37.アリシア
明けて新年。
大神殿では新年を寿ぐ儀式が催され、朝から夕方まで大勢の信者が押しかけて、礼拝や祈祷や説教や寄付の受け取りに忙しい。
宮殿でも五日間に渡る盛大な宴が催され、特に三日目の宴は、公都中の神殿の頂点に立つソル大神殿長様とその周辺のみならず、私とグラシアン聖神官まで招待される。
百五十年に及ぶ懸案事項、セルバ地方での国境問題が片付いた祝いも兼ねているからだ。
ドレスなど持っていないので、私はいつもの紫の長衣に白の神官服と紫の帯を合わせた聖神官の正装で、ソル大神殿長様のあとにつづいて、宮殿の大広間を行く。
大神殿長の証である濃紺の長衣に、金糸で刺繍された濃紺の帯や帽子をかぶったソル大神殿長様と並ぶとどうしても地味だが、正装なので作法違反にはならないはずだ。
グラシアン聖神官は出自上、こういう席での盛装も用意できたはずだが、私同様、聖神官の正装で出席して、久々に顔を合わせた学院の友人達とセルバ地方での話に花を咲かせていた。
「さすがに宮殿の料理は違いますねぇ」
立食形式のダンスパーティーだったため、私は端からダンスを放棄して料理に舌鼓を打つ。
「少しは控えんか。せっかく向こうから興味を持って話かけてくださっているのだ、人脈を作るためにも、挨拶くらいせい」
と、ソル大神殿長様から小声でお説教をくりかえされるが、断固無視する。
普段、神殿で質素な献立に耐えているのだ。こういう時くらい、胃袋に羽目を外させたい。
『もう一人の聖女候補』に興味を持つお貴族様方が、ソル大神殿長様に次々「話をさせてほしい」と持ち掛けてくるが、私はそのすべてをお断りして、食事に集中するつもりでいた。
が、お断りできない相手から話しかけられてしまう。
「ヒルベルト殿下。こちらがソル聖神官です」
「ほう。これが真の聖女と名高い、もう一人の聖女候補か」
見るからに身分の高い中年男性に紹介されて、もっと身分の高そうな長身の青年が、私に歩み寄ってきた。
艶やかな黒髪に、獣を思わせる琥珀色の瞳。黒の上着は金糸でびっしりと刺しゅうされ、それが派手にも下品にも見えない、凄味のある美男子。
「イストリア皇国第三皇子ヒルベルト殿下であらせられる」
供の男が、そう紹介した。
少し前から、ノベーラに遊学に来ているそうだ。
私も皿を置き、腕を胸の前で交差させて頭を下げ、神官としての挨拶をする。
「顔をあげるがいい。噂の聖女候補に会えて光栄だ、アリシア・ソル聖神官」
「お初にお目にかかります、皇子殿下。アリシア・ソルです」
顔をあげると、皇子殿下はしげしげと私の顔を見た。
「噂通りのストロベリーブロンドに、緑の瞳。デラクルス嬢を銀の百合か冬の湖とするなら、アリシア嬢はさしずめ苺の妖精だな、愛らしい」
うっかり「へ?」とも「え?」ともつかない、変な声を漏らしてしまう。
ソル大神殿長様が息をきらせて駆けて来て、私を隠すように前に立った。
「お会いできて、光栄にございます、皇子殿下。ソル聖神官は、殿下の威厳と気品に、すっかり遠慮してしまったようで。なにぶん世間知らずゆえ、ご無礼、無作法は、ご容赦を」
ソル大神殿長様はぜえぜえと、深呼吸と愛想笑いをくりかえしながら「さあ、殿下に失礼がないうちに」と、私に退席をうながす。
だが殿下のほうから呼び止めてきた。
「せっかくの出会いだ。噂の聖女候補殿に一曲、相手を願いたい」
事態を見守っていた周囲の令嬢達から、甲高い悲鳴があがる。皇子殿下にダンスを申し込まれたのだ、ご一緒すれば一生ものの思い出、名誉、自慢の種となるのは間違いない。
しかし。
「たいへん光栄ですが、実は足を少々傷めておりまして。どうかダンスはご容赦ください」
私はもう一度、腕を交差させて一礼した。
本音は、王立学院に一日も通わず退学したため、上流の会話術はもちろん、ダンスのステップも作法もまったくわからなかったからだ(あとで、これを大神殿長様に明かしたら「だから少しでも通ったらどうだ、と提案したのだ」と、お小言をもらった)。
ソル大神殿長様もすかさず同調し、殿下も(少なくとも表面上は)気を悪くした様子はなく「では、また」と短く述べて、他の招待客と行ってしまう。
ソル大神殿長様が、どっと息を吐き出して大きく肩を落とした。
「ひやひやしたぞ…………そなたが何か殿下に失礼をしたら、と思うと」
心からの本音、という風の一言だったが、すぐに、がばっ、と顔をあげ、私の肩をつかまんばかりに問うてくる。
「大丈夫であろうな? 殿下を直に拝見して、よからぬ気などおこしておらぬだろうな!?」
「なんですか、よからぬ気、って」
「相手はイストリアの皇子殿下だ。まして殿下は『宮廷中の令嬢を虜にした』と言われる美男。もう一度訊くが、本当になにも、よからぬ気は起こしておらぬのだな!?」
「起こしてません、ってば」
私は呆れて、ソル大神殿長様の心配を一蹴する。
たしかに、ヒルベルト殿下は美形だった。野性味と色気を同居させた美貌で、あの琥珀色の瞳に見つめられてくらくらする女は山ほどいるだろう。
ただ、私は美男子には多少の免疫というか、耐性がついている。
レオポルド公太子もグラシアン聖神官もバルベルデ卿もタルラゴ卿も、程度に差はあれ整った顔立ちだし、なによりも。
(ビブロスが一等、飛び抜けているもの)
無愛想だし口も悪めだし、会えば「返済」「返済」と、うるさいけれど。
私にとっての美形は、ただ一人だった。
その後、私はルイス卿と数日ぶりの再会を果たし、挨拶をかわす。
さらに廊下に見覚えある顔を見つけ、大広間を出た。
「すっかり人気者ね。どう? 子供の頃からの念願の『有名人』の夢を叶えた気分は?」
女官姿の、情熱的な黒髪の美女が茶目っ気たっぷりに片目をつぶる。
神殿の元見習い仲間、ラウラだった。
「元気そうね、ラウラ。ここに来ていいの? 仕事は?」
「大公妃殿下も宴に出席中だもの。私は、まだ大広間には入れないから、お戻りになられるまで、おしゃべりするくらいの余裕はあるわ。むしろ『アリシア・ソルって、どんな方?』と聞かれた時のために、情報を仕入れに来たのよ」
王立学院に通っていたラウラは、優れた成績と容姿がとある伯爵夫人の目にとまって宮仕えに推薦され、今は末端だが大公妃付きの女官に抜擢されている。もともと人目を引く美人だったが、宮殿勤めでさらに洗練され、まさに大輪の花が咲き誇るかのようだ。
私達は人気のない廊下の隅で、互いの近況報告に花を咲かせた。
私がセルバ地方での話をすると、ラウラはヒルベルト殿下について教えてくれる。
「あなたと入れ違いでノベーラに来られたの。未婚の令嬢達はもちろん、女官やご夫人達もずっと大騒ぎで。宴が終われば帰国よ、今回の宴は壮行会も兼ねているの」
「残念ね」とラウラは言ったが、私は特に気にならない。
「対外的には、遊学ということになっているけれど。まあ、実質的には牽制よね。衰えたとはいえ、イストリア皇国はまだまだ油断ならない大国で、なにかにつけてノベーラを属国扱いしてくるし。第三皇子を送り込むことで、ノベーラがおかしな動きをしていないか『見張っているぞ』と圧力をかけてきている、ってわけ」
「クエントとの国境線問題が片付いたと思ったら…………一難去って、また一難ね」
ため息をつきつつ、私は考える。
この世界は、マンガの中の世界らしい。詳細は思い出せないままだが、悪役令嬢を主人公とする物語らしい以上、『格上の国から来た王子』は高確率で「婚約者やゲームのヒロインに断罪されそうになった悪役令嬢を救って結ばれる」真のヒーローだ。
ということは、あのヒルベルト皇子がデラクルス嬢と最終的には結ばれるのだろうか。
たしかにマンガの表紙やカラーページも、ヒーローらしきキャラクターは黒髪だったと思うし、ノベーラ公太子に報復するなら、イストリア皇子はじゅうぶん強い立場だ。
(でも、デラクルス嬢はレオポルド公太子と相思相愛みたいだけど…………?)
彼女が私を敵視するのも、そこが一因かもしれない。デラクルス嬢がレオポルド殿下を本気で愛したなら、彼に愛される予定のゲームヒロインは脅威以外の何者でもない。
むしろ、ゲームヒロインが計画する悪役令嬢断罪こそ、たいした悩みではないはずだ。ヒルベルト殿下が助けてくれると、わかっているのだから。
(でも…………デラクルス嬢がレオポルド公太子と結婚した場合、未来はどうなるの? 私の断罪はなくなるの?)
悩む私に、ラウラはどんどん、私がいない間の公都と宮殿の出来事を語ってくれる。
「公都は、あなたがいなくなったおかげで、ありがたみを思い知らされた人達が圧倒的ね。なにしろデラクルス嬢の癒しときたら、秘密の温室の秘密の一輪のごとく。原っぱに行けば、いくらでも咲いている野の花のほうがありがたいと、ようやく思い知ったらしいわ」
「私は野の花、ってこと? ――――噂で聞いたわ。週に一回、三人しか癒さない、って。なにか理由があるの?」
「体力がもたない、とは聞くけど。真相は不明よ。仮に事実でも、それならなおさら、たくましい雑草のほうが使い勝手がいいんでしょう」
「野の花の次は、雑草? ――――本当に体がつらいなら、無理は禁物だと思うけど。…………デラクルス公爵や公太子殿下は、もっと回数を増やすよう、せっついたりしないの? 聖女になるための宣伝工作なら、積極的に聖魔力を見せていくべきだと思うんだけれど」
「高位の貴族達さえおさえておけばいい、と考えているんでしょうね。有力貴族なら聖神官も頼れるし、デラクルス嬢にも優先して癒してもらえるから、令嬢の癒しが少なくても支障ないのよ。なにより、大公陛下を癒した実績があるもの。陛下が疑わない以上、公然と疑義を唱える者はいないわ」
「なるほどね」
私は納得した。
こちらは身分社会だ。前世のニホンのような『ミンシュシュギ』の社会ではない。政治や選挙は、貴族や一部の富裕層のもの。そうでない平民の支持をいくら集めても、デラクルス公爵家やノベーラ大公家には真の意味での脅威にはなりえない。そういう考えなのだ。
(ということは…………『民の人気が上がりますよ』と言っても、癒しの回数を増やすことはなさそう?)
私は唸った。
ラウラはさらに補足する。
「令嬢自身、今日はあちらのパーティー、明日はこちらのパーティーと、忙しそうだもの。次期聖女ということで、引っ張りだこなのよ。それに、少し前にお店を開かれてね。公爵がとある菓子店を買いとって、そこで出すお菓子のレシピを、デラクルス嬢が次々考案しているんだけれど。目新しさと『ご利益がありそう』ってことで連日、貴族や富豪の使用人が行列を作って、宮殿でも貴婦人達の話題はそこのお菓子で持ちきり。『デラクルス嬢は発想が豊かで商才がある』と貴族の間では評判だけれど、庶民にはこれも評判悪いわ」
「どうして?」
「ただでさえ、去年の秋は麦が不作で値上がりしているところに、小麦粉を使った菓子を毎日大量に焼いているわけでしょう? 『自分達がパンを買えないのは、デラクルス嬢のせいだ』って、怒っているのよ」
初耳だった。
「本当に、そのお店のせいなの?」
「まさか」
ラウラの答えは明快だった。
「いくら繫盛しているといっても、たかが店舗一つで公都中の小麦が不足するほど、売り上げは伸びないわ。そもそもあの店の使う麦は最高級品で、質の悪い麦を用いる庶民向けのパンの生産には無関係よ。ただ、毎日大量の麦が運び込まれるのを目撃すれば、そんな勘繰りもしてしまう、というだけのこと。要は、それだけ令嬢の評判が悪い、ということね」
「…………っ」
「ああ、でも。一つ、特に問題なく良いことをしているわね」
ラウラは人差し指を立てた。
「令嬢の名で、図書館を建てるそうよ。今、方々から珍しい書物を集めているんですって」
「図書館…………」
引っかかるものがあった。
私にとって『図書館』といえば、あの白髪黒眼の魔王だ。
デラクルス嬢が今の時期に図書館を建てる。これは偶然だろうか。
(とてもそうは思えない。そもそもデラクルス嬢の従者は――――)
噂をすれば影。
私が嫌な予感を覚えた、まさにその時、その姿が視界に入った。
廊下の奥からこちらを見つめる、お仕着せ姿の黒髪の青年。
「なに? どうしたの?」
「ラウラ、ソル大神殿長様に知らせて! アベル・マルケスと言えば、わかるから!!」
「アベル? って、デラクルス嬢の侍従の…………? え? アリシア!?」
私は駆け出していた。
あの男がまた、ここで騒ぎを起こすつもりなら、防ぎたい。
(あ、でも、また私の命を狙っている可能性も――――)
ルイス卿についてきてもらえばよかった、と、先ほど大広間で再会した顔を思い出す。
私の走る速度が落ちると同時に、こちらに近づいてくる人影があった。
アベル・マルケスか、と身構えたが、ふんだんに灯りのともる優雅な廊下に現れたのは、長身の凛々しい金髪の青年。
「公太子殿下」
レオポルド公太子だった。
私は別な意味で緊張する。
「アリシア・ソル、か――――?」
紫の目もこちらに気づいて細められる。
(どうしよう)
私は戸惑った。はっきり言って、顔を合わせて嬉しい相手ではない。
だが。
「殿下? 具合が悪いのですか?」
レオポルド公太子の足取りが危うい。なんとなく、ふらふらして見える。
「あの、殿下? どこか痛みますか? 私の声が聞こえておられますか?」
聖神官の職業病、つい訊ねてしまうが、公太子からの返事はない。
「――――…………っ」
レオポルド殿下は、しばらく言葉を失ったように立ち尽くし、私を凝視していた。
が、ふいに口を開く。陶然と。
「なんて…………なんと愛らしい」
「は?」
「君が、こんなにも清く可憐な女性だったなんて。今まで私は、君のなにを見ていたのだろう。君はこんなにも魅力にあふれた、稀有な少女だというのに」
「はあ?」
私は聞き間違えたかと思った。
けれど公太子殿下は紫水晶の瞳を熱く潤ませ、大股で私に歩み寄ってくる。
私は思わず後退していた。
「殿下? あの、お待ちください。なにか誤解が――――」
「殿下などと、よそよそしい。どうか、レオポルドと呼んでくれ」
「そんな、恐れ多い」
「私が呼ばれたいのだ、愛しい君。君の前では、私はいつでも一人の男でありたい」
(どういう展開!?)
私の脳内を疑問符が満たし、一時、アベル・マルケスの件も吹き飛ぶ。
そこへ複数の足音を引き連れ、ラウラが駆けつけた。
「アリシア! 大丈夫!?」
「いかがされました、アリシア様!!」
「何事ですか、ソル聖神官!」
ルイス卿やグラシアン聖神官、やや遅れて息をきらせたソル大神殿長様もつづく。
悪いことは重なるもので。
「まあ、レオ様。こんなところにいらしたのですね」
廊下に響く、しとやかで優雅な声。
「大公陛下がお探しでしたわ、レオ様。そろそろ広間にお戻りくださいませ」
デラクルス嬢だった。今宵も聖女を思わす、紫と銀を差し色に用いた純白のドレス姿で、黒髪の青年を連れていたので一瞬、身構えたが、アベル・マルケスではなく、イストリアの皇子殿下のほうだ。
「さあ、レオ様」
デラクルス嬢のパーティー用の手袋をはめた手が、レオポルド殿下の腕に触れる。
それを殿下は拒んだ。
「邪魔をしないでくれ、ティナ。私はアリシア嬢と話しているんだ」
「レオ様?」
デラクルス嬢は怪訝そうに眉根を寄せたし、駆けつけた他の者達も同じ反応を見せる。
だがレオポルド殿下は止まらなかった。舞台の上の役者のように堂々と語る。
「今、私は完璧に運命を悟った。このアリシア・ソル嬢こそ、私の本物の運命の妃。貴女とは偽り、勘違いだったのだ、ティナ。いや、デラクルス嬢。私が真に結ばれるべきは、アリシア嬢だ!!」
「えっ…………」
「はあ!?」
「殿下!?」
デラクルス嬢が戸惑い、私やソル大神殿長達が仰天する。




