おいしい
いい匂い。
それは鉄と油、薬品の匂いの中で産まれ、無機質な檻を喰い破り、悪臭漂う暗い街に逃げ、人を喰らい……そうして生きてきた"それ"が初めて覚えたものであった。
慣れない人の身体をおぼつかない様子で動かし、匂いのする方へと向かう。
「!」
薄い木の扉の開け方など知らず、顔を斜めに裂くように開けた口で喰らいつくと、隣の部屋の少女らが驚いたような目を向けた。
とはいえ、三人の内の一人は気に留めず優雅に食事を続けているが。
"それ"は、その少女が口に運んでいるものに釘付けになった。
今まで口にしたどれよりも眩く映り、誰よりも腹が空く。
"それ"は本能のまま、惹かれるようにテーブルへと足を動かし、皿の上のものに向かって手を伸ばした。
小さな手が料理に触れようかというところで、
「待ちなさい」
ツルギはナイフをテーブルに突き刺して手を止めさせた。
「お腹がすいているならまずは座りなさい」
"それ"はツルギの静かな威圧に、初めて自らの空腹に抗いを覚えた。
席を立ったツルギが着席を促すと、無言で言われたとおりにする。
「言葉はわかるようですね。銀食器の使い方はわかりますか?」
コクン、一度頷く。
「食事への感謝を」
「…………」
勧めは半ば脅迫じみてはいたが、"それ"は産まれて初めて、腹の音と遠吠え以外の音を発した。
「いた……だ、き、ま……す」
とても洗練されたとは言い難い不慣れな手付きながらフォークでスクランブルエッグを掬う。
大きな口を開けて閉じ、飛び込んできた未知に"それ"は驚愕した。
熱い……冷たくも生ぬるくもない。
柔らかい……硬くない。
甘い……苦くなく、酸っぱくなく。
初めて幼女の姿をした何かは、
「おいしいですか?」
「お、い、しい……? おい、し……おいしい……おいしい!」
行儀も何も無く乱暴なくらい夢中に。
おいしいを知り、満たされる空腹を知った。
「斬るのかと思った」
「食事は主より賜りし糧。万人の権利です。それを侵害することはあってはなりません」
「妙なところで信仰心を出す奴だ」
「心配しなくてもいずれは斬りますよ」
と、ツルギは皿の上を平らげた"それ"の頭に手を置いた。
「おいしかったですか?」
また頷く。
「食べたらごちそうさま、です」
「ごち、そう、さま」
「いい子ですね」
ツルギの考えが読めず、ノクトは一旦成り行きを見守ることにした。
食後の一服。
エリザベートが淹れたホットチョコレートを飲みながら。
「どうするつもりだ」
「どうしたものでしょうね」
ツルギの横に並んで座る"それ"は、ホットチョコレートのあまりのうまさに背すじをピンと正し、頭と腰から狼の耳と尻尾を飛び出させた。
「これ、おいしい!」
「お口に合ったようで何よりです」
「さて、名前は言えますか?」
「名前……?」
容姿は年端もいかないくらい。
魔導帝国人というより異国人のニュアンスが見て取れる。
地に宿った魔術ならば、その血の持ち主が必ず存在する。
であるなら、血に刻まれた記憶が存在するのではないかとツルギらは予想した。
しかし、"それ"の口から出たのは自らの名前ではなく。
「ベル……堕天使の月……」
魔術の字であった。
「堕天使の月……やはり堕天使系か。自分の名前はわからずとも魔術の名前はわかると」
「魔術が意思を持つという論が確証を得たということなのかもしれませんね。全くもって興味はありませんけど。さて、不便ですし名前が無いなら勝手に付けてしまいましょう。堕天使の月……蠅の王ですね。では蝿と月を合わせて……フラン。うん、我ながらいいセンスです」
「フラン?」
「ええ。あなたは今日からフランと名乗りなさい」
「フラン……フラン!」
当人は名前で呼ばれ、食事以上に顔を綻ばせたが、傍で見ていたノクトはその微笑ましい光景に違和感を拭えなかった。
怪訝な視線に気付いたツルギは、フッと笑うとエリザベートに向かって命令を下した。
「リゼさん」
「はい」
「フランをお風呂に。身ぎれいにしてあげてください」
「かしこまりました。こちらへどうぞフランさん」
二人が退室したのを見て、ノクトは窓辺に立ったまま視線だけをドアの方に向けた。
「私たちの声が漏れないようにしろ。出来るだろう」
ツルギはゆっくりと剣を鞘から抜き空をなぞった。
部屋の中の音が斬れる。
会話は二人だけのものとなった。
「斬ろうとしていた相手に名付けか」
「していたのではなく、している、です。予定に変更はありません。ですが、少し興味が出たのは事実でして」
「興味?」
剣を収めて話を続ける。
「動物くらいなら斬ったことがあります。私の魔術の性質上、魔術を斬ったことももちろん。ですが、魔術を取り込める化け物はまだ斬ったことがありません。もしも際限無く魔術を取り込み自分のものに出来るとしたら、彼女の強さには上限が無いことになります。そんなの……斬ったら絶対愉しいじゃないですか」
片膝を立てて剣を抱く。
ツルギはうっとりと鞘に頬ずりをした。
「情でも湧いたかと思った私が馬鹿だった」
「クスクス、まさか。化け物に絆されろだなんて無理な話です。忘れてはいけません。人の形をしているだけで、あれはただの魔術なんですから」
「もしも貴様の予想が外れ、強さに上限があるとわかったとき……貴様はあれを……フランを斬るのか」
「そうですね」
「たとえ幼い子どもの姿をしていても斬れるのか」
「斬れない道理がありません」
ノクトは問わずにはいられなかった。
たとえ倫理も道徳も斬り伏せられてしまうとわかっていても。
「つくづく貴様は化け物だな」
「心がある魔術と、心が欠落した私……どちらの方が人間らしいのでしょうね。フフッ、まあ何だっていいんです私は。斬るために剣を振れるなら、私は道端の名前の無い誰かで構いません。それが私の生き方で、主が示した運命なのですから」
「……受けた命令は始末しろとのことだったはずだが。それはどうするつもりだ」
「いつ、どうやって、という指示はされていません。つまり現場の判断次第ということです。担当である私が、今は生かし保護すると決めました。グレーテルさんとおじ様にはそう報告します」
何でもありだな、とノクトは肩を落とした。
「保護となると、ヴォルフラム中将の庇護下に置かれることになるな。皇女殿下のときのように遠縁にでもするつもりか?」
「リゼさんと同じシュヴェールト姓も悪くはありませんが、どうせなら私と同じにしてもらおうと考えています。フラン=ヴォルフラム……フフ、じつはちょっと憧れていたんです。妹って」
だって斬ったことが無いんですから。
ノクトは最後までツルギの言うことが理解出来ず、疲れた風にため息を漏らした。
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