魔王軍
「追撃部隊が全滅した?」
魔王軍最高司令官にして魔王国の国家元首、魔王ヘルムート一世はその報告を受けて形の良い眉をわずかに持ち上げた。
その容姿は「魔王」という名の持つ禍々しい響きとは無縁のものだった。スラリと高い長身に合わせ、美しく伸ばされた黒髪は新月の夜空の様。真紅に輝く瞳は地獄の炎の様。彫りの深い顔立ちには魔族らしい野性味を残すが、生来の気品は損なわれていない。両額から捻じ出る角を除けば、美しい貴公子そのものだった。今は装飾のない無骨な黒衣の魔王軍装を身に着けているが、それすら彼の魅力を際立たせていた。
「どういうことだ参謀長。いつ、どこで、どの部隊がだ?」
魔王ヘルムートは簡潔だが穏やかな口調で問いかけた。
人形のように整った容姿を持つ銀髪の少女が、表情もまた人形そのものの無感情さで報告する。
「北部方面に進出させていた部隊の一つです。規模はオーク、ゴブリンを主力とする三千。部隊にはすべて毎日の定時報告を厳命していますが、一昨日を最後に連絡が取れなくなっています。ですからまだ全滅と確定したわけでは」
「いや、明らかな異常事態だそれは。全滅したと考えて対策を練ろう」
ヘンドリックスの会戦でソラン帝国軍に大勝利した魔王軍は、軍をあげての追撃戦は行わずまずは侵攻後確保した侵略地の拠点化に勤しんだ。魔王軍第一波には続けて上陸してくる第二波(むしろこちらが本軍)との合流と再編成という重要な役目があったし、慎重な性格の魔王は遠征軍としての常道を重視したからだった。ただ何もしなかったわけではなく、リバート王国南部各方面へ小分けにした追撃部隊を出し敗残兵狩りと情報収集を行わせていた。
追撃部隊はセプテム城を襲ったような二千〜三千の小勢とし(魔王軍にとっては小勢だった)、部隊単位で自由な行動を許して送り出した。その時魔王が各指揮官に念を押したのは情報の重要性だ。負けてもいい、逃げてもいい、とにかく一兵でも生きて情報を持ち帰れと。各部隊長も魔王の命令を忠実に守り、不意の遭遇戦で損害を受けた部隊は数あれど全滅するまで無謀な戦いをした追撃部隊はいなかった。今日、このときまでは。
全滅、文字通りの全滅。もしかしたら一部の兵が逃亡に成功し今も魔王本軍への合流を目指して山野を駆け回っているかもしれないが、少なくとも部隊規模での帰還は叶わなかった。
「帝国西方領の地図を持ってきてくれ。全体図と北西方面詳細図の両方だ」
魔王軍の野営地内で事実上の最高司令部となっている魔王の天幕の中へさっそく地図が運び込まれた。巨大な机の上へそれを広げた魔王は、参謀長とともに敵の勢力を予測する。
「消えた偵察部隊が最後に連絡してきたのは……ここか、かなり北寄りだな。捜索した限りでは帝国軍にとって重要な拠点はなかったはずだが」
偵察部隊が消えたのは中央街道からはずっと外れた、帝国側から見れば西北部の奥にある狭い街道沿いだった。
現在魔王軍はソラン帝国の帝都攻略を目指して準備を進めている。そこで主要侵攻路に選ばれたのが西方領内で最も重要なアルバ街道だ。帝国中心部を貫き帝国中央領、やがては帝都へとまっすぐ通じている。
この街道を選んだのはひとえに魔王軍が大軍であるためだった。ソラン帝国内には他にも人馬の通行を許す街道はいくつもあるが、大軍が迅速に移動できるのはアルバ街道だけだった。他は途中に山間部を抜けねばならなかったり、道の間に大河が横たわっていたりと進軍に適さないのだ。
もちろん帝国側もここをただで通すはずがなく、帝都へと伸びるこの街道沿いには大きなものだけでも5つの城が立ちはだかっている。魔王軍はこれを正面から攻略していく計画であり、偵察が終われば再び大軍を集成する予定だった。魔王ヘルムートは、その気になれば人類よりはるかに多くの兵士をかき集められる魔王軍の利を捨てるつもりはない。
よって、このアルバ街道沿いを偵察している部隊が消息を絶ったというのなら、ソラン帝国軍による哨戒部隊に遭遇して殲滅されたとも受け取れるのだが……。
「ゴブリンとオークが主体とはいえ追撃部隊は三千だ。これを容易に屠れるような戦力がこの地方に展開しているとは思えないが」
「拠点となりそうな場所もほとんど見当たりませんね、強いてあげればここ、セプテム城でしょうか」
「セプテム城? 聞き覚えがないな」
「セプテム山地の峡谷に築かれた城です。天然の要害に建てられた名城ですが、すでに三年前魔王軍の攻撃によって陥落寸前まで追い込んでいます。その後魔王軍の撤退に合わせて再び人間の手に奪い返されましたが、まだ城壁の修復などは行われていないとのことでした。ソラン帝国軍も城壁のないこの城を半ば放棄しているとの情報があり、これまで重要視はしていませんでした」
「味方からも忘れ去られた古城、というわけだな。撤退戦でソラン帝国本軍に合流できなかった一部の兵士がここに拠って守りを固め、我が軍の追撃部隊を撃退した。というのがもっとも可能性が高いが……」
「なにか不審な点が?」
「殲滅の手際が鮮やかすぎる。どれほどの規模の兵力が籠もっているのかわからないが、追撃部隊を撤退も許さず叩き潰すなど並大抵のことではない。しかも私の予測通りなら、帝国本軍にも合流できなかった敗残兵がだぞ。ソラン帝国軍にそれほど優秀な野戦指揮官がいるなら、私はヘンドリックスの会戦でああも容易に勝利を収められなかったはずだ」
「陛下の軍才はこの天下に冠絶しております。いかなる相手であろうと遅れを取ることはないと存じます」
「ありがとう。参謀長の賛辞ならば受け入れよう。ともかく、このセプテム城にいったい何が籠もっているのか気になる。城内の戦力、糧食や武器の量、そして守将が誰なのか把握する必要があるな。危険なようであれば魔王軍の一部を派遣し攻略しよう」
「は。これまで北部には注意を払ってきませんでした。もし仮に敵がセプテム城に一定の戦力を備えれば、容易に我軍の後方や補給線を攻撃することが可能となります。そうなれば我々は安心して進軍できません」
「そのとおりだ参謀長。最低でも攻囲して敵が城から出てこないよう見張る必要がある。まあアルバ街道への総進撃はまだ先だ。焦らず、しっかりと準備をした上で対策を立てるとしよう」
「仰せのままに。陛下」
ソラン帝国…物語の舞台。中央大陸(人類大陸)の過半を支配している覇権国家。皇帝はいるが貴族と緩やかな連合体制を敷いている。領土は広く、農業工業ともに盛んで豊かな国だが十数年前から魔王軍の侵攻をたびたび受けている。
魔王国…西方大陸(魔大陸)に存在する国。魔王を頂点として他の魔物を完全に支配下に置く専制国家。人類大陸へ度々侵攻を繰り返していたが、最近戦術に大きな進歩が見られるようになった。