楽しい昼食会
魔王軍の追撃部隊を撃退し、パナケイア聖騎士団がこの戦争で最初の勝利を得た翌日。
戦闘後の偵察活動で付近に他の敵部隊が存在しないことを確認したエイルは、全騎士団員に丸一日の休養を与えた。
避難民を守っての過酷な撤退戦はひとまず終わりを告げ、魔王軍の追撃も撃退した。まだまだ楽観できる状況にはないが、一息ついてもいい。なにより一ヶ月に及ぶ敗走で騎士団全員の疲労は頂点に達していた。
みんなが午前中いっぱい泥のように眠った。柔らかいベッドできちんと休息を取るのは2ヶ月ぶりだった。エイルも正午まで夢も見ず眠り、従士長のラウラによってやさしく起こされた。
昼過ぎ、ベッドから発される甘美な誘惑をなんとか振り払って起床した騎士団員たちは久しぶりに全員揃って昼食をとることになる。
セプテム城の大食堂は温かい喧騒に満ちていた。騎士団員の表情は久しぶりに溌剌として、他愛もない雑談に興じている。魔王軍の侵攻が始まってからというもの、こんな時間を過ごすような余裕はなかったのだ。みんな、なんでもない会話をこれ程楽しく思うのは初めてだった。
千名の騎士、従士たちは各騎士隊ごとに別れ、それぞれ長テーブルに座る。全員が胸に赤い十字の縫い取りされた白地の騎士団制服を身にまとっている。これが戦闘時以外の騎士団員の平服だった。
騎士団員がある程度揃ってくると、厨房から次々と大皿料理が運ばれた。「清貧・博愛・奉仕」を誓願とするパナケイア聖騎士団だが、飲食に関しての「清貧」はかなりゆるい。騎士団の母体であるパナケイア女子修道会が大陸でも屈指の富裕な組織であること、騎士団に貴族出身者が多いこともあるが、一番の理由はまったく軍事的なもの。つまり食べないと体がもたないのだった。
騎士団は平時でも白パンと野菜料理、肉か魚のメイン料理が付くのが三食基本となっている。これは大陸内ではかなり上等な部類に入る食事だが、騎士団では団員のみならず運営する病院でも同様のものが無料で振る舞われる。パナケイア聖騎士団の病院で供される料理は味が良いことで有名で、入院者と騎士団員で違うのはその量だけだ(もちろん、病気により通常の食事が取れないものは個別に用意される)。
加えて今日は食事担当の修道女たちが腕によりをかけて料理した。
たっぷりの野菜が入ったポトフ。ローズマリーバターで香りをつけた豚肉のソテー。香辛料を効かせたカリフラワーと豆のトマト煮。チーズの盛り合わせ。そしてカリッと香ばしく焼き上げられた塩パン。身支度を終えてエイルが来たときの食堂には既にいい香りがいくつもただよっていた。
珈琲や紅茶、果実水、ハーブティーといった飲み物が配られたところで、全員が席につく。
久しぶりに硬いパンとチーズと具のないスープじゃない食事が食べられる……と料理を前にうずうずしていたエイルは、隣からそっと肘でつつかれた。
「?」
横を見ると、リフィアが小声でささやいてくる。
「エイル、号令」
「へ?」
「食前の祈り、騎士団長のあなたがやらないと」
言われてみれば騎士団全員の視線がエイルに集まっている。メングラッドなどは『早くしろよ』と言いたげに猛獣みたいな顔で威嚇していた。
「え、えええ〜〜!? 私がかけるの? 無理無理無理こんなみんなの前で!」
「あなた以外に誰がやるのよ。お祈り自体は毎日やっていたでしょう」
「リフィア代わって!」
「だ~め」
「うう〜〜〜〜」
へにょりと口を曲げて観念したエイルは、椅子から立ち上がる。
「ええっと、みんな昨日は本当にお疲れ様。これからまた頑張るためにも今はお腹いっぱい食べましょう。それでは手を合わせてください」
エイルが両手を合わせると、千名の騎士団員全員があとに続く。私、本当に騎士団長になったんだなあとエイルは変なところで実感した。
「パナケイア聖騎士団、聖唱」
『我らの剣は、すべての貧しき人々のために
我らの盾は、すべての悲しき人々のために
我らの祈りは、すべての病める人々のために
我らの命は、すべての弱き人々のために』
「母なる女神パナケイアよ、あなたの慈しみに感謝してこの食事をいただきます。ここに用意されたものを祝福し、私達の心と体を支える糧としてください。マスハール」
『マスハール』
騎士団全員が祈りを捧げる。
マスハールとは万神教において重要な聖句の一つだ。古代語で『神の慈悲』『神の癒し』などの意味を持つとされるが、実のところ正確な語義は神学者の間でも議論が分かれはっきりとはしていない。曖昧な意味を多分に包摂するので、パナケイア女子修道会では祈りの結びのみならず頻繁に用いられている。「了解」の代わりに用いられることも多い。
祈りを終えると、待ってましたとばかりに一斉に食器が鳴り響いた。みんながそれぞれ大皿から好きな料理を取り分け、あるいはパンを手に取り、頬張る。
それらを横目にエイルはふぅと小さなため息を付いた。慣れない緊張に手汗がにじんでいる。不思議な感覚だった。戦場の指揮より、こんな何でもない日常の祈りでみんなに注目される方がずっと緊張する。
「お疲れ様」
見れば隣でリフィアが微笑んでいる。エイルの心情などお見通しのようだった。彼女の包み込むような笑顔を見ただけで、エイルの緊張はどこかに消えてしまった。
リフィアがエイルにだけ見えるよう控えめに手のグラスを掲げる。中からは果実酒の橙色が覗いていた。エイルも同じものが入ったグラスを手に持ち、小さく打ち合わせる。
「マスハール」
「マスハール」
チン、と澄んだ音がグラスから響く。
ようやく落ち着いて食事できる……とテーブルに目をやって、エイルは唖然とした。
今日だけは特別のつもりでエイルは糧食班に城の備蓄から大盤振る舞いする許可を出したのだが、健啖家の多い騎士団員の食欲は予想を遥かに上回っていた。
溶けるが如き勢いで無くなっていく料理を前にエイルは慌てて自分の分を確保に行った。