34.アリシア
さらに二日が過ぎる。
「あの図書館長は、本当に何者だ。叶うなら、一度あの男の図書館に、ひと月くらい籠ってみたい」
野営地の人気のない天幕と天幕の間で。
真剣なまなざしで私にそう語るバルベルデ卿は、図書館の魔王ビブロスと同じ蔵書狂の匂いをただよわせている。
ノベーラとクエント、双方の宮殿から派遣された熟練の文官の鑑定により、神殿の地下で発見された文書は、いよいよ本当に本物だと、疑いの余地が残りわずかに迫っていた。
「文書が本物と確定すれば、国境線にも決着がついて、戦争も終わりますよね?」
「さあ。まだ、なんとも」
バルベルデ卿は、しれっ、と言う。
文書を入手するきっかけが私だったため「義理として、本物と認められたかどうかくらいは報告する」そうだが、それ以上の情報は渡す気がないらしい。
今日も、伝えたい事柄を一方的に簡潔に伝えると、さっさと戻って行った。
あの文書は本物だ。私もそこは疑っていない。
けれどノベーラとクエント、両方の慎重さは、どちらからも折れることのできぬ頑固さのあらわれに見えて、不安がぬぐえない。
「早く本物と認められればいいのに…………」
それはもはや私一人の悩みでなく、百五十年間戦乱に悩まされ、苦しめられてきたセルバ地方に住む全員の願いであり、祈りだ。
「ノベーラもクエントも、本心では、これ以上戦いをつづけても益がないこと、承知のはず。互いに納得できる根拠と着地点さえ見つかれば、停戦を選びたいと思っているでしょう」
ルイス卿にそうなだめられながら、私は頭と気分を切り替えて癒しの場へ向かった。
その日の夜。
「火事だ――――!!」
天幕の外からかすかに届いた悲鳴に、まずルイス卿が跳ね起きた。
即、隣の寝台で寝ていた私を叩き起こす。
「お目覚めください、アリシア様! 火事です!!」
私も一瞬で覚醒状態に至る。
「火事!? この天幕が燃えているの!?」
「いえ、ここからは少し離れているようですが…………油断はできません。いつでも避難できるよう、服を着て荷物を持ってください」
指示するルイス卿はすでに剣と騎士服を身に着け、いつでも飛び出せる状態だ。
私も彼女に手伝われて、慌てて紫の長衣と白の神官服を着て、外套を羽織る。
「兵は大丈夫でしょうか? 火傷を負った人が多くいるのでは」
「可能性はありますが、今、現場に近づくのは危険です。消火の邪魔にもなります。支度だけ整え、待機しましょう」
念のため、すぐ逃げ出せるよう天幕の外に出る。
荷物も持った。着替えと日記と携帯用の小さな聖典と筆記用具なので、片手で事足りる。
ぱささ、とビブロスから預かった人の目には見えないトキが、私の外套のフードの中にもぐりこんだ。
見上げると、白っぽい天幕の屋根の向こう、黒く塗りつぶされた空の一部が赤く光っている。
私は知らず知らず、荷物を胸にぎゅっと抱いていた。
幼い頃に炎で家族を失って以来、大量の火は恐怖の対象であり、敵とすら感じる。
数ケ月前には炎の蛇を操る不審な男に襲われたのだから、なおさらだ。
「将軍とか宰相閣下とか…………貴人用の天幕の方向ですよね?」
私の問いに、ルイス卿も同じ方向をにらみながら、張り詰めた横顔で小さくうなずく。
「例の文書は大丈夫でしょうか? 万一これで焼失、なんてことになったら――――」
「ソル聖神官!!」
ノベーラ兵が一人、息せき切ってやって来た。
「癒しを…………! 消火にあたった兵の一部が、火傷を…………!!」
私はルイス卿と共に小走りで伝令兵を追う。
たどり着いたのは、今まさに燃え盛る天幕の前…………ではなく、離れた場所に応急で設えられた救護所だった。野営地の外の野原に数名の兵が松明や灯りを持って立ち、すでに四人の患者が座り込んでいる。いずれも服のどこかが燃え落ちて、その下から赤く腫れあがった皮膚がのぞいていた。
「ルイス卿は、患者の選別をお願いします」
「承知いたしました」
患者を重傷者と軽傷者に選別して、重傷者を優先して回してもらう。
私はさっそく癒しをはじめたが、癒している間にも一人、また一人と運ばれてくる。大半が火傷だ。
「火事は、そんなにひどいんでしょうか。消火は追いつくでしょうか。もしかして、これ以上に燃え広がったりは…………」
聖魔力を発現させつつも、つい、そばにいた灯りを掲げる兵士に訊ねてしまう。
「ご安心ください、ただいま兵が全力で消火にあたっております。じき鎮火するでしょう」
兵士の返事は前向きだったが、表情には不安や狼狽がにじんでいる。
私も、すぐそばに大量の火が燃えていると思うと、いつものように集中できない。
何度か頭をふり、
(今は、よけいなことは考えない! 患者は苦しんでいるのに!)
と、己を叱り飛ばす。
青白い魔力が発光しては消え、消えては発光して、十人以上癒した頃だった。
ひときわ重症の患者が、兵士に背負われて運び込まれてくる。
上半身はほぼ裸で、頭も髪が燃えてほとんど残っていない。背中は真っ赤で、血だか火傷によれる腫れだか、夜の灯りの下では判別つかないほどだった。
私は思わず「ひどい」と呻いてしまったし、ルイス卿や周囲の兵士達も息を呑んで、顔をそむける者もいる。
「しっかり。聞こえますか? 今、癒します。聞こえていますか?」
呼びかけるが、返答はない。
「この傷では、無理に横たえないほうがいいかもしれません」
私は判断した。
野原の中に用意された救護所は、ただ草を刈って拓いただけなので、下は地面のまま。怪我の状態を考慮すると、下手に横たえれば傷口に土や草や埃が付着してしまう可能性が高い。
「このまま癒します。もうしばらく、このままの体勢でお願いします」
私は怪我人を背負っている兵士に頼みながら、彼の背後にまわって、焼けて皮膚がめくれた患者の背中に対面する。癒しをはじめてそれなりの人数と経験をこなしてきたつもりだが、ここまで凄惨な状態は初めてかもしれない。
私は一瞬、気が遠くなったが、ルイス卿に支えられて癒しをはじめた。
特に集中して聖魔力を発現させる。
さすがに数秒で、というわけにはいかなかった。
それでも百を数える頃には、怪我人の表情はやわらいで顔にも血色が戻り、背中は新しい皮膚が再生して、傷全体が目立たなくなっている。
意識をとり戻した患者はきょろきょろ周囲を見渡して、自分の状況を理解すると、自分を背負ってくれていた兵士に声をかけ、恥ずかしそうに同僚の背中から降りた。
「聖女様のお力で救われました。ありがとうございます、ありがとうございます…………」
回復した兵士は跪き、神に祈りと感謝を捧げる格好になる。
「アンタも、すまなかった」と、ここまで背負ってくれた同僚をふりかえると、今度はその背負っていた兵士がぐらり、と体をかたむけ膝をついた。
「! あなたも、どこか怪我を!?」
私は駆け寄る。
膝をついた兵士が、顔をあげる。
耳もとで突如、激しい羽音と羽ばたきが起きて、外套のフードの中にいたトキが飛び立つ。
「っ!? 風…………!?」
トキが兵士の顔に襲いかかり、兵士は腕で目をかばって、その手をトキにひっかかれ、はずみで灯りにきらめく物が地面に落ちる。
「! お下がりください、アリシア様!!」
ルイス卿の反応は早かった。
手の中に隠れるほど小さな短剣が転がるのと、ほぼ同時に飛び出して、私を突き飛ばすように兵士から離し、自分は短剣を落とした兵士へと剣を抜く。
「何者!?」
「この…………!!」
兵士はかろうじてルイス卿の一閃をかわすが、ルイス卿は細身の剣を立てつづけに突き出して、相手に反撃の隙を与えない。
「曲者だ!! ソル聖神官、こちらへ!!」
周囲にいた灯り持ちの兵や、火傷が癒えたばかりの兵が、いっせいに私をとり囲む。
「くそっ!」
曲者が叫ぶ。
(この声…………?)
ルイス卿の猛攻を受けていた曲者が一瞬の隙をついて、自身の腕をルイス卿へ突き出す。
「危ない!!」
私は反射的に叫んでいた。
と、同時に、曲者の袖から赤黒く燃える小さな蛇が飛び出して、ルイス卿の顔へと飛ぶ。
その蛇が一瞬照らした、曲者の若々しい顔立ちに、私は見覚えがあった。
(アベル・マルケス――――!?)
ルイス卿は飛びかかってきた炎の蛇を、とっさに剣の腹で叩くように払う。
その隙を狙って、アベル・マルケスは頭を低くし、ルイス卿の腹部に体当たりした。
「うぐ…………っ」
ルイス卿の呻き声がもれる。
「ルイス卿!!」
「その曲者を捕らえろ!!」
兵士の誰かが怒鳴り、何人かが曲者を囲もうとしたものの、アベルは蛇のように柔軟な動きで兵士達の手を逃れ、夜の闇に沈んだ野原の奥へと走り去る。
「追え! 逃がすな!!」
「将軍閣下に報告を!!」
兵士達が叫び、私は倒れたルイス卿に駆け寄った。
「ルイス卿!!」
ルイス卿の腹に、小さな短剣が根本まで深々と突き刺さっている。
「しっかりしてください、ルイス卿! 今、癒します!! 誰か、剣を――――」
「申し訳ございません…………アリシア様…………曲者が…………」
「気にしないでください、今は怪我を治すのが先決です」
剣を抜こうとする兵士の手を止め、ルイス卿は苦しそうに報告した。
「箱を…………アリシア様から預かった、真珠を奪われてしまいました…………」
「真珠?」
クエント侯子から下賜された、淡紅色の真珠。
それを、刺された時に懐から抜きとられた、と言う。
「申し訳ございません…………」
「気にしないで」と、私はルイス卿を慰めた。
「盗られたのは残念ですけれど、ルイス卿がとりかえしのつかない事態になるよりは、ずっといいです。兵も追っているし、すぐに見つかりますよ。それより癒しです。誰か、ルイス卿の短剣を抜いてください」
「本当に、申し訳、ございません…………」
兵士の一人がルイス卿の腹から刃を抜き、ルイス卿は短く呻く。
鮮血があふれ出し、私はすぐに聖魔力を発現させた。
青白い水のような光が、ルイス卿の腹部に注がれる。
傷が癒えるとルイス卿は、こちらがいたたまれなくなるほど深く頭を垂れて謝罪をくりかえし、私は慌てて彼女に頭をあげさせて、ふたたび運び込まれてくる兵士達の癒しに戻ったが、心の隅には濃い不安と疑いの霧が生まれていた。
(なんで、あの真珠を…………?)
アベル・マルケスはデラクルス嬢の侍従と聞いている。デラクルス嬢なら、真珠くらい、盗まなくてもいくらでも手に入るはずだ。
そもそも公都のデラクルス公爵邸にいるはずの彼が、何故こんな所にいるのか。
(目的は…………たぶん、私の暗殺よね。この火事も、おそらくはあの人が…………)
アベル・マルケスが炎の蛇を操る魔術師であることは、私が身をもって知っている。私に怪しまれずに近づくため、自分が逃げやすくするため、わざと火をつけたのだろう。
(たぶん、ここまで来たのも、またビブロスが…………」
魔王である彼の力で、公都からここまで一瞬で移動したに違いない。
旧神殿で襲われた時のことを思い出し、暗い気分になった。
が、小さなトキが私の肩にとまって、存在を主張するかのように、すりすり頬を寄せてくる。
(そういえば、襲われかけた時、この子が助けてくれたんだ)
アベルに近づこうとした私をさえぎるように彼の前に飛び出し、攻撃したのだ。
と、いうことは。
(かばってくれた…………私を死なす気はない、という意味?)
たんに「返済が済んでいないのに死なれたら、大赤字なんだよ」というだけかもしれないけれど。
「…………ありがとう」
私はひそひそ、肩のトキにささやいた。
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「早く火を消せ! 水を持ってこい!!」
怒鳴る兵士の横から、ニコラス・バルベルデは指示を訂正する。
「井戸は遠い! 砂をかけろ!! 土でもいい!!」
怒鳴りつつ、自身も一般兵に混じって桶をつかみ、砂を運んだ。
燃えているのは、貴人用の天幕。
あそこには幾人もの兵士に守られて、例の国境線の記録とセルバ城伯の誓約書が、今夜も厳重に保管されているはずだ。
あれが焼失しては、二国の未来と歴史を左右する大損害となる。
大勢の焦慮とは裏腹に火勢はどんどん強くなり、周囲も明るくなって集まる兵の数も増えていく。ノベーラとクエント、両国の兵が国籍の区別なく消火に駆けずり回る。
桶を手に、何度目かの往復を終えた時。
ニコラスは視界の端に違和感を覚えた。
駆け回る兵士達の中に、一人だけ。奇妙に落ち着いた足取りの、黒っぽい髪の若者が、騒ぎの場から離れていく。その見覚えある横顔。
(アベル・マルケス…………?)
ニコラスは思わず足を止め、眼鏡を直す。
しかし懇意にしている公爵令嬢お気に入りの侍従の姿は、どこにも見当たらなかった。
(まさかな。ここはセルバだ。あのアベルが、デラクルス嬢から離れるとは思えない)
ニコラスは頭を一つふって、そう結論を下すと、ふたたび桶を手に消火活動に戻った。




