32.アリシア
その後。ノベーラとクエント両軍の、この地での予定外の野営が決定した。
万一の破損や紛失、盗難、偽造などの防止のため、例の文書はどちらか片方だけが預かるというわけにはいかず「双方で保管しよう」という話になったからである。
私もここに待機することとなった。
季節は冬。怪我人も心配だが、それ以上に風邪や感染症の懸念がある。
野営地は、両軍合わせて数百人の人間が密集して生活を共にする以上、いったん流行すれば爆発的に広がるのは目に見えていた。
私とルイス卿には、小さいが二人用の天幕が用意される。
翌日から、野営地はなんとなく気忙しい雰囲気がただよった。
ノベーラ、クエント双方が朝一番で自国の宮殿へ早馬を飛ばし、人払いした天幕でそれぞれの総大将が書記官を交えて一日中、例の文書の解読にとりかかっているかと思えば、何度も手紙と使者を派遣して、それぞれの首都からも身分の高そうな使者が早馬で駆けてくる。食事も天幕に運ばせているそうだ。
兵士の間にも、昨日まで敵対していた者同士、緊張と不安で張りつめながらも同時に「このまま停戦に持ち込まれるかも」という明るい期待も混じり、野営地全体が落ち着かない空気におおわれている。
私はというと、相変わらず癒しを行っていた。
野営作業の最中に転んだり、物を落としたりして怪我したノベーラ兵はむろん、クエント側にも「怪我人が出た」と聞けば駆けつける。
さらに翌日になると、噂を聞きつけた周辺の村や町からも患者がやってきて行列を作り、私は兵士よりそちらの癒しで忙しくなったほどだった。
ノベーラ側の村人はともかく、クエント側の患者を癒すことについては、相変わらず良く思わないタルラゴ卿のような人達もいたが、私は知らん顔で求められるままに癒しつづける。
その次の日になると前日以上に列が伸びていたけれど、患者に混じってちらほら「昨日のお礼です」と、他愛ない品――――少々の銀貨や、籠や麻袋いっぱいの野菜や卵、肉、魚、薪や炭の束、それに山ほどの花を持参してくる人達もいた。
花は自分達の天幕に飾ることにして、食料や燃料は料理番に持って行ってもらう。兵士全体の数と比較すれば微々たる量なので全員に行き渡ることはないが、ないよりマシだし、こういうのは気持ちだ。
「そういえば」と、外套を羽織り直しながら私は気づいた。
「忙しさにまぎれて、すっかり失念していましたけど。来月は、もう新年ですよね? 公都ならそろそろ雪が降りはじめる頃ですけれど、セルバ地方は雪が降らないんですか? 公都より南だからでしょうか? 寒いは寒いですけれど、公都より暖かいですよね?」
「いやあ、降らないわけじゃないんですよ。でも、公都よりは遅いですね。年が明けるともっと寒くなって、それから降りはじめます」
私の質問に、この地出身だという兵士が教えてくれる。
最近は、こんな他愛ない会話をかわせる程度には、兵士達とも打ち解けている。
私がお礼にもらった冬キャベツを詰めた麻袋を料理番のもとへ運んでくれるよう頼むと、嬉しそうに麻袋を背負って行った。
「いやあ、癒しができるうえ、食べ物まで調達してくれるなんて、聖女様さまだ」
「今年は麦の出来が良くなかったしな。食べられる物が少しでも増えるのは、ありがたい。キャベツは酢漬けや塩漬けにできるしな」
兵士達はうなずき合って運んでいく。
「食料かぁ」と私は呟いた。
私とルイス卿は、貴重な聖神官と貴族の騎士という理由で多少の特別扱いをされており、食事は毎回それなりに良いものが、そこそこの量で出てくる。
だが先日ちらりと見た末端の兵士達は、お粗末なものだった。
「せめて肉や野菜をもっと摂るとか、パンの量だけでも増やさないと、いくら怪我や風邪を癒しても、餓死者や凍死者が出てしまいます。公都から、もっと食料や軍資金が送られてくればいいのに…………」
「こればかりは、我々の一存では。そもそも資金が潤沢な戦のほうが珍しいものです」
ルイス卿とため息をつき合うと、お互いの息が白く染まって散る。
この間にも、使者と早馬が野営地とそれぞれの宮殿を行ったり来たりしており、文書発見から四日目の昼、野営地はとびきり高位の客を迎えた。
ノベーラとクエント、両国の宰相閣下である。
ノベーラ大公とクエント侯は、どちらも例の記録と誓約書について、もっとも速い早馬で報告をうけ、その内容に二重三重に仰天し、慌てて大臣を招集して朝から晩まで会議をくりかえして、合間に何度も確認の使者や早馬を送った末に、互いに自国の宰相を己の代理人に立てて、問題の文書が保管されている野営地へと派遣したのである。
さらに両国の宮殿からは、発見された文書の鑑定のために古文書に詳しい熟練の文官も数名ずつ派遣され、もともとそれなりに大所帯だった野営地は、それぞれの宰相が引き連れてきた兵により、さらに大所帯となる。
そして私も思わぬ再会を果たした。
「イサークとソル大神殿長から手紙を預かってきた」
封蝋が押された封筒を差し出したのは、鉛色の髪に眼鏡をかけた、理知的な顔立ちの青年。
宰相閣下のご子息ニコラス・バルベルデ卿だった。
父君に同行してこの地に来たそうだが道中、ブルカンの街に立ち寄った際、グラシアン聖神官から彼自身と、ちょうど公都から届いていたソル大神殿長様の手紙を託されたのだと言う。
正直、会ったからといって特に嬉しくはない相手だが、手紙が届くのは嬉しい。
特にグラシアン聖神官からは初めてなので、感激もひとしおだった。
「ブルカンの神殿は、さしあたって落ち着いているようだ。イサークは並みの聖神官より聖魔力が強い。神殿を訪れる患者も無理なくさばいているようだ」
「よかった。グラシアン聖神官がいれば、ブルカンの街の人達も安心ですね」
私は二通の手紙を受けとると、その場でグラシアン聖神官の手紙を開けてみた。はじめて見る彼の字は教本のように正確で、本人の生真面目な性格を反映するかのようだ。
「――――おっしゃるとおり、ブルカンの患者については心配ないようです。…………向こうにも、もう国境線の記録が発見された件が、伝わっているそうです。街はその噂で持ちきりとか。みな、国境線の問題が片付いて、戦がなくなることを期待している…………と、あります」
人の集まる場所には需要が生まれる。需要が生まれれば供給も生まれる。
野営地にも兵士相手の行商などが出入りしており、彼らの口を通して、ブルカンの街まで話が伝わったのだろう。今頃は、さらに先まで広まっているはずだ。本当に、人の口に戸は立てられないのである。
「あとは、神殿でも冬支度を急いでいるとか…………あ」
私はグラシアン聖神官の署名の下に記された『追伸』の文字と文章に気づく。
『先日の図書館長は「日記の他に書簡も受け付ける」と言っていましたよね? 必要なら、私のこの手紙も返済に回してけっこうです。私は貴女ほど著名な人間ではないので、たいしたお役には立てないでしょうが』
「…………」
気遣われてしまった…………。
私が手紙を封筒に戻すのを見計らって、バルベルデ卿が声をひそめて確認してくる。
「例の記録の発見についてだが、やはり例の図書館長の仕業か?」
私はあえてなにも言わず、ただ小さくうなずく。
バルベルデ卿も「そうか」とだけ返して追究しようとはせず、そのまま去って行った。
私も頭を切り替え、午後の癒しに向かうため、二通の手紙を腰の小物入れの袋にしまう。
「ソル大神殿長様からのお手紙は開けないのですか?」
と、ルイス卿。
「どうせ『ちゃんと毎日お祈りをしているか』とか『聖典の朗読をサボっていないか』とか、お小言が並んでいるに決まっているから、あとでいいです」
実際、あとで開けたらそのとおりだった。
ただ、例のクエント兵捕虜を癒してタルラゴ卿達と衝突した件は、ソル大神殿長様にも伝わっているようで「兵士の集まる砦で高位の兵士に喧嘩を売るな、なにかあったらどうする」と注意されつつ「でも聖神官の役目を果たしたことは偉い」と、お褒めの言葉もいただいた。
患者のもとに向かうと、行列はもう何十人という長さになっており、待っている患者やその付き添い相手に、飲み物や小さなパン、野菜や小魚の串焼きなどを売る行商まで集まるようになっている。
お礼を持ってくる人も増えて、今日はまた花を贈られた。
「うちは畑の他に、売る用の花も育てていて。これは今年はじめて育てた品種で、この株は、秋に植えて咲いた最後の花です」
そう言って差し出されたのは、土を詰めた麻袋から伸びた緑の葉だった。紫色の小さめの花をいくつかつけており、黄色い雄蕊だか雌蕊だかがけっこう大きいのが特徴的だ。
「最近クエントで流行している、異国の花です。ぜひ、聖女様に」
いつの間にか、クエントの村人にまで『聖女』呼ばわりされている。
クエントは南が海で良質の港を複数抱えているため、舶来品が多く入ってくるのだそうだ。私は麻袋を受けとり、その可憐な花をしげしげ見つめた。
「可愛い花ですね。たしかに、ノベーラでは見た記憶がありません。花の名前は?」
「特になにも。海の向こうの異国の花なので『異国の紫の花』と」
そのままだ。
「ですが、愛らしい花です。アリシア様の聖神官の長衣も紫ですし、これもなにかの縁では?」
ルイス卿が、花を持って来てくれた農家のおかみさんと笑い合う。
「花はきれいなんですが、種がね。まあ、不格好で。異国の花ですから、聖典にも載ってないでしょう? 神官様達の間では、不格好すぎて『悪魔の芋』なんて呼ばれてたりするんですよ」
農婦は花が咲いている株を植えているのとは別の、小さめの麻袋を置いて「こっちが種です」と、ひろげて見せてくれる。不格好で大きな『悪魔の芋』が姿を現す。
「育てるのは簡単ですから。寒さにも強いし、春と秋、二回も植えられますし、植えてしまえば、あとは少しくらい放置しても勝手に伸びて増えます。どうぞ、ノベーラにお持ち帰りください。そこの女騎士様の言うとおり、紫なのもなにかの縁でしょう」
赤ん坊の拳ほどの大きさの種。たしかにいびつで不格好で、美しさには程遠い姿だ。が。
見覚えあるその形に、私は思わず指さして叫ばずにはいられなかった。
「じゃがいも――――っ!!」
 




