9.アリシア
『私は、あなたが好きなのに』
「えっ…………」
飛び出してきた言葉に驚いたのは、私のほうだった。
魔王は平然としている。
「なん…………」
(なんで?)と思った次の瞬間、自覚した。
この男性に存在を軽んじられて傷ついた、苦しかった理由。
昔、この男性から日記帳をもらって嬉しかったり、この男性が喜んでくれるなら、いくらでも日記をつけようと思った気持ち、その正体。
私はこの男性が好きだったんだ。
「えっ…………」
自覚したら、心の奥深くから熱いものが突きあげてきた。これが脳に届いたらとんでもないことになる。
でも届く前にへし折られた。
「子供は無理かな」
変わらぬ淡々とした口調でばっさり言い捨てると、魔王は一歩下がる。
「他に用がなければ、僕は帰るよ。返済は頼んだよ。できるだけ興味深い内容になるよう、努力してくれ」
旧神殿の時同様、黒い衣装をまとった姿がすうっ、と消えた。
「…………」
私はしばし呆然と、その場に立ち尽くしていたが。
「…………っ!」
ぼふっ、と、せまいベッドに突っ伏した。
羞恥が一気に脳内を駆け巡る。一人きりだけれど顔をあげられない。
告白したのは私だけれど、内心を知られたのは恥ずかしくてたまらなかった。
そして、あっさり断られたのも恥ずかしくて、埋まってしまいたい。
「…………なんで言ってしまったの…………っ」
『子供は無理かな』
まったく動揺のない声が冷たくて悲しくて苦しい。
(もうちょっと悩むとか戸惑うとか、断るにしても罪悪感をにじませるような、そういう余地があっても…………)
「~~~~っ」
涙がぼろぼろあふれて、枕に顔をうずめた。
アリシア・ソル。人生初告白。秒でお断り。
****
「トショカンって、なあに?」
「そこからか」
『図書館の魔王』ビブロスの眉間にうっすら、しわが寄る。
契約の成立により、私を助けたあと。
魔王は何度か私が引き取られた神殿を訪れていた。
女子専用とはいえ、れっきとした神殿に魔王が平然と顔を出して、周囲の女神官達も特に不審がらなかったのだから(むしろ彼の端正な顔立ちに喜びの声をあげていたのだから)、魔王がその気になれば、あの神殿は滅んでいたに違いないと、今になって思う。
彼が神殿を訪れていたのは助けた私を気遣って…………などではなく、借金返済の計画を立てるためだった。
私達は、男子の立ち入り厳禁の女子専用神殿で唯一男性との面会が許される、礼拝所の一般信者席に座って話し合う。
魔王は長い足を組み、難しい表情で私に確認してきた。
「無駄を承知で念のために訊くけれど。君、本なんて持っていないよね?」
「ご本。たくさんあるよ。あのね、この前みつけたの。あそこからあっち行って、こっちにまがってずーっとあるくとね、ご本がたくさんあるの。わたしは、このおへやに入っちゃダメ、って言われたけど、神官さまたちは入っていいのよ」
「それは、この神殿の図書室か書庫のことかな。そこの本は君の本じゃない。掟により、僕が受け取れるのは、契約相手本人が所有する書物か魔力だけだ。他人の本は対価としては認められない」
「どうして?」
「君の本じゃないからだよ」
「じゃあ、わたしのご本は、どこ?」
「僕も、それを知りたいんだよ」
魔王は白い前髪をかきあげ、頭痛めいた表情を浮かべた。
「君の両親と弟妹は焼死。つまり人間の法律上は、一家の財産はすべて君が相続することになる。が、家が丸ごと焼けた以上、その財産も焼失したとみていい。どこか別の場所に保管された物が存在する可能性も否定できないけれど、君がそれを知っている様子は――――」
「お母さん、お父さん…………」
「…………泣かないでくれるかな。子供の君が泣くと、成人の姿をしている僕が責められるか、非難の目で見られるんだよ」
えぐえぐ、涙をこぼしはじめた私の頭を、指の長い手がぎこちなくなでる。
私は目の前の黒い服にしがみつき、声をあげて泣きだした。
魔王はため息をつき、それでも引きはがしたりはせず、私が落ち着くまで頭や背中をなでてくれた。その手つきは優しかったけれど、すぐにもう一方の手で本を開いて、視線と意識はそちらに集中していたのを、ちゃんと知っている。
それでも魔王は忍耐強く私から情報を引き出し、どうやら私が間違いなくなんの財産も持っていないと確信すると、別の角度から返済計画を提案してきた。
「じゃあ、せめて日記をつけてくれるかな。対価代わりに」
「ニッキ? なあに?」
「その日あった出来事を記録したものだよ。ほら」
魔王は一冊の本を差し出した。簡素だが新品の、白紙のページがつづく本。
「これに日付と、その日に何をしたか、誰と会って何を話したか、一つ一つ書いていく」
「これを書いたら、タイカになるの?」
「そう。まあ、一部かな。今のところ君はただの一般人で、字が多少書けるようになっただけの子供だから。ないよりはマシ、程度のものだね」
魔王は私の手に日記帳を置いた。漆黒の瞳がはるかに背の低い私をみおろす。
あの頃から温かみを感じさせない瞳だったけれど、私は彼の黒曜石の瞳の奥が星空につづいているように見えて、見つめるのも見つめられるのも好きだった。
夜の空を見上げていると、彼に助けられたあの晩を思い出して、寂しさも心細さも将来の不安も孤独もいっとき鎮まった。
「早く色々書けるようになってくれるかな。ページが無くなったら、受けとりに来るよ」
そう言いながら私の頭をなでた時の魔王は、どんな気持ちだったのだろう。
単純に気長に待とうと思ったのか、もう自棄だったのか。
ただ、あの頃の私にそんな機微を察する鋭さはなかった。
ただただ、彼からきれいな本をもらえて、また彼に会えるということが嬉しくて待ち遠しくてならなかった。
思えば、あの頃から私の気持ちは一直線に、ただ一つの方向に向かっていた。
だからなのか、それとも単純に「このままではまずい」と思ったのか。
魔王は私の記憶を封じた。
私が彼に助けられたこと、彼と何度か会って話したこと、彼に日記をつけるよう言いつけられたこと。私がちゃんと食べているか、寝ているか、文字の勉強をしているか。将来の返済のためとはいえ、彼が気遣ってくれたこと。
彼が私のために、日記帳の表紙の裏に家族の名前を記しておいてくれたことも、すべて思い出さないように封じられてしまった。
「あいにく子供の判断力は信用していないんだ。僕が人間とは異なる力を用いて君を助けたこと、君がうっかり口をすべらせないとも限らないからね。君が状況を正しく理解して、人に話して良い事と悪い事の区別がつくようになるまで、僕のことは思い出さないように暗示をかけておくよ」
それが魔王の言い分だった。
「断っておくけれど、忘れるわけではないよ。忘れられたら、対価の支払いが滞って僕が赤字になる。しばらく思い出さなくなるだけだ。――――どうして泣くんだい?」
そりゃあ、泣くでしょう。
あの頃の私は本当にあなたが好きで、会いたくて会いたくて、家族を失った孤独や不安も、あなたといる時だけはやわらいでいたのだから、あなたを思い出せない、会えなくなると聞いて泣かないはずがない。
でもあの魔王は本当に、そんな女心とか子供の気持ちへの配慮とか理解とは無縁で。
気づけば私は、本当に彼のことをきれいさっぱり忘れていた。思い出さなくなっていた。
自分がどうやってあの晩、燃え盛る家から脱出したのか。日記帳を誰からもらって、表紙裏の字を誰が書いたのか。
なにも疑問に思わなくなっていた。
ただ日記を毎日つける習慣と「有名になる」という目標だけが残されて。
私は理由もわからず、その習慣と目標に従って成長したのだ。
旧神殿で再会を果たすまで。
****
「今は、就活が最優先で当然だ。君の将来に関わることだし、こちらの都合で君を困らせる意図はまったくない。ただ、就活が終わったら――――一度でいいから、きちんと話をさせてほしい。……………待っている」
「先輩――――」
突然の急ブレーキ音。
目と全身を射抜くような真っ白い光。
悲鳴と、一瞬感じた、全身を襲う強烈な衝撃。
暗転。
****
「夢…………」
私は目を覚ました。
視界に映るのは、聖神官見習い用のせまい個室の天井。私の部屋。
人生初の告白をお断りされてベッドに突っ伏していたら、いつの間にかふて寝してしまったらしい。
久々に見た前世の夢だった。
私はのっそり上体を起こす。
ここには激しい音も強い光もない。住み慣れた自室だ。
けれども額に触れると、冷汗をうっすらかいていた。
ベッドを降りて窓の木戸を開く。空の色が半分ほど染め変えられて、東側の街並みのむこうから金色の太陽が顔をのぞかせている。清涼な朝風に頬と髪をなでられていると冷汗が冷め、さっき見ていた夢の光景を反芻するゆとりと距離感が生まれていた。
あれは前世の光景だ、間違いない。だって、あんな形の車はこちらの世界には存在しない。
王立学院の入学式で前世を思い出して以来、時折、脈絡なく昔の記憶がよみがえってくる。が、自分の意思で引き出そうとすると、断片的な記憶がちらつくばかりで、肝心のマンガの詳細はまるで思い出せない。
ただ、別の世界で別の人間として生きた過去があったこと、この世界は、その時に読んだ物語の中の世界であること。この二点だけが、ゆるぎない確信となって私の中に芯のように屹立している。
(たぶん、前世は女性。それに学生。たぶん大学生。前世も平民っぽいのに、普通に大学まで通えていたなんて、『ニホン』はすごい。でも、それ以降は思い出せない。なんというか、若い頃の記憶にかたよっている気がする…………)
一番成長した記憶でも、二十歳を過ぎたかどうか。前世の自分がどんな職業に就いて、どんな相手と結婚して家庭を持ったのか、あるいは持たなかったのか。そのあたりはまったく思い出さない、思い出せない。
目を閉じると、闇によみがえるのは今朝見たばかりの夢。
「私…………若死にした…………?」
そう考えると、色々つじつまが合う。
思い出すのが、学生時代や子供時代に偏っている理由。大人になって以降の記憶がいっさいよみがえらない原因。
(たぶん、前世の私は学生――――二十歳くらいで死んだんだ。たぶん、事故――――あの『とらっく』に轢かれて――――…………)
強烈な白い光と衝撃を思い出し、思わず自分を抱く。
(あ、でも)と思い出した。
「あの『せんぱい』は、初めてかも」
顔はぼんやりして、よく思い出せなかった。けれど台詞はかなり明瞭だ。
『今は、就活が最優先で当然だ。君の将来に関わることだし、こちらの都合で君を困らせる意図はまったくない。ただ、就活が終わったら――――一度でいいから、きちんと話をさせてほしい。……………待っている』
(あれって…………たぶん、そういう意味だったのよね?)
おそらくあの『先輩』は、そういう意味で、私の就活が終わるのを待ってくれていた。
けれど私のほうが、その気持ちに応えられなかったのだ。
おそらくはあの『とらっく』のせいで。
「はあ…………」
私は窓枠に突っ伏した。
今生では、十六歳の今日までの大半が神殿育ちで、色恋沙汰はご法度。
初恋相手はよりにもよって魔王で、人生初の告白も瞬殺。
前世も、好意を寄せてくれていたらしい『先輩』からの告白を聞く前に、人生が終わってしまっていたようだ。
「私…………今生も前世も、恋人も夫もいなかったのかあ…………」
我ながら、もう少し色気を足して欲しい人生だった。
そ知らぬ顔で朝日が昇っていく。
数日後。ノベーラの南の国境地帯で、隣国との衝突が起きた知らせが公都に届く。
そのさらに半月後。ノベーラ大公陛下から、私に従軍の命令が下った。




