻略対象キャラと固い絆で結ばれたときに鳴る……と《《される》》鐘の音。
メインストーリー終盤に実装予定と、運営が公言していた要素。
けれどそれを耳にするユーザーが出る前に、「ラグほえ」はサ終。
「祝福の鐘……。実装……されていたんですね……」
「う、うむ……。データが存在していることは知っていた。ただ、いまここで鳴るとは……」
「鳴る条件、なんだったんです?」
「キス……だ。俺は食事のつもりだったんだが、アキは……そうは受け取らなかったようだな」
「なっ……なすりつけないでくださいっ! ラヴァードさんこそ一口って言っておきながら、長々と……。途中からキスだったんですよね、あれっ!」
「……否定はすまい。ただ、いまのをキスと解釈されるのに不満もある」
握りっぱなしだった包丁を、ラヴァードさんが強めの力で奪い取り、シンクへと置く。
それからその手を、わたしの顎の下へとそっと添えた。
指先でわたしの顔を、軽く持ち上げる。
彼の意図を察し、受け入れ、瞳を閉じる。
ラヴァードさんの顔の熱気が、ゆっくり近づいてくる──。
「ン……んん……」
重なる唇。
鐘はまだ鳴ってる。
彼の両肩を掴んで、つま先立ちへ。
さっきの吸血とは違う、ちゃんとしたキス。
だったらさっきのより、長い時間しないと────。
◇ ◇ ◇
ラヴァードさんと結ばれても、「ラグほえ」の世界は続く。
広がっていく──。
「ちょいとお嬢ちゃん……じゃなくって奥さん! いい白菜入ってるよっ!」
「もぉ、おじさん! 奥さんはやめてって、いつも言ってるじゃないですかぁ! わたしまだ学生ですよぉ?」
呼び込みの声にそう返すわたしの顔は、ニヤニヤのゆるゆる。
かつて出来合いのお弁当を売っていたお店の軒先には、いまや生鮮野菜がズラリ。
祝福の鐘が鳴ってから、「ラグほえ」の世界は少しずつ変化している。
時間停止がなくなり、人々の生活は現実のそれに近づきだす。
ラヴァードさんがわたしの血を吸ったことで、互いが互いに生身……命を感じ、それが鐘の音に乗って、この世界へ命を分け与えたんだと思う。
NPCだった学園の同級生たちも個性が強まり、自我を持ち始めた。
その一人が、こちらへ駆けてくる──。
「ねえねえアキっ! いまそこでエイセス様をお見掛けしたんだけど、どこへいらっしゃるか知らないっ!? あと、喜ばれる差し入れっ!」
「……えーっと、エイセス様ならこの時間、公園の西の広場で筋トレ……かな。甘いものは好まれないから、黒胡椒たっぷりのハンバーガーなんていいんじゃない?」
「ありがとっ! さっすが事情通!」
踵を返してパン屋へと駆けていくクラスメート。
彼女のゲーム中のグラフィックは三つ編みだったけれど、いまは解いてウェービーヘアー。
わたしが知らない、彼女の姿。
「ふーっ……やれやれ。いつまで事情通でいられることやら。アハハハッ♪」
──── 完 ────