6.アリシア
裾の長い黒い服に、対照的な白い長い髪と青白い肌。瞳はなんの感情も映さぬ、漆黒。
一瞬、寒気を覚えるほど冷ややかに整った、端正な容姿の青年だった。
どんな激しい炎の中にあっても、そこだけ雪の夜に塗り替えてしまいそうな雰囲気の。
「――――誰?」
「君が役目を果たさないから」
青年は答えず、すべるように回廊から庭に出て、私の前にやってくる。
「おかげで、僕まで引っ張り出されることになった。今は『図書館の魔王』を名乗る僕まで」
「魔王――――?」
青年の不機嫌そうな口調に、私は思わず一歩下がる。が、背後は聖女像だ。
青年がすい、と腕をあげ、長い指をこちらへ伸ばしてきた。
その指が私の髪に触れるか否か、という時。
「待て!!」
と、鋭い声が飛んできた。
「手を出すな! お前は移動を手伝うだけでいい、下がれ!!」
大股で中庭に踏み込んできたのも、若い男。
黒い髪に黒い瞳。魔王を名乗る青年ほどではないが、それなりに整った顔立ちで、格好から判断するにどこかの名家の侍従だろう。
魔王を名乗る青年がより不機嫌そうに、侍従の若者をふりかえる。
「『下がれ』とは依頼? それとも命令かな?」
青年の冷えた声音に、若者は我に返ったようにやや怯む。
「命令ではありません。『お願い』です。『この神殿まで移動させてほしい』という依頼は完了しました。この先は私一人で充分です」
「彼女と戦う気かな。力では圧倒的に彼女が上だよ、潜在的な素質を含めれば、だけれど」
「眠っている分を含めれば、でしょう。起きている分だけなら、私にも勝機はある」
言うと侍従の若者は私に向き直り、魔王の青年は少し下がる。
「え、あの」
今『戦う』という単語が聞こえた気がする。が、私は戦闘にはまったく不向きだし、この世界もそういうジャンルではなかったと思うが。
「えっと、どなたですか?」
一応、訊いてみた。
「存在そのものが、私の主を脅かす敵。今日こそ、消えてもらいましょう」
一秒でも惜しいと言わんばかりに、若者は仕立てのいいお仕着せの左袖を右手でまくった。
私はちょっと驚いた。
きちんと筋肉のついた腕には、赤黒い蛇が巻きついている。
正確には、蛇が巻きついたような形の刺青だ。それが腕いっぱいをおおっている。
若者が口の中で何事か呟くと、赤黒い刺青は脈動した。
次の瞬間、刺青は本物の蛇のように動き出して、ぐるりと若者の腕を回ったかと思うと、腕から飛び出す。私にむかって。
「えっ…………」
蛇が私の脇をすり抜けた。ぶわり、と熱風が吹きつけ、髪や長衣の裾をあおる。
蛇は炎をまとった大蛇へと変化し、小ぢんまりした中庭をぐるりと回って、黒々と燃える炎が私と石像をとり巻いた。幻でない証拠に、髪も頬も熱風にあおられ、草が焦げる匂いがただよって、黒煙につんと鼻の奥を刺激される。
(火…………っ)
認知した瞬間、私の膝がふるえだす。
幼い頃に火事で家族を失って以来、私にとって炎は恐怖の対象だった。体が動かない。
「さあ行け、煉獄の蛇よ。その娘を、魂もろとも焼き尽くせ――――!!」
炎の蛇が首をもたげ、真っ向から私に襲いかかってくる。
(ああ、この炎は覚えがある――――)
この熱、この炙られる皮膚の感触、この口内から喉の奥まで熱風が詰まった感触に、鼻をつんと刺激するきつい匂い。この黒々と燃える禍々しい炎――――
(あの夜、みんなを呑み込んだ――――)
私は悲鳴をあげて身を縮めていた。
自分の奥から熱い、それでいて清浄に冷えた感触が放出される。
周囲の熱がまたたく間に霧散した。
「そんな…………私の手持ちの中で、二番目に強い魔物だぞ!?」
若者の声が聞こえる。私はそっと目を開けた。
空気が涼しい。青い空が清々しい。
四方を包む壁のように燃え盛っていた炎が、きれいさっぱり消えていた。
「くっ!」
若者が今度は右の袖をまくりあげる。
右腕にも、やはり赤黒い蛇。先ほどより太く大きい。
「来い!」
若者の腕から蛇が飛び出し、一瞬で巨大化する。
「殺せ!!」
若者は明確に『殺せ』と言った。私を指さして。
蛇は巨大な口を上下に開け、落下するように頭から私を呑み込もうとする。
「――――っ!!」
私は反射的に、さっきと同じ清浄な感触を放っていた。
要は聖魔力、手加減なしの全力放出だ。
私の青白い光が相手の赤黒い炎とぶつかり、空間全体がたわむような衝撃が生じる。
炎の蛇はぼろぼろと崩れだし、五秒と経たずに霧散してしまった。
(勝った…………の?)
そう言えば、先ほど『魔王』を名乗る青年が、私のほうが「力は圧倒的に上」と言っていたような。
私はちらりと、黒服に白い髪の青年を見やる。
青年は相変わらず静かにたたずんで、目の前の騒ぎにさえ気づいていないかのようだ。
「くそ、これほどとは…………!」
舌打ちの音が聞こえた。
「変死に見せかけたかったが、いたしかたない」
侍従姿の若者はほんの二、三秒で私のすぐ目の前まで移動し、私が驚く前に私の口を左手でふさいでいた。あまりに素早くなめらかな、熟練を感じさせる動き。
右手に小ぶりの短剣をかまえる。小ぶりすぎて、どこにでも隠せそうな刃を。
「――――っ!!」
(殺される!)と察した瞬間、私は聖魔力を放っていた。
とはいえ、聖魔力は人間相手には癒しとしてしか作用しない。
はずだったが。
「ぐわああぁぁっっ!!」
若者は苦痛の声をあげた。
突き飛ばすように私を離して、転がるように距離をあける。
「この…………小娘が!!」
若者が汗まみれで私を見つめる。憎しみ、そしてとてつもない恐怖と焦りの形相だ。
(どういうこと?)
私は戸惑わざるをえなかった。
私に限らず、聖神官や聖女の聖魔力は人間を傷つける力ではない。
なのに何故、この若者はここまで苦しそうな反応を見せるのか。
「くす」と、かすかな失笑が聞こえた。
「そんなに魔物を体内に飼っているからだ。今ので、残っていたやつも何匹か浄化されたんだろ? それでなくとも君自身が魔術に染まりすぎているうえ、魔術の薬まで服用している。聖魔力なんて、受けつけるはずがない」
魔王を名乗る青年だった。
「魔術――――」
私は合点がいった。
魔王や魔物といった魔族と契約して行使する魔術は、聖魔力の対極。
体の中に魔物がいるなら、それは聖魔力が毒となるはずだ。
魔王は提案する。
「手伝おうか? ただし、相手は覚醒前とはいえ聖女の素質を持つ人間。難易度は上の上、最低でも稀覯本三冊はもらう」
「え…………」
「うるさい、黙ってろ!! たかが小娘、私一人で…………!!」
近づくのは危険と判断したか、魔物を操る若者は体勢を整え、持っていた短剣を投げつけようとする。が。
「お嬢様…………!?」
侍従は片耳に手をあてた。黒髪に隠れてわかりづらいが、黒瑪瑙か黒玉のような黒い石のピアスをつけている。
「セレスティナお嬢様…………!」
侍従は私をにらんで、どちらを選ぶべきか苦悩する表情をのぞかせたが、すぐに魔王に指示した。
「移動する! 目撃されないように、私をお嬢様のもとへ運べ!!」
「ここからなら、距離の近さを考慮して下の中にしておくよ」
「くそっ」と若者は上着の中から一冊の本をとり出し、魔王に投げる。たぶん、ベルトにはさんでいたのだろう。
「本を投げるな」
わずかに、演技ではない本物の感情を露わにして、魔王は本を受けとった。投げられた本が空中でぴたり、と停止して、ふわ、と魔王が掲げた手の中に収まる。
「たしかに。それじゃ」
魔王が空いたほうの手で指を鳴らす。
すうっ、と侍従の若者の姿が消えた。
魔王自身も、すう、と姿が薄れる。
消える寸前、漆黒の瞳がこちらを見た気がするが、確信はない。
気づけば中庭にはふたたび静寂が戻っていた。
「はあ…………」
私は全身から力が抜け、その場にへたり込む。
「いったい、なんだったの…………?」
怒涛の展開だった。情報の処理が追いつかない。
(魔王とか魔術とか魔物とか…………)
「神殿で習ってはいたけど…………この世界では実在するんだ…………」
そんなのに命を狙われて、よく助かったものだ。今さらながらに指先がふるえてくる。
「誰だったんだろう…………」
黒い服に白い髪の魔王。それから侍従らしき若者。
お仕着せでも、かなり上等の服を着ていた。相当、富裕な家の使用人に違いない。そもそも。
(一回だけ『セレスティナお嬢様』って言っていた…………デラクルス嬢のことよね?)
貴族の中でも特に名門のデラクルス公爵家の侍従なら、あの上等の身なりも合点がいく。
(でも、なんで私を? 私、公太子に手を出していないし、あの人の邪魔もしていないのに――――)
「何事だ!? なんの騒ぎだ!?」
回廊の奥から複数の足音が駆けてきて、私の思案を破る。
「なんだ、この惨状は!?」
副神殿長やその他の神官達が中庭を見て、目を丸くした。
私も周囲を見渡し、ようやく気づく。
あたりは散々だった。花壇の花は踏み荒らされ、葉も花びらも黒く焼け焦げている。
となると、やはりあの炎の蛇は夢幻ではなかったらしい。
副神殿長が聖女像の前に座り込んでいた私を発見して、片眉をつりあげた。
「ソル見習い? まさか、ソル見習いがここを荒らして…………?」
「ちがいます!!」
とんだ濡れ衣だった。
あの侍従、許すまじ。