エイルの過去
『エイルよく聞きなさい。私達はね、バローネなのだよ』
エイルにとって家族の印象はひどく薄い。五歳の時に血の繋がるものとは全て死別したからだ。
エイルはソラン帝国南方領のラティアノ半島に生まれた。貴族の男爵家だった、と聞かされている。なにもかも曖昧なのは、エイルが五歳のときラティアノ半島が魔王軍の侵略を受け征服され、焦土と化したからだ。
侵攻を受ける直前まで、人類大陸は平和そのものだった。百年前に魔王軍を叩き出し、五十年前にソラン帝国によって大陸の過半が統一されてからというもの戦乱らしい戦乱を経験しなかった。たまに流れ着いてくる魔物の襲撃は、軍の侵攻というよりは野生動物の暴走に近かった。
それだけに、十三年前突然始まった魔王軍の侵攻は人類を浮足立たせた。その時の侵攻は、現在に比べて遥かに小規模だったものの、上陸阻止に失敗したソラン帝国軍は敗北を重ね、ついにはラティアノ半島全てを蹂躙されるに至った。
以後、ラティアノ半島は暗黒時代となった。すべての建物は破壊され畑は焼かれ、住民は奴隷に落とされた。
敗戦のさなかエイルの一族は土地の貴族として勇敢に戦い、全員が戦死した。ただ五歳だったエイルだけはまだ幼いために従者に預けられ逃された。しかし結局は予想を遥かに超える魔王軍の進撃速度によって捕捉され、捕まり奴隷とされてしまう。
世間的な評価では、エイルの父親は貴族の鑑と評される。領民の盾となって戦いノブレス・オブリージュを体現したからだ。
だが、エイルは未だに父の思いに納得できていない。魔王軍が恐るべき強さと速度で迫っていることはわかっていたはずなのだ。もし、当主だったエイルの父親が最後まで踏みとどまらずなにもかも投げ捨て逃げていたなら……、エイルは奴隷に落ちることもなく、ラティアノ半島から逃げ出せていたかも知れない。家族も失わずに済んだかも知れない。
多くの人間が農場で労働奴隷とされる中、生まれつき魔力量の多かったエイルは魔力奴隷となった。貴重な白魔力の所有者だったエイルは毎日徹底的に魔力を絞り上げられ、投薬によって無理やり回復されてはまた絞られた。毎日毎日限界を超えるまで魔力を搾取され続けたエイルはいつしか人間らしい感情を忘れ、自分は魔力を吐き出す人形だと思いこむようになる。
エイルが地獄の境遇から救い出されたのは6年後、ソラン帝国がようやく反攻に成功し、ラティアノ半島を魔族の支配から解放してからだった。反撃の魁となったのはパナケイア聖騎士団であり、エイルが捕まっていた奴隷牧場を解放したのも騎士団だった。エイルは、当時はまだ新人騎士だったブリジッドによって救出された。パナケイア女子修道会に保護されたエイルは、そのまま故郷を離れソラン帝国中央領の修道院で養育される。修道院長はやさしい人で、そこでエイルはゆっくりと心と体の傷を癒やしながら成長していく。
別れたとき幼かったこととその後の過酷な奴隷時代によって、エイルは家族のことをほとんど覚えていない。顔ですら曖昧だ。それでも一つ、父から言われた言葉で心に残っているものがある。
『エイルよく聞きなさい。私達はね、バローネなのだよ』
たしか、父が魔王軍と戦うため出陣する日の朝に言われた言葉だったと思う。今生の別れとなるのが確実な時になぜそんな事を言ったのか、エイルはよくわかっていない。でもなぜか、その時の父の声と眼差しが心の奥底に残り離れないのだ。
「バローネ」とはなんなのか。そのままならラティアノ語で男爵という意味だが、父の言い方はもう少し違うように思えた。
未だにエイルは父への思いを決めきれないでいる。憎んでいいのか許していいのかもわからない。それでも父の最期の言葉だけは、繰り返し思い出していた。
『エイルよく聞きなさい。私達はね、バローネなのだよ』
その後十四歳のとき、修道会の魔力測定で異常な数値を出してしまったたエイルは騎士学校に推薦された。修道院長は反対したが、エイルは自分の意志で騎士になることを選ぶ。
そして今、魔王軍と絶望的な戦いに身を投じている。父と同じ様に。