60.アリシア
やっとアリシアパート。
この先はずっとアリシアのターンです。
「あそこが国境です」
栗色の髪を長い三つ編みにした、菫色の瞳の女騎士が指さす。
以前、訪れた時にはなにもなかった原っぱに、石の塚が点々と伸びていた。
神殿の地下から発見された記録を参考に復活した、ノベーラ大公国とクエント侯国間の国境線だ。
「あの向こうはクエント侯国に入ります。戦は終わりましたが、ノベーラに反感を持つクエント人は多いので、お気をつけください、アリシア様」
ルイス卿の言葉に、私もうなずいた。
ノベーラ大公から密命を受けた数日後。
私は公都を出発し、クエントとの国境まで来ていた。
表向きは「教皇庁から召喚をうけ、聖女審査を受けるため」。
私は前回のセルバ地方行き同様、ふたたびルイス卿に護衛され、一人用の小型馬車で田舎の道を進んでいる。馬車の窓には、人の目には見えない小さなトキが一羽。
前回と異なるのは、同行者の人数と内容。
「ここから先はノベーラ国内のように融通は利かぬ、ということだな。みな、あらためて重々気を引き締めるように」
ノベーラ大公代理――――大公陛下の密命をうけて、クエント侯国に同盟の申し込みに行く使者が背後をふりかえり、後続の兵士達に呼びかける。兵士からは「おう」と、掛け声が返ってきた。
「クエント侯国内でのノベーラ人の印象は悪いだろう。だが先の戦いでクエント兵や村人達を癒したことで、ソル聖神官の評判は良いと聞く。クエント侯国内では、交渉の一端を任せる場面もあるかもしれない。よろしく頼むぞ、ソル聖神官」
「――――力を尽くします」
窓の外からかけられた凛々しく気品高い声に、私は視線を伏せつつ応じた。
ノベーラ大公国レオポルド公太子殿下。
ノベーラ大公の代理であり、今回の同盟を申し込みに行く使者だった。
(頭とお腹が痛い…………)
比喩だが、私は本当に頭痛と腹痛を感じる気がした。
説明すれば単純で、国と国が同盟を結ぶのだから、それを提案しに行く使者は、相応の身分とか格式が求められる。
本来はこういうことは、入念な情報収集や根回しから慎重にはじめるものだが、今回は展開が急なため、準備に時間がかけられない。
そこで「ノベーラ大公の誠意や真心のあらわれ」として、次期ノベーラ大公であり、ノベーラ大公陛下自慢の一人息子、レオポルド公太子殿下が大公陛下の代理人として直々にクエント侯国に赴くことになった…………と聞いている。
本当はもっと色々複雑な事情があったと思うが、そこは私は教えられていないし、教えてももらえない部分であり、こちらからも踏み込もうとは思わない部分だ。人間、過剰な好奇心を持つと身を滅ぼしがちだし。
なので大公陛下からレオポルド殿下が同行する、と聞かされた時も、私自身は黙って粛々と受け容れることにした。
まあ、顔にはちょっとばかり出ていたかもしれないけど、大公陛下からは、
「これまで色々あったが、ここは一つ、大義のために目をつぶってほしい」
と暗に求められているし、ソル大神殿長様からも、
「役目に徹せよ。仕事だ。私的に親しくなる必要はない。使命を果たすのに必要な範囲で、礼節を持って接すればいいのだ」
と、何度も何度も何度も言い聞かされている。
それでも内心で(いやだああああああ)と絶望していた私だが、あにはからんや。
久々に顔を合わせたレオポルド殿下は意外なほど冷静で、私に対しても、おそらくはこれまでで一番穏当に接しており、私のほうが拍子抜けしてしまったほどだった。
おかげで、ここまでは表面的には穏やかに、目立った問題なく過ごせている。
意外だったが、どうやらレオポルド殿下は私に恩義のようなものを感じていたらしい。
「例の魔術の薬については、心から礼を言う。あのまま正気に戻れず、真相も明るみにならなければ、私は今もティナを拒絶して、誤った愚かな選択に身を任せ、父上や大臣達の信頼を失っていただろう。ティナもヒルベルト皇子の卑劣な罠に捕らわれたまま、助けに行くこともできなかったはずだ」
『誤った愚かな選択』とは「アリシア・ソルと結婚する」と言い出した件だろう。言い方は引っかかるが、事実ではある。偶然とはいえ、あそこで殿下の体内の薬を無効化できていなければ最悪、今頃は私と殿下の結婚式の準備が進んでいたかもしれないのだ。
馬車にゆれる私の背に、ぞっと悪寒が走る。
私は身をすくめ、窓から顔を出して、騎乗するレオポルド殿下に訊ねた。
「薬については、その後、調査はどうなっていますか? なにか進展はありましたか?」
「これといった新しい情報は特に。だが下手人が誰であれ、陰で糸を引いているのは十中八、九、イストリア皇国で間違いないだろう」
「イストリアが? 何故ですか?」
「ノベーラに対する牽制、示威、あるいは見せしめといったところだろう。次期公太子妃の名誉を汚し、貶めることで『お前達など、この程度だ』と嘲っている。あの皇子はそういう人間だ。大国の威信を鼻にかけ、我らノベーラ大公国を見下していた。ティナも、おそらくは力づくか脅迫的な手段で…………かわいそうに、ティナ。あれほど誇り高く気品にあふれた君が、イストリアの何も知らない連中の物笑いの種になっているとは…………っ!!」
後半、レオポルド殿下の声は涙をこらえるようだった。
彼の話が聞こえていた、公太子の前後左右を囲む近衛兵達も、半分は鼻をすすったり、逆に義憤に燃えている。残り半分は「まだ、そんなことを言っているのか」という感じだ。
私は車内に戻り、記憶をたぐった。
ヒルベルト皇子はたしかに傲慢な性格だったのだと思う。
一度会ったきりだが、彼からはたしかに、こちらを見下すような視線や言葉の裏を感じた。
大国の皇子で、宮廷中の女性の関心を集める文武両道の美男子なら、そうなるのも自然なのかもしれない。こちらは平民だし。
ただ、それでもヒルベルト皇子が一方的にデラクルス嬢を罠にかけた、というレオポルド殿下の主張に関しては、素直に賛同できないものがあった。しっくりこない。
有り体にいえば、前世のマンガの知識だ。
前世の記憶によれば『悪役令嬢もの』と呼ばれるマンガにおいて、婚約者の王子に婚約破棄された悪役令嬢が、隣国の皇子だの国王だのに求婚されて彼の国に行くのは、定番中の定番。…………だったと思う、たぶん。
私はてっきり、デラクルス嬢はレオポルド殿下を本気で愛しており、だからこそ漫画では殿下を奪う立場になる私を排除しようと、躍起になっていたのではないか、と考えていた。
けれど、もしデラクルス嬢が実はやはりヒルベルト皇子を、マンガ上のヒーローを愛していたなら。マンガどおりの展開を望んでいたのだとすれば。
レオポルド殿下がデラクルス嬢との婚約を破棄して、私と結婚しようとした。この展開の原因は――――すべてではないにせよ、何割かはデラクルス嬢にあるのではないか。
(そう考えると、色々つじつまが合うし…………)
小国とはいえ、公太子。口をつける物は入念に審査されているはず。レオポルド殿下自身、見ず知らずの他人からの食べ物飲み物など、口に入れたりはしないだろう。
だが、慣れ親しんだ相手なら?
デラクルス嬢から差し出された食べ物や飲み物なら。
あるいは「デラクルス嬢からです」と伝えられたものなら。
デラクルス嬢を信頼している、というだけではない。殿下の側仕えや毒見達も、幼い頃からの付き合いであるデラクルス嬢には警戒がゆるむだろうし、それを見越してデラクルス嬢や、あのアベル・マルケスが薬を盛れば――――成功する可能性は低くないと思う。
とはいえ、この程度の推測はすでに宮殿側も行っているはずだ。ただ、レオポルド殿下本人には告げていないだけで。
(セルバ地方に関する誓約書をヒルベルト皇子に渡した件が知れ渡って、公都でのデラクルス嬢の評判は地に落ちている。大公陛下も大臣達も、ヒルベルト皇子に心奪われたデラクルス嬢が、彼の気を引こうとして宣誓書を渡した、と解釈している人が大半。その中で、レオポルド殿下だけが相変わらずデラクルス嬢を信じていて…………それなのに、薬の件はデラクルス嬢が仕組んだものだとしたら…………)
他人事ながら、私は憐憫の情を禁じえなかった。
(どうか、もう穏便に片付いてほしい。クエント侯国の件も、聖女審査の件も、イストリアの件も、ついでにデラクルス嬢とレオポルド殿下の件も…………これ以上のごたごたとか刃傷沙汰は要らない!! ビブロスにも言ったけど、本当に、どうにかなって!!)
私は心から祈ったが、えてして天はこういう祈りほど聞き届けてはくださらないものなのだ。
聖女審査に向かう聖神官に加えて公太子がいることで、私達は前回のセルバ行きより、数も装備も多い兵士に囲まれている。
それでも国境を越えると、緊張が走った。
(生きて帰れるかな…………)
そんなありきたりで定番の、でも深刻で切実な疑問が胸にわく。
けれどその疑問は早々に軽くなった。
「お待ちしておりました、アリシア・ソル聖神官殿」
温かみのある金茶色の髪と瞳。春の日差しのように優しげで、親しみやすい印象を与える柔和な笑み。
ノベーラ公太子とはまた違った趣の『絵に描いたような王子様』、クエント侯国第四侯子ルイ・エルネスト殿下だった。
国境を越えてすぐにクエント軍が現れ、全ノベーラ兵に緊張が走るも、クエント軍の先頭に侯子が現れ、挨拶してきたのだ。
エルネスト侯子はふんわり笑う。
「ソル聖神官がクエント侯国を通過して神聖帝国に赴かれると知らせが届き、お迎えにあがりました。お元気そうでなによりです」
「え、あ、はい、お久しぶりです。あの、わざわざ私を、迎えに?」
「はい。クエント侯より、お迎えと案内を仰せつかりました」
「そ、それはわざわざ、ありがとうございます…………」
ルイス卿や他の兵達が目を丸くしているが、私だって驚いているし、事情がわからない。前回のセルバ行きで、クエント側の捕虜や村人を癒したことでエルネスト侯子に好印象を与えていたらしいことは聞いていたが、まさか自ら迎えに来てくださるほどだったのか。
「我々の行動を制限する意図もあると思われます」
ルイス卿にささやかれ、私も表情がひきしまる。
「それでは参りましょう。案内します」
侯子殿下の申し出に、私は自国の公太子殿下を見た。
この集団の表向きの目的は「神聖レイエンダ帝国へ聖女審査を受けに行くため」だが、最高責任者はレオポルド殿下だ。勝手に「お願いします」とは返事できない。
私はエルネスト殿下にレオポルド殿下を引き合わせた。
「ノベーラ大公国公太子レオポルドだ」
「お初にお目にかかります。クエント侯国第四侯子ルイ・エルネストです。お噂はかねがね」
私もルイス卿も、ノベーラ兵もクエント兵も、この場にいた全員に緊張が走る。
けれど元首の息子二人は、どちらも喧嘩をふっかけたり無礼を働いたりすることはなく、ひとまずレオポルド殿下は、すんなりエルネスト侯子の案内を受け容れた。
私達はエルネスト侯子の先導で最寄りの町に入り、さらにその次の町で宿をとる。クエント侯国も規模的にはノベーラと似たり寄ったりなので、反対側の海岸線に出るのに数日間で済むそうだ。
「明後日の午後には王都に入ります。そこからレイエンダへの船が出ています」
クエントの侯都は港町だそうで、この港町から出たり入ったりする人や物が、クエント侯国の重要な生命線となっている。
「私、海は初めてです。ルイス卿はどうですか?」
「実は、私も初めてで…………今から楽しみです」
前世では海に遊びに行ったこともあったが、それはそれ、これはこれだ。
町長の家に泊まって早めの夕食を終えると、客用の部屋で就寝となる。警備のため、今回もルイス卿と同室だ。
『長』と言っても町の長。家の規模は宮殿に比べるべくもなく、寝室も言わずもがなだ。
王子様二人は大丈夫だろうか、と他人事ながら心配になったが、どちらの王子様も特に不平文句を言うこともなく夜が明け、朝食を終えると早々に出発する。
ノベーラに比べると岩や砂場の多い土地を進み、二日目の昼をだいぶん過ぎてから、目的の都にたどり着いた。城門を抜けて侯都に入る。
「風の感じが違います。塩っぽいというか…………」
私が馬車の窓から身を乗り出して海風にあたっていると、騎乗したエルネスト侯子が寄って来て、海岸の一端を指さす。
崖にちかい岩場の上に、ぽつんと一軒の建物があった。
こぢんまりしているが、明らかに金持ちのものと知れる外装だ。
「あそこは侯家所有の館です。いったん、あの館で海を眺めながら、ご休憩ください。その間に陛下へ使いを送ります」
一国の元首に謁見するのに、なんの身支度もなし、というわけにはいかない。特にクエント側はレオポルド殿下が来ることは知らなかったわけで、準備だの報告だのが必要だろう。
そのへんの事情は私よりレオポルド殿下のほうが詳しいぶん、すんなり納得したようで、殿下はエルネスト侯子の申し出を素直に受け容れ、私達は海を臨む海岸の館へと案内された。
「ソル聖神官と、レオポルド殿下はこちらへ」
エルネスト侯子に案内されて玄関に入ると、別々の小部屋に案内され、召使いの女が外套を脱がせたり、潮風に乱れた髪を梳こうとしてくる(すべてルイス卿が止め、彼女が代わった)。身支度を整える部屋のようだ。
(まあ、平民が王族のお館に入るのに、汚い格好は許されないか)
そう、納得したのだが。
「こちらです」
エルネスト侯子に案内され、海の風と陽の光がたっぷり入ってくる、広い部屋に通される。応接間だろうか。壁紙が白いので、明るくさわやかな印象がより強まる。
その白い壁を背に、長い金髪と白い衣装の人物が座っていたが、私達が入室すると、飲んでいたティーカップを置いて立ち上がった。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりましたわ、アリシア・ソル聖神官」
春の薄緋色の花がぱあっ、と咲くような、明るく朗らかな笑み。
私よりやや年上と思しき少女が、どこかいたずらっ子めいた輝きを瞳に散らして、自己紹介してくる。
「初めまして。わたくしは、教皇オルティス三世エドガルド・オルティスですわ。ようこそ、次のアンブロシア」
教皇、ごめん。
 




