27.アリシア
捕虜の件があってから。あれほどしつこく私にまとわりついていたタルラゴ卿は、一転して私を無視するようになった。
ルイス卿はその変わり身の早さに怒ってもいたが、私はおおいに気が楽になる。
折しもクエント側から捕虜交換の申し出があり、私が癒したクエントの捕虜達はすでに亡くなった仲間の遺髪を持って、全員自軍へ戻った。
代わりに、クエント側の捕虜となっていたノベーラ兵が戻ってくる。
幸いなことに、砦に帰還したノベーラ兵達は拷問などは受けておらず、むしろあちらの責任者の意向で、医師のきちんとした手当をうけていた。
ただ、今の医学の範囲内での治療、つまり薬草や包帯による治療なので、まだ全快したとは言い難い。
私とグラシアン聖神官は手分けして、速攻で彼らを癒した。
ちなみに、グラシアン聖神官はまだ砦にいる。本人としてはブルカンの神殿が心配なので早く帰りたいようだが、あれだけ激しい口論を見てしまったため、タルラゴ卿についての判断を迷っていた矢先に、捕虜交換が行われたのだ。
さらに最近は「この砦に聖神官がいる」と噂が広まって、近隣の村や町からも怪我人や病人が連れて来られて、ちょっとした行列を作るようにすらなっている。
私もグラシアン聖神官も彼らの対応に追われて、気づけばグラシアン聖神官は帰るタイミングを失いっぱなしだった。
砦は敵軍の捕虜となっていた仲間が戻ってきて怪我も全快し、ちょっとした休息感や安堵感がただよって、明るい。
「このまま、停戦になったりはしないんでしょうか?」
私が訊ねると、ルイス卿は首をかしげて唸る。
「なんといっても、国境線の問題が片付いておりませんので。根本的な解決がなされていない以上、火種は残りつづけるでしょう」
また、いつ戦いが起きるかわからない、ということだ。
「ノベーラとクエント、双方の話し合いで解決することはできないんでしょうか?」
「難しいと思います。不毛の土地ならまだしも、それなりに肥沃な土地ですし。面子の問題もあります。双方が納得する解決法は少ないのではないかと。それこそ、百五十年前に不明になった国境線について、両国のどちらも反論できないような、正確で正式な記録が発見されでもしないかぎり」
「記録…………」
ひっかかる単語だった。
夕方。私は「疲れたので一休みしたい」とルイス卿に頼んで、部屋に一人にしてもらう。
そして記録にこだわる魔王の名を呼んだ。
「対価の支払いかい?」
図書館の魔王ビブロスは現れるなり問うてくる。
「それは、いったん置いて。訊きたいことがあるの。あなた、記録も受けつけるのよね?」
「解読可能な文字や数字で記されていればね」
「あなたが受けとった記録は、たとえば私が『見たい』と言ったら、見せてもらえるの?」
「相応の対価を払うなら、問題ないよ。もともとそれが僕の仕事の一環だし」
「あなたの仕事って?」
「言ったろ。図書館の主なんだよ、僕は。記録の保持と閲覧も仕事の一つだ」
魔王を名乗るわりに仕事人だ。しかし。
「それなら、セルバ地方に関する記録はある? えっと、ノベーラとクエントの国境線に関する記録が欲しいの。セリャド火山が噴火する前の、正確な国境線がわかるようなものが」
「それならこれだね」
駄目もとで訊ねた質問に、あまりにもあっさり答えが返ってくる。
小さなトキを肩に乗せた魔王の手の上に、紙の束が現れた。
「百五十年前のセリャド火山噴火の際、当時のブルカン城伯からうけとった、セルバ地方全域の所有権及び国境線に関する記録と権利書のすべてだ」
「ん?」と私は首をかしげる。
「ちゃんと正式に作成された公文書だ。印章もこのとおり」
いや、聞き間違いではない。
私は声を荒げていた。
「なんっで…………そんな物があるなら、どうして、もっと早く出してくれないの!?」
もし、これがもっと早く公になっていれば。この戦いだって、もっと早く終わった。いや、そもそも戦う必要がなくて、戦って死ぬ人もいなかったかもしれないのに!!
「頼まれなかったからね」
私の本気の怒りなど、どこ吹く風。魔王の主張はどこまでも冷厳だった。
「対価に応じて相応の書物や記録、ひいては知識や情報を提供する。それが僕、図書館の魔王ビブロスとしての在り様なんだよ。前にも言ったけれど、これは変えられないことだ」
「…………っ」
私は唇をかむ。
最近、少しは打ち解けた気になっていたけれど、こういう風に忘れた頃に、やはり人間とは違うのだと実感させられる。
私は深呼吸して気持ちを整えた。
今は怒ったり責めたりしている暇はない。それより。
「その記録、売ってもらえる? ノベーラやクエントの人達に見せてもいい?」
「対価を支払えば君のものだ。どう扱おうと、君の自由だよ。ただし」
魔王をとりまく空気が一気に冷える。
「君、払えるかい?」
冷然たる確認の言葉。
「二国間の紛争の原因になるほどの重要文書だ。等級は上の中。稀覯本か、同等の価値を有する重要書類や記録の類でなければ受けつけない。大量に流通している印刷本は不可。君一人の日記では足りないよ? というより君、そもそも八年前の対価も完済していないけれど、それでも取引するかい? 僕だって、いつまでも返済を待ったりはしないよ?」
「…………」
魔王の漆黒の瞳が氷壁の冷たさと威圧感をもって、私に迫る。なまじ顔立ちが整っているせいで、にらまれると迫力が凄まじい。直視できない。
気のせいか、魔王の肩の小さなトキまで半眼でこちらを見ていた。
私は提案を試みる。
「ぶ、分割払いは…………」
「今現在、八年前の支払いが分割だろ」
(たしかに!!)
「なにぶん、君は前科があるからね。君の支払い能力は信用していない。八年前の支払いが完済するまで、新規の高額取引はお断りだ。どうしてもというなら、せめて頭金として半額相当は払ってもらうよ」
「…………」
私は泣きたくなった。どうしてファンタジーな世界に転生して、魔王に取引を持ちかけるのに、借金とかローンの返済相談の雰囲気にならなければならないのだ。世の中、世知辛すぎる。
「魂とか人生を代償にするよりは、はるかに人道的だろ」
私の頭の中を読んだように魔王は言った。
いっそ「魂と引き換え」と言われたほうが悪魔との契約っぽいし、簡単で、高額取引も可能だったかもしれない。
「君一人の魂で、そこまで価値があると思うかい?」
「…………」
とんでもない言い草に、さすがにちょっと傷つく。
「とにかく、定められた支払いを完済するか、完済が見込めない限り、渡せないな。どうする?」
私は考えた。そして一つの可能性に思い至る。
「ひとまず、中身を確認することはできる? 苦労して対価を払ったあとで『役に立たない記録だった』というのは避けたいんだけれど」
「かまわないよ」
ふわり、と私の目の前に紙の束がただよってきた。
私は数枚をめくる。
そして絶望した。
(絶対に必要な情報だ…………!!)
法律や公文書方面の知識はうといけれど、その私から見ても、これがあるかないかでノベーラとクエントの話し合いの結果は大きく異なると思う。
「うー…………」
私は天を仰いだ。




