54.セレスティナ
わたくしの引き裂かれるように切ない胸の内とは裏腹に、ヒルベルト様はどんどん薄汚い罵倒の台詞を並べていきます。
「それでなくとも、平民に実績でも能力でも負けた女。イストリア皇子妃どころか、ノベーラ公太子妃すら器量がともなっていないのは、目に見えている」
「なん…………!!」
「公都ではアリシア・ソル聖神官の帰還以降、大神殿には連日患者が押し寄せ、公都の外の町や村からも大勢訪れて、宿や飲食店が繁盛しているそうだ。アリシア・ソルの絵姿や、セルバ地方での逸話を語る冊子やパンフレットは飛ぶように売れ、詩人や作家は新しい聖女を賛辞する詩や小説を書き、画家達は肖像画の注文をさばくのに大忙し。もはや誰も、セレスティナ・デラクルスなど覚えていない。もともと癒す人数が少なく『すげなく追い返された』という悪評ばかり広まっていたうえに、自国の公太子を捨てて他国の皇子と駆け落ちした裏切り者だ。公都では誰も彼もが、アリシア・ソルこそ次代聖女と納得している。お前が顔を売っていた貴族どもも同様だ」
「な…………あの女が…………!?」
「ヒルベルト様。もう、それくらいで」
焦げ茶色の髪の女がヒルベルト様をなだめました。
「ノベーラのお嬢さん。見逃してあげますから、早くお行きなさい。二度とヒルベルト様には近づかぬことです。ヒルベルト様はこのとおり、お顔はたいそう魅力的ですけれど、お腹の中は炭より真っ黒ですからね」
む、とヒルベルト様が眉間にしわを寄せました。
「それは誤解だ、公女」
「この有様を見て、まだそのように否定できるところが正に、ですわ。お気の毒に、深窓で大事に育てられたお嬢さんが、殿下の口車に乗ったばかりに」
「ふん」と、ヒルベルト様は鼻を鳴らします。
「その女が愚かだっただけだ。大公にさだめられた婚約者がいながら、他の男と結婚できると信じるほうがどうかしている」
「そん…………っ、それは、ヒルベルト様が…………!!」
わたくしは懸命に言葉をしぼり出します。
「ヒルベルト様が、わたくしに求婚を…………! レオ様に婚約破棄されたわたくしに『イストリアに来い』と…………!!」
「『来るか?』と訊ねたのだ。『来い』と命じたわけではない。あくまで、そちらの選択だ。俺を拒絶して、レオポルドと結婚する道は残されていたし、そうしていれば今も公爵令嬢でいられた。それを捨てたのは、お前自身だ」
「違…………っ! わたくしは、ヒルベルト様に望まれて…………!!」
「そもそも公太子も皇太子も、婚約はそれぞれの皇帝や大臣が決定するもの。本人の独断でどうにかなるものではない。公太子妃として育てられながら、その程度の知識もないのか」
わたくしは頭を激しく殴られた気がしました。
「あのように一方的に公太子に婚約破棄されては、あまりにお前の立場がない。だから、ノベーラ公太子よりはるかに格上のイストリア皇子が『自分のほうがもらいたい』と世辞を述べることで、お前の名誉を守ってやったのだ。戯言と承知のうえで、デラクルス公爵は俺の言葉に感謝したはずだし、ノベーラ大公も婚約を解消する気はなかったのだから、お前は『光栄ですが、すべて大公陛下にお任せします』とでも言っておれば、今も公太子の婚約者でいられたものを、俺の気遣いを分もわきまえずに真に受けたりなどするから、こんなことになったのだ」
「気遣い…………? あれが、ただの気遣いだった、と…………?」
「物語のように、婚約者に捨てられた途端、格上の皇子に拾われた、とでも思ったか? 下賤の三文小説の読みすぎだ」
ヒルベルト様は吐き捨てました。
「そもそも。皇子たる俺が、他国の家臣の娘を娶ってどうする。皇族の結婚は政略であり、とどのつまりは人質だ。たとえば、俺がエポス公女を娶るのは――――」
ヒルベルト様が焦げ茶色の髪の女の肩を抱き寄せます。
「エポス公国は小国だが、交易の要所にあり、周辺情勢からも今後ますます重要地点となることが明らか。故に、陛下は俺と公女の婚約をさだめたのだ。同盟の証とはいうが、今後エポス公国がイストリアを裏切るような事態になれば、公女は公国に対する見せしめとして、離縁の末に神殿行き。もしくは処刑場行きだ。であればこそ、元首の子でなくては意味がない。家臣の娘など、見捨てて終わりだからな。他国に嫁ぐ皇女皇子は、みな、その覚悟をもって国を出るのだ。そこに軽薄な恋だの運命だのの割り込む余地はない。王族ですらない、平民に負けた家臣の娘など、イストリア皇子が娶る利益はないと、何故理解できない。ノベーラ大公とて、大公家の娘を差し置いて家臣の娘がイストリア皇族に嫁ぐことを、承知するはずがない。家臣の権勢が大公家を上回りかねない事態なのだからな」
これまで、あれほど甘く艶やかだったヒルベルト様の琥珀色の瞳が、この上なく酷薄に見下ろしてきます。
「大公妃教育をうけていながら、その程度の理解もなかったとはな。聖女誕生に沸いて勘違いしているようだが、ノベーラなど、しょせんイストリアの属国。その属国のたかが家臣の娘など、皇子の愛人でも身に余る。不満なら出て行くがいい。聖魔力は本物なのだ、神殿に入れば聖神官として生きていけるだろう」
「な、ん…………」
わたくしは呆然と、ようよう言葉をつむぎ出しました。
「わたくしは、デラクルス公爵家は、ノベーラ建国において多大な功績をあげた、功臣の子孫で、ノベーラ大公国屈指の名門で…………っ」
「ノベーラが、生意気にもイストリア皇国に逆らった、その手助けをした裏切り者の子孫、の間違いだな」
薄汚い物を見る目で鼻を鳴らしたヒルベルト様の姿に、わたくしは呆然と立ち尽くすしかできませんでした。言葉もありません。
なんて愚かで傲慢な男。
悪役令嬢の運命の恋人。前世からのわたくしの運命の人が、こんな真の高貴や聖女を見分けられない、物事の本質を見抜く眼力のない愚者だったなんて。
「行こう、公女。見苦しいものをお見せして、大変失礼した」
ヒルベルト様は抱き寄せた女をうながし、わたくし達に背をむけます。
女は軽やかに笑いました。
「かまいませんわ。殿下のことですもの、この先もこのようなことは起こるのでしょう? 公私の区別と優先順位を間違えなければ、わたくしは殿下の私的なお付き合いについては、口を出すつもりはございません」
「申し訳ない。貴女のような理解ある妃を得て、俺は幸運だ。今後、俺の私的な付き合いで貴女を悩ませることは一切ないと、イストリア皇帝とエポス公の名において約束しよう」
焦げ茶色の髪の女に真剣な表情でそう語ると、ヒルベルト様はわたくし達をふり返りました。
「アベル! お前の大事な主人に恥をかかせたくなければ、その女をさっさと連れ出せ!!」
「私はセレスティナお嬢様の下僕。私の主はセレスティナお嬢様、ただ一人です。あなたの指図はうけません」
わたくしの肩を支えるアベルの手と声音から、珍しい彼の苛立ちが伝わってきます。
「参りましょう、セレスティナお嬢様。これ以上あのような男と関わっては、御身の時間の無駄。尊きお体や、高貴なお心が汚れてしまいます」
「アベル…………」
わたくしはアベルに支えられて、ふらふらと歩き、気づくと植物園の外にいました。アベルがビブロスを召喚して園外に移動したはずですが、まるで思い出せません。
「アベル…………これは本当に、現実かしら。夢ではないの?」
「セレスティナお嬢様」
わたくしは顔をおおいます。
「ヒルベルト様が、イストリアの皇子ともあろう方が、あんなに横暴で傲慢で、見る目のない男だったなんて。すべてはあの魔女、アリシア・ソルのせいだわ。聞いたでしょう、アベル。ヒルベルト様まで、あの悪女に肩入れしていたの。これも、わたくしが悪役令嬢だから? すべて、悪役令嬢に生まれた宿命だとでもいうの!?」
「セレスティナお嬢様――――」
アベルが提案してきます。
「ヒルベルト殿下に惚れ薬を飲ませましょう、セレスティナお嬢様。そうすれば殿下はセレスティナお嬢様の虜。自ら跪いて、二度と逆らうことはありません。セレスティナお嬢様は気の済むまで、あの男を苦しめてやればいいのです」
「でも…………」
わたくしは迷いました。
「惚れ薬は残り一本でしょう? 今ここで使ってしまって大丈夫かしら?」
それでなくともレオ様に使った二本目は、アリシア・ソルのせいで無駄遣いに終わったのです。このうえ三本目まで同じような結果に終わったら。
「では、聖女像を優先しましょう」
アベルはさらに別の提案をしてきました。
「先に、皇国内のもう一つの聖女像を確認しましょう。セレスティナお嬢様が聖女として覚醒すれば、ヒルベルト殿下も先ほどの暴言を撤回せざるを得ません。ノベーラの者も誰が真の聖女か思い知り、デラクルス公爵閣下やご家族も、全員解放されるでしょう。セレスティナお嬢様は悪役令嬢、この世界の主人公ではありませんか」
「お父様…………」
わたくしは暗闇に細い光を見出しました。
「そうね、そうしましょう。先に、聖女認定だわ。もう一つの神殿にも、もしかしたら三つ目の《聖印》があるかもしれないし。それに、そう! すべての神殿に隠された《聖印》を集めることで、聖女として認められるのかもしれないわ!」
口に出すと、本当にそれが真実であるような気がしてきます。
「漫画に出ていた五つの神殿、すべてを回りましょう。そして《聖印》をそろえるの。それができた時、わたくしは今度こそ、真の聖女として認められる。アリシア・ソルを倒し、わたくしの高貴さと神聖さにふさわしい地位と幸せを手に入れるんだわ。わたくしはセレスティナ・デラクルス公爵令嬢。この漫画の悪役令嬢だもの――――!!」




