38.アリシア
「レオポルド様、なにをおっしゃられるのです!? セレス嬢は、レオポルド様があれほど大切にしておられた婚約者、冗談にしても質が悪すぎます」
普段、物静かなグラシアン聖神官が、珍しく強めの口調で問いただすが、殿下の答えは変わらない。
「冗談ではない。私が真実愛しているのは、アリシア嬢だ。今、ここで彼女と再会して直感した。彼女が私の運命だ」
「…………」
私はぽかん、と口を開けて呆ける。ルイス卿やソル大神殿長様、さすがのラウラも目を丸くしている(あとでラウラいわく「あなたとソル大神殿長様、同じ顔をしていたわ。ああいうところ、血はつながっていなくても親子よねぇ」とのことだ)。
「お、お待ちくださいませ、レオ様。わたくしは何がなんだか、さっぱり」
デラクルス嬢が哀れなほどうろたえる。当然だろう。昨日まであれほど溺愛されていたのに突然、手のひらを返されたのだ。
「貴女に理解してもらえなくても、いたしかたない。だが真実が明らかになった以上、間違いは正さねば。私は貴女との婚約を破棄する。私の妃となるのは、アリシア嬢だ!」
「殿下!?」
グラシアン聖神官が叫び、デラクルス嬢は真っ青になって卒倒しかける。細い肩を、イストリア皇子が支える。
「どういうことだ。まさか、そなた、公太子殿下と…………!」
「違います!!」
ソル大神殿長様が泡を食って私を問いただし、グラシアン聖神官とルイス卿は、クエント軍襲撃の知らせを聞いた時のような表情をしている。ラウラは…………驚きつつも、わくわくと瞳をきらめかせていた(すべてが終わったら殴ろう)。
私は必死で否定しつつ、やっとひらめく。
(これ…………ひょっとして、悪役令嬢の婚約破棄イベント? 婚約者の王子がヒロインに心変わりして、主人公の悪役令嬢を断罪しようとする、マンガ定番の最初の場面!?)
どっと血の気が引いた。
(いやいやいや、無理! 急展開すぎる! ついこの間まで、私のこと偽物だの魔女だの、さんざん罵っていたじゃない! デラクルス嬢をあんなに溺愛しておいて、なんで今日になったらいきなり婚約破棄なの、ゲームの強制力にしても不自然すぎる!!)
悪いことに、騒ぎを聞きつけ、どんどん周囲に人が増えていく。それも使用人ではなく、貴族達だ。この状況で公太子が何か言えば「失言でした」「冗談でした」では済まされない。
「レオ様、後生です、落ち着かれてくださいませ」
「そうとも、レオポルド公太子。俺も、このような場で話す事柄ではないと思うが?」
デラクルス嬢が懇願して、ヒルベルト皇子もたしなめてくる。
さらに、とんでもない声が割り込んできた。
「何事だ、騒がしい」
大公陛下と、そのお妃様の登場だ。
私は悲鳴をあげて逃げ出したい衝動に襲われた。いっそ、そうしたほうがマシだったかもしれない。
「レオポルド。宴を放り出してこのような場で、なにを騒いでいるのです」
「母上」
レオポルド公太子殿下は、やってきた両親に宣言した。
「父上、母上。いえ、ノベーラ大公陛下、大公妃殿下。私は真実の愛を見つけました。私の運命は彼女、私が真に愛するのは、このアリシア・ソル嬢ただ一人! 私は公太子として、正式にデラクルス嬢との婚約を破棄し、アリシア・ソル嬢を公太子妃に迎えることを、ここに宣言します!!」
口をはさむ隙もなかった。
レオポルド殿下は私の肩を抱き寄せると、舞台でスポットライトを浴びる役者かなにかのように華やかに、長口上を一息に言ってのけた。
私は頭が真っ白になったし、周囲も、しん…………と、呼吸の止まったかのような沈黙に包まれる。
突然「わっ」と声があがり、皆が我をとり戻した。
「ひどい…………っ、あんまりです、レオ様! いったい、わたくしの何が不満で!」
デラクルス嬢だった。美しく白粉と口紅を塗った顔を両手でおおう。
「貴女には何の不満もない、デラクルス嬢。ただ、貴女は私の運命ではなかった」
「そんな………っ」
デラクルス嬢は頭をふって泣き出し、隣に立つヒルベルト皇子の胸にすがる格好になりかけたところを、駆けつけた父親が引きとる。
「いったいこれは何事ですか、レオポルド殿下」
溺愛する最愛の娘の涙を見て、デラクルス公爵の口調は鋭いものになる。
しかしレオポルド殿下も怯まなかった。
「すべては、私の責任だ。デラクルス嬢に非はないが、私も己の心に嘘はつけない。たった今、デラクルス嬢との婚約を破棄した。私は、このアリシア・ソル嬢と結婚する」
「な…………!?」
公爵も絶句した。
レオポルド殿下はノベーラ大公に向き直って訴える。
「お聞きになられたとおりです、陛下。私の、いえ、私達の結婚をお認めください」
大公夫妻も目を白黒させている。彼らから見ても、息子の豹変ぶりは異常なのだろう。
私は、というと「私の一存ではどうにもなりません」と、ソル大神殿長様に丸投げすることさえ思いつかず、ただ茫然と殿下に抱き寄せらせた体勢で固まっていた。
と、我に返った大公が咳払いして、重々しく口を開く。
「公太子は葡萄酒の酔いがまわったようだ。疲れがたまっているのだろう。今宵は、もう休むがいい。誰か、侍医を呼べ」
さすがは一国の元首。下手に返答して言質を与えたりなどせず「酔って錯乱している」という体裁で、なかったことにするらしい。
私もそうして欲しかったし、数人の侍従達がすかさず寄って来て「さ、殿下」と、左右からうながす。だがレオポルド殿下はその手を払った。
「陛下、私は正気です! どうか、我々の婚約をお認めください!!」
(どう見ても正気じゃないわよ!!)
なんとかして殿下の腕から逃れようと身をよじる私に、追い打ちがかけられる。
「…………承知、いたしました…………」
弱々しい一言を告げると、デラクルス嬢はしゃんと背筋を伸ばして宣言する。
「レオ様、いえ、レオポルド殿下にそこまで嫌われて、のうのうと婚約者を名乗れるほど、わたくしも厚顔無恥ではございません。婚約は慎んで解消させていただきますゆえ、どうぞ、その女と末永くお幸せに」
「セレスティナ!?」
公爵が瞠目する。
「わたくしは殿下にふさわしい妃になれるよう、幼き頃より努力を重ねてまいりました。それが、このような結果に終わるなんて…………っ」
悔し気なデラクルス嬢の呟きに、艶のある低音が彼女を慰める。
「泣くことはない、デラクルス嬢。公太子自身が認めるように、貴女に非はない。貴女は申し分のない姫君だ、この国で貴女以上に美しく優雅な姫など、存在するだろうか」
涙ぐむデラクルス嬢の目尻を、ヒルベルト皇子の長い指が優しくぬぐう。
「公太子が婚約を解消するなら、俺がもらいうけたいくらいだ、ノベーラの麗しき銀の百合。俺と共にイストリアに来るか?」
「ヒルベルト様…………っ。嬉しい…………っ、さらってくださいませ、わたくしを。どんな風より強くたしかに、すばやく。ヒルベルト様こそ、真の皇子ですわ」
「!?」
「セレスティナ!? なにを申すのだ!?」
デラクルス嬢の言葉に誰もが言葉を失い、大公夫妻やデラクルス公爵でさえ、目と口を丸くして立ち尽くす。
デラクルス嬢はヒルベルト皇子の腕に自分の腕にからませ、二人並んで、さっさと行ってしまった。まさに風のように、周囲が止める間もなく。
「ヒルベルト殿下はイストリア皇国の第三皇子。デラクルス嬢については問題ないだろう。さあ、これで私達の障害はなくなった。あらためて君と婚約しよう、アリシア嬢」
「いや、待ってください! ほんとに待って!!」
うきうきとこちらを向いたレオポルド公太子に、私は力いっぱい抵抗する。
万が一にも、このままデラクルス嬢との婚約破棄が成立して、私とレオポルド殿下が婚約――――などという事態に陥ったら。
(マンガどおりの展開になる! 私が断罪されて、処刑や娼館行きになるじゃない!!)
レオポルド殿下だって、ただでは済まないのに。
(だいいち私は、相手にされていないけど――――)
一瞬、白髪黒眼の面影が胸によぎる。
「お待ちください、殿下。ソル聖神官の結婚については――――」
ソル大神殿長様がようやく我をとり戻し、慌てて会話に割り込もうとする。
レオポルド殿下は逆に大神殿長様に要請してきた。
「ソル大神殿長は、たしかアリシア嬢の後見人だったな。ちょうどいい、貴方にも私達の結婚を認めてもらいたい」
「え、いや、その、ソル聖神官は、っ」
狼狽するソル大神殿長様をさえぎるように、大公陛下が命じる。
「公太子!! 大公命令だ!! 今宵はもう休め!! 誰か、公太子を連れていけ!!」
私も頭が爆発するような気分で叫んでいた。
「なんで私が殿下と結婚するんです、おかしいでしょう!? 絶対お断りです、私は殿下とは結婚しません!! だいいち、殿下にはデラクルス嬢がいるでしょう!!」
「誤解だ、アリシア!」
『アリシア』と、呼び捨てときた。
「私が真実、愛しているのは君だ、アリシア! 君こそが、私の本当の運命なんだ!!」
レオポルド殿下が大きな手で私の手を包み、私はぞわっ、と全身に悪寒が走る。
激しく狼狽するソル大神殿長様と、それをなだめるラウラ、しきりに私達を見比べるルイス卿とグラシアン聖神官、その他の貴族や侍従達を押しのけ、鉛色の髪の眼鏡をかけた青年を連れて、赤毛の大柄な青年が割り込むように怒鳴ってきた。
「どういうことだ、アリシア・ソル! この魔女め! 貴様、やはりレオポルド様をたぶらかしたな!? セレス嬢を陥れたんだな!?」
「違います!!」
タルラゴ卿の怒鳴り声に、私の一番恐れていたことが刺激された。
「もう、いい加減にして!! 私は殿下とは、結婚しません――――!!」
青白い光がぶわっ、と膨張するように放出され、薄暗かった廊下が真昼より明るく輝く。
居合わせた全員が目をつぶり、腰痛だの片頭痛だの肩こりだの膝の痛みだのが吹き飛ぶ。
私の聖魔力は、あくまで治癒専門。攻撃手段としてはまったく効果がない。
だからレオポルド公太子に放っても意味はないし、そう考えてもいたのだが。
「ぐあっ!!」
殿下は、少女マンガの美形ヒーローにあるまじき濁った苦痛の声をあげた。
二十人以上の視線が集中する真ん中で、レオポルド殿下は真っ青になった額にいく粒も汗の玉を浮かせ、喉を押さえて上を向く。
「レオポルド様!? 気分が悪いのですか!?」
呻く殿下を、グラシアン聖神官やバルベルデ卿、タルラゴ卿、侍従達がとり囲む。
(どうして――――?)
私の聖魔力は、治癒専門。そのはずだ。
けれど私は自分の手と殿下を見比べるうち、一つの記憶を思い出す。
(そういえば…………以前も一度、聖魔力で苦しんだ人がいた。あれは――――)
脳裏に一つの可能性がひらめき、熟考する前に再度、聖魔力を公太子へ放つ。
青白い光をもう一度浴び、レオポルド殿下は数秒間、動きを止めたかと思うと、次の瞬間、盛大に口から大量の液体を吐き出した。
磨かれたつやつやの大理石の床に、黒い水が激しくぶつかって飛沫をあげる。
「うわっ!!」
「なんだ、この水は!?」
タルラゴ卿が驚愕の声をあげて退き、公太子をとり巻いていた侍従達も恐れおののいて妙なステップを踏んで、嘔吐された液体から足を守る。
(やっぱり!!)
確信を得た私は念のためもう一発、聖魔力を公太子へ放つ。
公太子はもう一度、今度は少量の黒い水を吐き出すと、ぐったりとその場にくずおれた。タルラゴ卿がいそいでその背を支え、そっと床に座らせる。
「レオポルド様! 気をたしかに!!」
「なんだ、この水は、いったい…………っ」
「毒、か――――?」
その場にいた全員が口々に不審や恐怖を口にし、吐き出された水に視線が集中する。
水は、うねうねと小刻みに動いていた。床が銀灰色なので、真っ黒な水は見えやすい。
「っ、魔術だ!!」
ソル大神殿長様が喝破する。
「大公陛下! 妃殿下! お下がりください!! これは、魔術による仕業です!!」
大神殿長の鋭い警告の言葉に、反射的にグラシアン聖神官が前へ出て、黒い水へと聖魔力を放つ。私より威力が弱いとはいえ、グラシアン聖神官の聖魔力は、魔術の水には効果覿面だった。水は動きを止めると、端からぼろぼろと砂のように崩れはじめる。
私も加勢して、四度目の聖魔力を放った。
黒い水は砂より細かな塵となり、塵より細かく霞んで、見えなくなった。
「無効化…………したのでしょうか?」
「大丈夫であろう。聖神官二人がかりだ」
グラシアン聖神官の不安がにじんだ問いに、ソル大神殿長様が重々しく保証する。
呆然としていた大公陛下が、大きく深呼吸してソル大神殿長様に確認した。
「先ほどの怪しげな水は、魔術の水か。では公太子は、魔術の水を体内に入れていた、ということか? 先程の乱心はそのせいか!?」
「おそらく。水を介した魔術を用いて、何者かに操られていたのでしょう。魔術の多くは魔物の力を借りて行使するゆえ、聖神官の聖魔力に浄化されたのです」
重々しくうなずいたソル大神殿長様の返事に、ノベーラ大公は愕然と息を呑む。
デラクルス公爵が、大神殿長様にすがるように問い詰める。
「では、先ほど公太子殿下が、婚約破棄などとおっしゃったのは――――」
かすかな呻き声を発して、レオポルド殿下が意識をとり戻した。まだ顔は青白く、唇も青ざめ、紫の瞳は不思議そうに戸惑うようにゆれている。
「レオポルド様!!」
「殿下! お目覚めになられましたか!!」
「公太子!!」
「レオポルド!! わたくしがわかりますか、レオポルド!!」
タルラゴ卿や侍従達が声をあげ、ノベーラ大公も呼びかけ、安全のため下がっていた大公妃が息子に駆け寄って膝をつく。
「母上…………? それに、皆も…………ここはどこです? 廊下? 私は、どうしてここに…………? 私は、寝ていたのですか?」
タルラゴ卿に支えられて上体を起こしたレオポルド殿下は、しきりに周囲を見渡す。
普段に比べて声や表情が弱々しいものの、先ほどまでとは明らかに様子が異なる。
「おお」と周囲が声をあげ、大公妃も息子の名を呼び、抱きついた。
「良かった、正気に戻ったのですね、レオポルド! あなたは操られていたのです。何者かが、あなたを恐ろしい魔術で操っていたのですよ」
「私が…………?」
自身を見下ろす公太子の瞳はしっかりしており、態度にも落ち着きが戻っている。
「宴は中止だ! すぐに、すべての出入りを封鎖せよ! 何人たりとも、宮殿の外に出してはならぬ!!」
ノベーラ大公が周囲に鋭く指示を出し、侍従や兵士達が厳しい表情で走り出す。
次期大公たる公太子が魔術の毒牙にかかったのだ。即刻、下手人を探し出して、その目的を吐かせる必要があった。
「ということは、私達も今夜は帰れないのでしょうか?」
「緊急事態だ。いたしかたあるまい」
私の問いに、ソル大神殿長様は肩をすくめた。
レオポルド公太子が、タルラゴ卿の肩を借りて立ちあがる。が、ふいに表情を変えた。「信じられない」という風に。
「公爵! ティナは!? ティナはどこにいる!?」
「殿下…………!」
公太子殿下に問われ、デラクルス公爵は見るからにほっとした表情を浮かべる。
「少々お待ちください、殿下。今、娘を呼んでまいります。娘も、殿下が正気をとり戻されたと知れば、喜ぶでしょう」
「では、やはり記憶違いではないのか! 私はティナに、婚約破棄などと宣言してしまったのだな!?」
「殿下は、魔術で操られていたのです。娘も真相を知れば理解できましょう、賢い娘です。殿下は念のため、先に聖神官と侍医の診察を――――」
「落ち着いてなどいられない!」
レオポルド公太子はタルラゴ卿の肩から離れると、周囲の制止をふりきって、愛する婚約者のもとへ駆け出す。少しふらついているが、自力で走れるようだ。
「ティナ!!」
「お待ちください、レオポルド様!!」
タルラゴ卿やグラシアン聖神官、何人もの侍従達がその背を追う。
ラウラも仕事に戻り、廊下にいてもしかたないので、私達は料理のある大広間へ戻った。
ソル大神殿長が大儀そうに葡萄酒を飲み干し、安堵のため息をつく。
「やれやれ。本気で心臓が止まるかと思った。仮に、そなたと公太子殿下の婚約が決定しておれば、間違いなく今日が儂の命日だった」
「どういう意味ですか」
ルイス卿が「まあまあ」と私をなだめる。
「なにはともあれ、真相が明らかになって、ようございました。これであとは犯人が捕まれば、言うことはないのですが」
「それは兵士と役人の仕事だな」
ソル大神殿長様が葡萄酒をおかわりして、この夜の私達の出番は終了となる。
(公太子が魔術で操られていた、なんて大事件だし。日記に今夜の顛末を詳しく書いておけば、ビブロスは喜ぶわよね? 対価の返済が早まるかも…………)
そんなことを思いながら、私はふたたび料理の並ぶテーブルをまわりはじめる。
その後、宮殿は完全に封鎖され、招待客の貴族も下働きの平民も例外なく、外部への脱出を禁じられた。
唯一の例外はデラクルス嬢だ。
レオポルド公太子に婚約破棄を宣言され、ヒルベルト皇子と去っていった彼女は、侍従一人を連れて泣きながら馬車に乗り込み、わずかな時間差で宮殿を出て、封鎖を逃れてしまったのである。
とはいえ、彼女は誰が見ても被害者の立場。
デラクルス嬢の帰宅を知ったノベーラ大公や捜査の役人達も、夜が明けてから、あらためて彼女のもとに事情の説明と、一応の聞き取りのための役人を派遣することで良しとし、無理に連れ戻そうとはしなかった。




