58.セレスティナ
《聖印》があると思われる神殿は、イストリア皇国に二ヶ所。
そのうち皇都にある神殿の分は手に入れたので、次は馬車で五日間ほど離れた都に建つ神殿へ。
けれど、それはすぐには叶いませんでした。
「だって君、対価が払えないだろう?」
植物園の外、人気のない通りで召喚した図書館の魔王の、それが言い分でした。
ノベーラを出る時、今後もビブロスの力を借りることを想定して、価値の高い本を持参してはいました。けれど荷物を持つのがアベル一人のため、運べる数には限りがあります。
先ほどの移動で持参した本がなくなってしまったため「これ以上の依頼はうけられない」と魔王に断られてしまったのです。
さっさと姿を消そうとする魔王に、わたくしは慌てて訴えます。
「対価はあるわ、ノベーラのデラクルス邸に。図書館の新設を口実に、あちこちから珍しい本を集めたの、知っているでしょう? 好きなだけ持って行っていいわ」
「それは、もう君の本じゃない」
「え?」
「君がイストリア皇子の愛人になったと、セルバ辺境伯からノベーラ大公その他に報告されたあと、大公は激怒してね。公太子との婚約を正式に破棄して、君の父親も君を勘当した。君は、もうデラクルス公爵家の人間ではないし、図書館新設も君の案件ではなくなった。なので、あの本を君からの対価として受けとることはできない。僕は、依頼者自身が所有する本と魔力しか受けとれない掟だからね」
「っ、そんな!」
「本はその後、散逸を恐れたニコラス・バルベルデの奔走により、大公家と大神殿及びアリシア・ソル聖神官の合同案件という形で、図書館新設の継続が決定した。つまり君が集めたあれらの本は現在、君の本ではなく大公と大神殿のもの、ということになる」
「な…………!」
「イストリアで新しく手に入れた本があるなら、それを対価として受けとることは可能だよ。ただし距離が距離だから、印刷本の教本数冊では見合わない」
「そんな…………わたくしが集めた本なのに…………っ」
「理解したなら、僕は行くよ。対価が用意できたら、また呼んでくれ」
今度は引き留める間もなく、ビブロスは姿を消しました。
「ああ、どうしたらいいの、アベル。わたくしの本まで、あの女に奪われて…………っ」
わたくしは顔をおおいました。あまりの驚きと情けなさに、次から次へと涙があふれます。
「大公陛下もあんまりだわ。昔からあんなにわたくしを可愛がってくださり、わたくしに命を救われまでした方が、たった一度の失態でそこまでするなんて。冷酷すぎるわ。わたくしはノベーラを裏切ったわけではないわ、神のさだめた運命に従っただけ。いえ、ヒルベルト様にだまされただけなのに…………っ!!」
「お嬢様」
「ビブロスもビブロスだわ。わたくしをひそかに愛しているキャラクターなら、こういう時こそ、黙って信条を曲げて協力するのが定番なのに…………っ」
「セレスティナお嬢様、ご案じなさいますな。神殿には必ずや、私がお嬢様をお連れしてみせます。今はとにかく、ここを離れましょう」
夕方です。わたくし達は大通りに向かい、貴族を相手にした宿で部屋をとりました。
ヒルベルト様の別荘には戻りません。あそこまで愚弄され、戻れるはずもありません。
もし、ヒルベルト様があとからわたくしの価値を思い知り、あの、公女とは名ばかりの平凡な女との婚約を後悔しても、わたくしの知るところではありません。好きに悔めばいいのです。
宿代はアベルが用意しました。
彼は、ビブロスの力で別荘から移動する際、万一の事態を想定して、わたくしがノベーラから持参したお気に入りの宝石と、ヒルベルト様から贈られた宝石を持ち出していたのです。
宝石は毎晩、係の女が数を確認しますが、逆に言えば、夜までは紛失に気づきませんし、気づいても朝まではヒルベルト様に知らせをやることもできません。そして朝には、わたくし達はこの都を出ています。
「殿下からいただいた宝石の一部を、使いやすい金貨と銀貨に換金して参りました。当面の旅費は充分です。私がおそばにある限り、セレスティナお嬢様に不自由はさせないと誓います」
「ありがとう、アベル。頼もしいわ」
わたくしはアベルに勧められて早めに休むと、翌朝早くに宿を出ました。
「馬で行くの?」
「いえ。セレスティナお嬢様は乗馬も巧みですが、旅行のような長距離の経験はございません。宝石と引き換えに小型の長距離用の馬車を調達して参りましたので、朝食を終えたら、すぐに出立いたしましょう」
わたくしは貴族御用達のカフェで朝食をとると、アベルが用意した一人用の馬車に乗り込み、都の門を出ます。御者はアベルでした。
旅程は五日。もと大皇国だけあって、イストリアの街道はどこも石畳で整備されていましたが、長時間乗っていると、さすがに揺れで疲れますし、退屈も思いのほか精神を疲労させます。
それでも何度か馬を取り換え(街道の各所に馬の交換所が設置されていて、料金を払えば誰でも利用できるのです)、五日目の昼前に目的の都の門をくぐることができました。
「お疲れでしょう。まずは一休みいたしましょう」
アベルはまず、この都で最も高級な宿を訊ねてそこに向かい、宝石と引き換えに一番良い部屋を確保すると、わたくしを馬車から降ろして部屋に案内しました。
わたくしはアベルの手で長靴や外套を脱がせてもらい、帽子や手袋も外して解放感を味わいます。
アベルが貴族御用達のカフェから食事を取り寄せ、わたくしは昼食と、気分転換にケーキをいただいて、ようやくゆったりと一息つくことができたのです。
休憩を終えるとわたくし達は宿を出て、目的地へと向かいます。
目当ての神殿はすぐに見つかり、わたくしはアベルを供に、参拝者をよそおって礼拝所に入ると、神官達の目を盗んで奥へと進みました。
はたして。廊下と回廊を進んでいった先に、夕暮れ前の赤味の強い陽光に照らされた小ぢんまりした中庭が現れ、中庭には見覚えある等身大の聖女像がたたずんでいます。
わたくしは聖女像に近寄り、これまで同様、額飾りの中央の石に触れました。石は外れて、ねじると左右にぱかりと開き、中から白銀色の水晶に似た丸い小さな石が現れます。
「三つ目の《聖印》だわ…………!」
わたくしの胸がはずみ、ヒルベルト様からの侮辱やアリシア・ソルからの屈辱を、一時ですが忘れました。
わたくしはいそいで石を閉じ、聖女像に元通りに戻します。
「これで残りは、セリャド火山の地下にある分と、クエント侯国にある分の二つだわ。――――どちらも遠いわ、こういう時こそビブロスが協力してくれればいいのに…………」
誰にともなく呟いた、その時。
「セレスティナお嬢様!!」
アベルが叫ぶと同時に動いて、わたくしをその背にかばいます。
わたくしは見ました。
わたくしとアベル以外、誰もいなかったはずの小さな中庭。
そこに、夕暮れの赤い空を背にして。
緋い光と黒い影が混じり合い、古風な黒い衣装に、どこか見おぼえある漆黒の双眸をした、雄々しい男性が現れたのです。
「え? 魔性かしら? でも…………」
レオ様よりもヒルベルト様よりも高い身長に、広い肩幅とたくましい腕。顔立ちは雄々しく、威厳と妖しい魅力に満ちて、夕風になびく長い髪は紅玉のような溶岩のような、輝く赤。緋色。
「セレスティナお嬢様! いけません、お下がりください!!」
アベルの制止にかまわず、わたくしは進み出ていました。
デザインの細部に差はありますが、このキャラクターには見覚えがあります。
漫画での登場はごくわずか、終盤に十数コマだけ。
イストリアの危機を前に、聖女として真の覚醒を遂げたセレスティナが成功させた、数百年ぶりの降臨。
「あなた…………もしかして『ブルガトリオ』? 大皇国時代のイストリアの聖なる守護神、『神話の残り香』と謳われた『猛き炎の聖竜ブルガトリオ』!?」
わたくしの声に、緋髪の男性も反応しました。漆黒の双眸がわたくしを見ます。
「女。貴様が、我を目覚めさせた存在か?」
わたくしはとっさに外出用ドレスの裾をつまみ、膝を曲げて優雅にお辞儀しました。
「古のイストリア大皇国の偉大なる守護聖竜ブルガトリオ様。はじめてお目にかかります。わたくしはセレスティナ・デラクルス公爵令嬢。ノベーラ大公国デラクルス公爵の一人娘、正統にして真なる聖女にございます」
「アンブロシア…………? アイシーリアのことか? あの人間の娘…………そういえば、このような銀の髪だったな」
「聖女アイシーリアは、五百年以上も昔に、この世を去りました。わたくしは彼女の再来です」
わたくしは説明しながらも、内心で誇らしさを感じていました。
(聖女アイシーリアも、わたくしと同じ銀髪だったのね。では、やはりわたくしが真の聖女…………!)
「ノベーラの公都の大神殿で。それからイストリアの皇都の大神殿と、この神殿で。わたくしに呼びかけ、導いてくださったのは、ブルガトリオ様だったのですね。わたくしにこの《聖印》を授け、わたくしこそ聖女にふさわしいと選んでくださったこと、心よりお礼申し上げます」
わたくしはお礼を述べながら、ブルガトリオ様に三つの石をお見せしました。
ブルガトリオ様はちらりと《聖印》へ視線を向けただけで、すぐにそらします。誰にともなく呟かれました。
「五百年以上前…………では、あれから五百年経ったのか…………そうだ、我はブルガトリオ。失われし神々の時代の欠片、星々の末裔――――」
ブルガトリオ様がわたくしを見下ろしました。
「セレスティナ、と言ったな」
「はい、ブルガトリオ様」
「我が眠っている間、なにが起きたかは知らぬが。我を解放したことには、見返りを与えねばなるまい。人間の女セレスティナよ、そなたは我になにを望む?」
「わたくしは…………」
伝えたいことは山ほどありました。
公爵令嬢にして聖女でありながら、これまでわたくしが舐めさせられてきた辛酸の数々。
最悪の魔女にして盗人の悪女、アリシア・ソルから与えられつづけた数々の屈辱。奪われつづけたわたくしの聖魔力に手柄、名誉。
聖女のわたくしをだまして捨てた、ヒルベルト皇子の冷酷な仕打ち。
そして、わたくしから聖魔力の恩恵を受けていながら、ヒルベルト皇子にだまされただけのわたくしに、あっという間に手のひらを返した、大公をはじめとするノベーラの者達――――
(いいえ。ただ一人、レオ様だけが…………)
ちくり、と胸が痛みました。
けれどそれら諸々は、目の前のブルガトリオ様の、夜の闇のごとく深い漆黒の双眸を前にした瞬間、どうでもよくなります。
わたくしは目が覚めたのです。
「今、ようやくわかりました。あなたこそが、わたくしの真の運命だったのですね、ブルガトリオ様」
「セレスティナお嬢様!?」
アベルが叫びましたが、わたくしの耳には届きません。
そっと手をあげ、目の前の男性の堂々たる胸板に触れると、指先からたしかな体温が伝わり、わたくしの体内にかっ、と熱を呼び覚まします。
広い胸、たくましい腕、雄々しい長身。
この体はどのようにわたくしを抱きしめ、どれほどの愛を与えてくれるのでしょう。
「愛しています、ブルガトリオ様。やっとお会いできた――――」
わたくしはブルガトリオ様の広い胸に顔をうずめました。
考えてみれば、当然の展開でした。
少女漫画の主人公というのは、登場する男性キャラクターの中で、もっとも優れた一人と結ばれるのが定番です。『ハイスペックイケメン』『スパダリ』と呼ばれるキャラです。
能力的にも容姿的にも優れて、かつ、力を有していることがヒーローの絶対条件なのです。
人間を超える神聖で強力な聖竜が実在する世界なら、その聖竜とヒロイン、いえ悪役令嬢が結ばれるのが自然な結末、定番です。
まして、わたくしは聖女。誰より聖竜にふさわしい、高貴で神聖な女です。
ヒルベルトがあのようなキャラクターだったのも、納得でした。もっと優れた、すばらしいヒーローが隠れていたのですから。
ヒルベルトもまた「つまらない女にひっかかって、婚約者である優れた悪役令嬢を捨てる愚かな王子」キャラだったのです。
(惚れ薬を使ってしまわなくて良かった)
わたくしは胸をなでおろしました。
ヒルベルトは誤り。ブルガトリオ様こそが、わたくしの真の運命だったのです。
「愛、とな」
ブルガトリオ様がわたくしを見下ろします。
「つまりお前は、見返りに愛を望むということか? この我の愛を」
「見返りではありません。わたくしは悪役令嬢で聖女。ブルガトリオ様と対になる運命のもとに生まれた女です。わたくし達が結ばれるのは、世界のさだめなのです」
「さだめ、か」
ブルガトリオ様は唇の端だけで笑いました。
吐き捨てるような自嘲するような、どこか冷ややかな笑いに、わたくしは一瞬、胸に氷のような不安が走ります。が、ブルガトリオ様の男らしい笑みに、すぐにそれを忘れ去りました。
「いいだろう。五百年ぶりの地上だ。さだめとやらに従うのも悪くはない。セレスティナ、お前は我に、我が眠っていた間の地上の出来事を教えよ。見返りに、我はセレスティナを我が妻として扱う」
「ブルガトリオ様…………! 嬉しい…………っ!!」
ブルガトリオ様の広い胸に抱きついたわたくしの目に、熱い涙があふれます。
数多の裏切りと孤独の試練を乗り越え、ようやく本物の運命にたどり着いて、聖女としても認められたのです。
アベルがなにか言いたそうにしていましたが、わたくしは気づきませんでした。
「愛しています…………愛していますわ、ブルガトリオ様。わたくしの真の運命…………!!」
こうして、わたくしは聖竜ブルガトリオの唯一絶対の妃に選ばれ、この世界の真の聖女となったのです。
その後、わたくしとブルガトリオ様は別の都へ移動し(図書館の魔王ビブロスよりなめらかな移動でした)、アベルが見つけてきた貴族御用達の宿に泊まって、ブルガトリオ様に請われるまま、数日間かけて現在の世界の状況を教えて差し上げました(ノベーラやイストリアでの勉強が活きました)。
そして、わたくし達は身も心も深くかたく結ばれて、わたくしは晴れてブルガトリオ様の、聖竜の妃となったのです。
まさしく『聖竜妃セレスティナ・デラクルス』の誕生でした。




