66.アリシア
「えっ…………」
デラクルス嬢の白い両手が、腕が、肩が、緋と黒の炎に包まれる。
数秒置いて、けたたましい悲鳴が艶やかな唇から放たれた。
「いやぁぁぁぁあああぁっっ!! 熱、あつ、熱いぃぃっっ!!」
「ティナぁっ!!」
「セレスティナお嬢様っっ!! なにをする!? ブルガトリオ!!」
レオポルド殿下が駆け出し、アベルも即座に上着を脱いでお嬢様の腕の炎を叩くが、緋と黒の炎はまたたく間に腕から髪、髪から顔、胸へと焼け移って、デラクルス嬢は激しく地面をのたうち回る。
「いったいなにを…………!?」
「あ…………!!」
私も叫び、教皇猊下が絶望の声をあげる。
「封印が…………!!」
「え?」
炎に襲われたデラクルス嬢の手から落ちた、五つの《聖印》。
それがすべて砕けて、地面に散っていた。原型をとどめている物は一つもない。
「その反応から察するに、どうやらすべて破壊できたようだな」
緋髪の男は教皇猊下の反応を見て、面白そうに笑う。
「ど、どういうことですか!?」
私の問いに、教皇猊下の顔が苦悩に陰る。
「…………《聖印》は、聖女の証ではないのです」
「え?」
「《聖印》と呼ばれてはいますが。実際は、セリャド火山を中心に四方に設置された封印です。セリャド火山の地下に眠る、強大な邪竜。それを起こさぬために神々が術を施し、定期的に星銀の聖魔力を補充する道具。それが《聖印》の正体です。『アンブロシアの証』とされるのは、あの封印に星銀の聖魔力を補充できるのが、アンブロシアだけだからです」
「えっ…………」
「すでに封印は不完全な状態にありました。百五十年前、セリャド火山の噴火によって火山の麓の神殿が溶岩に埋もれた際、封印は本来の設置場所からずれて、力を失ったのです。ソル聖神官が発見した時に濁っていたのは、そのためです。教皇庁の書庫に保管されている記録によれば、古の時代、神々が邪竜を山の底に沈めて、山とその四方、合わせて五ヶ所に封印を施すと、人間が聖女アイシーリアの像を彫ってその中に封印を隠し、さらにそれぞれの聖女像を守るため、神殿を建てた…………とあります。そして五つの神殿は、イストリア大皇国が分裂してノベーラ大公国やクエント侯国に分かれたあとも、そのままその地に残ったのです」
「ええ!?」
「数ケ月前、ノベーラの公都の旧神殿の聖女像から封印が盗み出されたことは、旧神殿長から秘密裏に報告が届いていました。もっとも疑わしい人物がその直後、白銀色の聖魔力を発現させたことも。ノベーラの大神殿はその人物に審査をうけさせ、白銀色の聖魔力の発現を確認しました。けれどソル大神殿長はじめ大神殿の高位神官達は、日常的に聖神官や、潤沢な聖魔力に恵まれたアリシア・ソル聖神官見習いの癒しを目にしていました。そのため、その人物の聖魔力には違和感や不自然さを覚えていたそうです。ただ、相手がノベーラ屈指の名家の令嬢で、将来の公太子妃であったため、確実な証拠なしに尋問することはできませんでした」
「旧神殿長…………あ」
私はひらめくものがあった。
そういえば、いつぞや旧神殿にソル大神殿長様のお使いで行った時。旧神殿長様はえらく顔色が悪かった。ひょっとしてあれは、大事な品の行方がわからなくなり、保管責任を問われていた心労によるものだったのだろうか。
「じゃあ本当に、狩猟大会とか公開癒しで、デラクルス嬢が白銀色の聖魔力を発現させていたのは、本人の力でなくて、あの《聖印》の――――」
「そんなことはどうでもいい! セレスティナお嬢様を助けろ、アリシア・ソル!!」
怒声が飛んできた。
アベル・マルケスだ。跪いた地面には黒っぽい塊が横たわってひくひくと痙攣し、焦げた布の破片がまつわりついている。そよ風に、焼けた肉と生々しい血の匂いが運ばれてきた。
ほんの数十秒、目を離して教皇猊下の話を聞いていた間に、デラクルス嬢は壮絶な変化を遂げていた。
火は消えたものの、あれほど美しい、洗練された芸術品のようだった白磁の腕はむろん、肩も胸も、顔すら火傷におおわれて見る影もなく、銀の髪も燃え尽きて黒焦げの頭皮が丸見えになっている。
なにより彼女はこの数十秒間で体力のほとんどを失い、放置すれば一時間ともたずに息絶えるのは明らかだった。
何百人、何千人と癒してきたが、これほどの惨状に遭遇したのは初めてだ。
私が思わず嘔吐感に襲われて顔をそむけると、どう解釈したのか、アベル・マルケスは私のもとにやってきて乱暴に腕をつかみ、有無をいわさずデラクルス嬢のそばまで引きずった。
「ソル聖神官!」
「アリシア様!!」
エルネスト侯子が叫び、ルイス卿が短剣をかまえる。
「アリシア様から離れなさい、暗殺者! それ以上は――――!!」
「ティナを癒してくれ、ソル聖神官!!」
私を守ろうとしたルイス卿は、懇願してきた声の主に怯む。
「頼む!! このままではティナが死んでしまう!! ティナを助けてくれ、ソル聖神官!!」
レオポルド殿下だった。職務に忠実なルイス卿も、自国の公太子殿下には逆らえない。
「遺恨があるのはわかっている、だが私にとっては、失えないただ一人の女性だ! ティナを助けてくれれば、金貨でも宝石でも、好きなだけ褒美をとらせる! だから頼む!! どうかティナを…………っ!」
凛々しい美貌を苦悩に歪ませ、デラクルス嬢のかたわらに膝をついたレオポルド殿下が私を見上げてくる。
私も患者を目の前にした職業病とでもいうか、デラクルス嬢のそばにかがもうとして、待ったをかけられる。
「セレスティナ・デラクルスには《聖印》を盗んだ容疑がかかっています」
教皇猊下だった。
瀕死のデラクルス嬢と必死なレオポルド殿下を見比べるまなざしには、十代の少女とは思えぬ威厳と厳しさがのぞいている。
「デラクルス嬢は、ノベーラの旧神殿とイストリアの二つの神殿から《聖印》を盗んだことが確認されました。ソル聖神官の癒しはデラクルス嬢を全快させるでしょう。けれど、そのあとは教皇庁の聴取と裁きを受けてもらわねばなりません。それを承知の上での依頼ですか?」
あれほど自尊心の高いデラクルス嬢にとって、それはとてつもなく屈辱的な未来に違いない。
「仮にノベーラ大公国がデラクルス嬢を庇っても、我々はデラクルス嬢を追います。ソル聖神官の癒しをうけて全快したあと、ノベーラ公太子に守られて裁きをうけない、償いもしないのであれば、責められるのはデラクルス嬢だけではありません。公太子殿下も、場合によっては癒したソル聖神官までもが、世間から非難されるのです。それをわかっておいでですか?」
「わかっている!!」
レオポルド殿下は即答した。
「宣誓書の件といい…………ティナは、たしかに罪を犯したのだろう。だが、それもこれも、すべては私が至らなかったため。ティナの孤独や苦悩に気づかなかった、私の未熟さ故だ。ティナの罪は、私も背負う。ティナが裁きを受けるなら、私も受けよう。必要ならノベーラ公太子の地位を捨ててもいい。ティナの罪は、私が責任持って二人で償う。だからティナを助けてくれ、ソル聖神官!!」
デラクルス嬢の、髪がほとんどなくなった頭皮に触れるか否かの強さで手を添え、レオポルド殿下は言葉を重ねる。
「ティナは本来、優しく気高い心の主だ。私はよく知っている。こうなってしまったのも、私が彼女の悩みや苦しみに気づかなかったせいだ、そこをヒルベルト皇子につけ込まれて…………私は今度こそティナの心を救い、ティナをもとの優しく気高いティナに戻してみせる。だから――――っ」
「お言葉ですが、公太子殿下のその態度では、デラクルス嬢を救うことは難しいと存じます」
教皇猊下の返答は明確だった。
「公太子殿下が、デラクルス嬢の元通りの回復を心から望んでおられること、わたくしにも伝わります。けれどデラクルス嬢が望むのは、もっと高い地位。デラクルス嬢は、望んでヒルベルト皇子やブルガトリオ殿と結ばれたのです。怪我が回復したデラクルス嬢を公太子殿下がどれほど誠心誠意支えても、デラクルス嬢がもとに戻る可能性はありません。デラクルス嬢にとって、以前の自分は不満や不足がある『望まぬ自分』なのですから」
「そんなことは…………!」
「デラクルス嬢はノベーラ大公妃の自分より、イストリア皇后や聖竜妃の自分のほうがお好きなのです。デラクルス嬢自身が、もとに戻ることを望んでいないのです。そこを認めなければ、なにをどれほど尽くしても、徒労に終わるでしょう。その覚悟がおありですか? レオポルド公太子殿下」
「それは…………っ」
レオポルド殿下は教皇猊下に反論しようとして勢いを失う。
愛する婚約者を信じたい、けれど先ほどまでの言動を思い返して自信がなくなったのだろう。
私も困惑していた。
癒しを使命とする聖神官として、目の前の怪我人はさっさと癒したい。
けれど癒した結果、逃げられたり、聖竜を操って私達に反撃してきたり、では困る。
(そもそも、あれは本当に聖竜なの――――?)
ちらりと緋髪の男を盗み見た私を、アベル・マルケスがせかしてくる。
「早く! お嬢様が苦しまれている、セレスティナお嬢様を癒せ、アリシア・ソル!!」
ぐい、と神官服の襟をつかまれ、怒鳴られた。
「やめろ、アベル!! ソル聖神官しか癒せないのに、無礼を働いてどうする!!」
レオポルド殿下が侍従を叱る。
私はいったん息を大きく吐き出し、結論を下した。
「とにかく、いったん癒します」
「ソル聖神官!」
「ですが、アリシア様」
「よいのですか? ソル聖神官」
レオポルド殿下がすがるような声をあげ、ルイス卿は戸惑い、教皇猊下が私に確認してくる。
私は己の内の複雑な気持ちをいったん押し殺し、努めて優等生的な無表情をたもった。
「思うところは多々ありますが、重症の怪我人には違いないです。癒しを求めるなら、みな、聖神官たる私の患者です。この仕事に就く時、そう誓いを立てました。私は、私の誓いと使命に従って回復させます。そのあとのことは、教皇猊下にお任せします」
「ソル聖神官…………感謝する!!」
「殿下に任せる」と言ったわけではないのだが、レオポルド殿下は語尾をふるわせて頭を下げ、アベル・マルケスもほっとしたように表情がゆるむ、その時。
「いいのか?」
低い美声が割り込んできた。
「貴様が幼い頃、親と弟妹を失ったという火事。それは、そこの男の仕業だぞ?」
「え」
「ブルガトリオ様!?」
アベル・マルケスが声をあげ、緋髪の男が口の端をあげる。




