7.アリシア
「『セレスティナお嬢様』。たしかに、そう言ったのだな?」
「はい。一回だけですけれど」
ソル大神殿長の問いに私は断言する。
旧神殿で、どこぞの侍従らしき若者に炎の蛇と短剣で襲われたあと。私は大神殿に戻り、すぐにソル大神殿長の執務室に赴いて、昼間の出来事を報告していた。
中庭を荒らした疑いはあっさり晴れた。そもそも花壇の花は高温で燃えたのが明らかで、あれだけの範囲を短時間で燃やすなら、とんでもない量の薪か油が必要になる。
私がそんなものを持ち込んでいないのは明白だし、旧神殿の倉庫の油も減った形跡はない。だいいち平均的な体格の私がそんな量の油を一人で持ち運ぶなんて、不可能だ。
「炎の大蛇を使役する魔術か。魔術師の類は、しばらく報告がなかったのだが…………」
ソル大神殿長様は渋い表情になった。
この世界では、魔族と契約して行使する魔術は禁忌とされる。
まして、それが名門公爵家の使用人らしい、となれば。
「他に目撃者はいなかったのだな? 神官も、見習いや下男の類も」
「はい、全然。誰もあの人を見ていません。いたこと自体、気づかれなかったみたいで」
この問答は三回目だった。
私はあえて『魔王』を名乗った白い髪の青年については黙秘する。
理由はよくわからない。でも、言ったら駄目な気がするのだ。
(まあ『本当に魔王か?』と訊かれたら、よくわからないけど。蛇と違って、見た目はまるきり人間だったし、人間の魔術師が『魔王』の異名を名乗ることもあると聞くし…………)
「…………審査会に出席したデラクルス公爵と令嬢の供に、そなたの言う特徴に当てはまる者が一人いた。『アベル』という名の黒髪黒眼の青年で、令嬢専属の侍従だそうだ。だが、その侍従が長時間、大神殿を出た形跡はない。令嬢本人はむろん、公爵やその供も全員見張りをつけていたが、みな席を外したのは短時間だ。旧神殿まで往復する時間的余裕はない」
「魔術で空を飛ぶとか、一瞬であっちからこっちに移動してしまうとか、そういう魔術はありませんか?」
実際、あの侍従が魔王の青年に頼んだのは、そういう術だったと思う。
ソル大神殿長様も私の問いを否定はしなかった。
「ないわけではない。それに侍従にはそなたを狙う理由がある。基本的に『アンブロシア』と呼ばれる聖女は、その時代に一人きりとされる。公爵家から聖女を輩出したいであろうデラクルス公爵にしてみれば、そなたは目の上のこぶだ。とはいえ…………」
ソル大神殿長はしばし黙考した。顔をあげる。
「よし。今日のことは忘れよ。夢を見たと思うがいい。夢なので、絶対に口外しないように」
晴れ晴れとした口調と表情。対照的な強いまなざしで、重々しく私を見つめてくる。
「騒ぎ立てたところで、デラクルス公爵は全力で反論するだけだ。確実かつ強力な証拠が出るまで、この件は黙秘だ。よいな?」
「はい。証拠が私の証言しかない以上、公爵は私を嘘つき呼ばわりするに違いない。そういうことですね?」
「そうだ。そうして、そなたを『聖女にふさわしくない』と主張してくるだろう。相手は大貴族、それと未来の大公妃殿下だ。グラシアン枢機卿も、息子が公太子の側近で、公爵令嬢とも懇意と聞く。確実な証拠が出ぬ限り、この件は他言無用だ」
ソル大神殿長様は、大神殿の最高責任者であり、公都内の神殿すべての責任者でもあるが、枢機卿は大神殿を含むノベーラ大公国内すべての神殿の最高責任者だ。つまり、あちらが上。
(まあ、しようがないか)
「わかりました」
私も納得した。
腹は立つが、今回は相手のうしろにいる存在が大きすぎる。
今日のところは、庭荒らしの疑いが晴れただけで良しとしよう。
私は大神殿長室を出て、自室に戻った。
大神殿といえども見習いは大部屋だが、聖神官の見習いは個室が与えられる。ベッドと小さな書き物机を入れればいっぱいの小部屋だが、個室には違いない。
私は机に向かい、ひとまず日記帳を開いて羽ペンを手にとった。
『▽月□日 晴れ
大神殿でデラクルス公爵令嬢の審査会が開かれる。今日の癒しは中止。ソル大神殿長様のお使いで旧神殿へ。聖女の石像がある中庭で、黒髪黒眼の侍従らしき風体の若者が、腕から炎の大蛇を出現させて私を殺そうとする。おそらく魔術。聖魔力で浄化、っぽい。若者は「セレスティナお嬢様」と漏らして退散。
白い髪に黒い瞳、黒い服の『魔王』と名乗る青年も』
私は途中で手をとめ、額を押さえた。
どう読んでも頭のおかしい文章だ。
でも。
白い髪、青白い肌、裾の長い黒い服。漆黒の瞳と、つまらなさそうな表情と口調。
(なんだか、覚えがある気がする。どこか、ずっと遠い以前に会っていたような…………)
私は羽ペンを置いた。記憶に意識を集中する。
『魔王』を名乗るだけあって、見た目は人間でもなにかが決定的に違う。まとう気配、声の響き、仕草もまなざし一つとっても、どこがどうとは説明できないが、なにかが異質だった。
あの異質感を、以前にも味わった経験がある。
生まれて初めて感じる唯一無二の異質感だったからこそ、深く記憶に刻まれた。
「いつ、どこでだっけ…………?」
基本的に、私の交友関係は神殿関係者に限られる。が。
(仮にも『魔王』が神殿に来る? いや、今日は旧神殿に来ていたし…………)
うんうん唸っていた私は、思いつきで日記を読み返してみることにした。
(なにか手がかりはないかな)
表紙をめくる。ふと表紙の裏、本来は文章を書く場所ではない、そこに記されたいくつかの字に目がとまる。
『父パストル
母アマリア
長男・弟トマス 5歳
次女・妹アルセリア 1歳』
家族の名だ。
ずっとこの日記帳のこの場所にあって、幼い頃はよくこの文字をなでていた。
流れるように美しい筆跡は私のものではない。
『時間がたっても忘れないように』
そう、誰かが書いてくれたのだ。
――――誰が?
「…………っ」
額を押さえる。
とてもきれいな、優しげですらある文字。人間離れした、完璧なまでに整った形。
青白い肌の長い指が、すらすら、これを書いてくれた。
幼い私はじっと見ていた。次々生まれる文字の連なりが、まるで魔法のように神秘的で。
――――ほら、ここに書いておくよ。君がいずれ忘れないように。
つまらなさそうな興味なさそうな声。
まさに今日の昼、聞いたような。
「そうだ…………この字…………」
これは、あの青年が書いたもの。私のために書いてくれたもの。
「そうだ。あの時、これを書いてくれて…………あの時…………なんて言ったっけ? 名前は…………白い髪の…………お兄ちゃん、じゃない。ええと…………」
文字に触れる。幼い頃は何度もこの文字に触れていた。忘れないように。
父の名を忘れないように。母の名を忘れないように。弟と妹の名を忘れないように。
それから、あの人のことを忘れたくなくて――――
(魔王、って言っていた。『図書館の魔王』って――――)
「あ」
ひょこん、と脳裏に飛び出す。
「ビブロス。図書館の魔王ビブロス、だ――――」
「呼んだかい?」
「思い出した」と喜ぶ間もなく。
独り言に返事がかえってきた。
机にむかっていた私は、はじかれたように立ちあがってふりかえる。木製の腰かけが倒れて石の床に転がる。
「久しぶりだ、アリシア。今はアリシア・ソルか。それなりに有名になってくれて嬉しいよ」
まるで嬉しさも興味も感じさせない口調で淡々と、白い髪に漆黒の瞳の青年は言う。
図書館の魔王ビブロスが私の部屋にいた。