57.アリシア
「ああもう、次から次へと…………」
私は肩を落として、とぼとぼ自室へ帰る。
粗末な書き物机と細長いベッドがあるだけのせまい個室の窓辺には、一羽のトキが止まって目を閉じている。私が話しかけない限りずっとこの調子で、用がある時しか起きてこない。
預かって間もない頃は色々話しかけ、なにか食べるかと試してもみたが、これという反応はなく、話しかけても「日記を送らないなら、ほっといて」という視線を寄こされるのみだ。
飼い主そっくりである。
「また長期間、出かけることになったの。今度は、クエント侯国を通って神聖レイエンダ帝国へ。教皇庁で、教皇猊下から聖女審査を受けるの。合格すれば、正式に聖女認定されるそうだけれど…………これって、どれくらいマンガ本来の断罪の結末から離れているのかな。まさか、聖女認定までされておいて、時期が来たら断罪…………は、ないとは思うけど…………」
トキの頭をなでる。
「まあ、ビブロスは喜びそうだけれど。聖女認定されれば、間違いなく有名人だもの。審査会とか認定式の様子とか、詳細に書けば、日記の価値も上がりそうだし…………」
羽毛に包まれたやわらかな頭をなでながら「はあ」と、ため息をついた。
「行きたくないなあ…………」
「聞き捨てならないな」
背後から聞き覚えある低音が聞こえてくる。
トキが私の手を離れて、ぱたぱたと黒い服の肩に乗る。
「…………絶対、盗聴しているわよね!?」
「そのトキに伝えた言葉は、僕の耳に届くようになっているんだよ。それより、聞き捨てならない言葉を聞いたけれど?」
「最近、忙しいんじゃなかったの?」
「今も忙しいよ。必要な調べ物があってね。けど、聞き捨てならない言葉を聞いたからね」
図書館の魔王ビブロスは、書き物机の上に置かれていた私の日記を手にとった。
「せっかくの好機だというのに『行きたくない』とは、どういう了見かな? 君、八年前の対価の支払いは、まだ」
「はいはいはいはい、わかってます、わかってます、行きます行きます、行ってきます」
「…………逆に腹が立つ聞き分けの良さだね」
手をあげて宣言したら、魔王の長い指に両頬をつままれ左右に引っ張られた。理不尽だ。
「ちょっと愚痴っただけ! 国の命運を左右するかもしれない仕事を任されたんだもの、しかたないでしょ? こっちは、まだ十六歳なの。別に『やらない』とは言ってないから!」
私は先に予防線を張ったが、魔王が反論したのは別の事柄だった。
「十六。立派に一人前だ、婚約や縁談の一つもまとまっていて不思議じゃない年齢だよ」
…………これは、私が嫁き遅れと言いたいのだろうか。
「私は聖神官だから、結婚する気はないの。だいいち多額の借金…………借本? がある女なんて、貰い手もないでしょ」
「さっさと返済すれば、結婚できると思うけれど?」
「ほんと、ああ言えばこう言うわよね」
基本、本以外に興味がなくて口数が少ない印象だけれど、本が関係すると、ぐんとしゃべる。
「返済はします。でも今後できなくなっても、怒らないで。なにしろ一国の王様と謁見だもの。粗相があって首をはねられても、私にはどうにもならないから」
「その時は来世に取り立てるよ」
「…………」
一瞬、うんざりする未来予想図が脳裏にひらめく。
「いいじゃないか。同盟工作のため、聖女認定のために、神聖帝国に行ってくるといい。レイエンダまで行けば、イストリアの侵攻があっても、少なくとも君は安全地帯にいられる」
「どうして、そこまで詳しい事情を知っているの。いや、それよりも。…………そういうわけにはいかない」
「何故?」
「戦争になったら、また大勢の人が亡くなるでしょ。私は、死んだ人を生き返らせることはできないけれど、せめて怪我人だけでも癒せれば、犠牲者を減らすことはできるはずだもの」
「――――」
「あなただって、私が一人でも多く癒して有名になったほうが、返済には都合いいでしょ?」
「まあね」
魔王は否定しなかった。本当に魔王だ。
私はため息をついた。
「せっかく、セルバ地方で国境問題が片付いて、平和になったと思ったのに…………今度は例の宣誓書を根拠に、イストリアが宣戦布告。セルバの人達が気の毒すぎる。あの宣誓書が、こんな形で新しく紛争の種になるなんて」
「そんなものだよ、世界なんて」
静かに吐き捨てるような、諦観の声。
私はビブロスを見上げる。
図書館の魔王は淡々と語った。
「因果応報。魔王を含めて魔性の力を借りれば、必ず、それ以上の災いが反動という形で戻ってくる。たとえ望みそのものは叶っても、それ以外の部分にしわ寄せがくる。そういう理なんだよ、この世界は。だから魔族との取引なんて、しないほうがいいんだ。たとえアンブロシアといえど、自滅行為にすぎない。人間にとってはね」
白い髪に漆黒の瞳の魔王は、相変わらず静かだった。雪の夜のように。
静かで冷ややかで「こんなところに人間がいたら、凍えてしまうよ」と言いたくなるような。
だから私は言わずにおれなかった。
「あの時、あの記録をもらったのは、無駄でも自滅でもなかったと、私は思っている。あそこであの記録が公表されなければ、いまだにセルバ地方では、あいまいな国境をめぐって終わりの見えない戦争がつづいていたはずだもの。あの選択は絶対、間違っていない。悪いのは因果でも魔性でもなくて、あの宣誓書を根拠に侵攻を決めた、イストリア皇帝でしょう?」
魔王は私を見た。
漆黒の、なにを考えているかわからない、ただ雪の夜のような瞳。
私は言いきる。
「自滅なんかじゃない。絶対に。そうじゃないって、証明して見せる。私の選択が間違っていたと、認めないためじゃなくて――――」
「あなたにそんな顔をしてほしくないから」とは、照れくさくて言えないけれど。
「とにかく! 絶対! 私がなんとかする! いいほうに変えて見せるから!! 私が本当に聖女なら、魔王の力になんか絶対、負けない!! あなたと契約したことは間違っていない、あなたより私のほうが強いって、証明してみせるから!!」
指をさして宣言してしまった。
でも本心だった。
別に聖女認定はどうでもいいけれど、聖魔力で大勢の人達を助けたいのは事実。
そして、目の前のこの男性を助けたいのも、事実だった。
せめてもうちょっと、楽しい顔をしてほしい。
魔王はちょっと驚いたように目をみはったけれど、すぐもとに戻って。
「――――期待しているよ」
そう言った。
「全力で聖女になってみてくれ。――――君の日記に、価値が出るように」
「そっち?」
いつものパターンだ。
「まあ、いいけど」
ちょっと元気になったっぽいし。
「そういえば」と、私は地味に気になっていたことを訊いてみた。
「あなたからの交換日記の返事。よく本の紹介文が載っているけれど、どうして? 私、八年前の返済も済んでいないのに、もっと借金、いえ、借本しろってこと?」
「別に。特に意味はないよ。書くことがないだけだ」
「…………っ」
地味に一番、聞きたくない返事だった。
(私に興味ないんだな…………)
わかっていたことだけれど、寂しい、切ない。
「――――紹介している本自体は、良書だよ。紹介しているとおりにね」
「それは、そうでしょうけど」
ふと、気になった。
「――――ビブロスのお勧めって、なに?」
蔵書狂の魔王は不思議そうに首をかしげる。
「日記で紹介したとおりだよ。君、読んでいないのかい?」
「違う。読んでいるけど、そういう意味じゃなくて。こう、私の求めに応じて、ふさわしい本を紹介してくれるんじゃなく。私の依頼とか都合とか全部無視して、ビブロス自身が『これを勧めたい』『これだけは読んでほしい』って思う本は? ってこと」
図書館の魔王はちょっと意表を突かれたようだった。
「――――それは依頼かな?」
「ううん。気になっただけ。なんというか、あなたが、あなた自身の好みとか考えで、絶対に勧めたい本を選んでくれるとしたら、どんな理由で、どんな本を私に選んでくれるのかな、って。――――変?」
これだけ本にこだわる男性だ。一冊や二冊は、絶対に人に勧めたい、とっておきのお気に入りがあると思うのだけれど。
(あ。むしろ一冊じゃ足りなくて、十冊とか百冊もあったり…………!?)
一瞬、冷汗が流れる。
が、意外にも魔王からの即答はなかった。
「そういう依頼は初めてだね」
「依頼じゃなく、友達にお勧めを選ぶような感じで…………面倒ならいいわ。仕事外のことはしないんでしょ? 今、忙しいみたいだし」
私の胸にすきま風が吹く。
交換日記はしても、それはあくまで返済の一環。
好きな本を勧めるような関係ではないのだ。
そう、落胆したけれど。
「――――わかった」
魔王は引き受けた。
「君に勧める一冊。選んでみるよ。題名を教えるから、気が向いたら借りるなり購入するなりするといい」
「…………っ! うん!!」
「だから、返済の日記は欠かさないように」
「わかってる!!」
魔王はとうとつに白い手をあげる。
ふわり、と、黄色い物と細長い緑の物がその手の上に現れた。
「え、お花?」
鮮やかな黄色い花びらに、細長い緑の葉。
殺風景な個室の中で、そこだけ浮き上がるように活き活きと明るい。
「黄水仙だよ。花言葉は『私のもとへ帰って』」
「え」
私は言葉を見失った。
普段、本にしか関心を示さないと思っていた魔王からの、まさかの台詞である。
「…………えっと。あ、ひょっとして、なにか魔術的な力が込められた特別な水仙、とか?」
「いや。屋台で一本、銅貨二枚だった。魔術的な効果のあるお守りをご所望なら、対価と引き換えに用意するよ?」
ときめきが冷めていくのがわかる。
「餞別だよ。君のこのストロベリーブロンドは、黄色も映える」
言って、魔王はさらり、と私の額にかかる前髪をかきあげた。
「早く帰って来て、返済のつづきをしておくれ。僕の小さなアンブロシア」
そう言うと額にかすかなキスを落とし、いつものようにすうっ、と姿を消す。
私はぼうっ、と顔が熱くて、気づくと黄水仙をにぎりしめていた。
鼓動が早い。魔王に触れられた髪と額が、いっそう熱く感じる。
(あれは…………いつもどおりだったのかな、それとも軽口だったのかな…………)
どちらにせよ、かまわない。大事なのは、私がやる気になったということだ。
(よし。絶対、どうにかして見せる)
手の中の黄色い花を見つめる。
本音の本音では、自分がどこまでやれるか、まったく自信がない。
私の聖魔力がどこまで通用するか、皆目見当もつかないし、そもそも聖魔力でどうにかなる問題とも思えない。もしかしたら、失敗してしまう可能性だってある。
でも。
だとしても、やる気がなくて逃げ腰なのと、やる気があって積極的に動いているのとでは、導かれる結果は異なるはずだ(「やる気のある無能」なんて恐ろしい言葉もあるけれど)。
望む未来をつかめるかは、わからない。
でも絶対に、投げ出すことだけはしないと、私は黄水仙を胸に抱いた。
(患者を助ける。ビブロスにあんな顔をさせない。戦争も、できるだけ止めて見せる。できなくても、最後まで投げ出すことだけはしないんだから――――!!)
聖女であっても、聖女でなくとも。
最後までなにかをしつづけることなら、私にもできるはずだった。
二日後。晴れて私は旅立つ。
「大神殿のアリシア・ソル聖神官、聖女審査のため神聖レイエンダ帝国へ赴く」と、大々的に宣伝しての出発だった。




