索敵室
「うわ、もう朝……」
エイルは眠い目を擦りながら団長室のベッドから這い出た。最近は籠城戦の準備や作戦会議、避難民の救援で寝る間もないほど忙しいのだった。
結局昨日ベッドに潜り込んだのは明け方寸前だった。眠気は消えずすこし頭が重い。銀の水差しからコップ一杯水を飲むと、手早く身支度を整える。
あくびを噛み殺しつつ最初に向かったのは隣の索敵室だった。
「みんなおはよ〜う」
「おはようございます。エイル団長」
索敵室に詰めている数名の騎士団員が座ったまま挨拶を返す。決して狭くはない部屋だが、瘴気を探査する魔導具が大幅に場所をとるせいで窮屈に感じる。
「なにか変わったことはある?」
エイルが尋ねると、まず瘴気探査盤の前にいた従士が答えた。
「周辺30km圏内、魔王軍部隊及び上級モンスターと見られる反応はありません」
続けて魔力探査を行っている別の従士も報告する。
「城の周囲1km、大きな魔力反応もありません」
最後に、ここのまとめ役である騎士が総括して言った。
「夜間帯から今朝まで、魔王軍と見られる反応は何もありませんでした。いまのところ城の周囲は平和です」
「ご苦労さま」
索敵室内の空気は明るい。狭い場所で常に敵の気配を探り続けるというのは強い緊張と疲労をもたらすものだが、索敵室に詰めている団員の表情は穏やかで落ち着いていた。すこしは努力が実ったかな、とエイルは一安心する。索敵室を置いた当初からここを快適な場所にできるよう、エイルはできるだけがんばってきた。どんな戦場でも、索敵は強い消耗を伴うからだ。
人類が魔物を肉眼以外で捜索する方法は2つある。瘴気探査と魔力探査がそれだが、どちらの方法にも長所と短所があった。
まず瘴気探査は、魔物が他の生物ともっとも違う特徴である瘴気を検出することでその存在を判別する方法だ。
魔物は、魔力と瘴気を共に持つ存在と定義されている。魔力だけならば人間を始めとして魔物以外の生物も持っているものがいるが、瘴気だけは魔物しか持たない。瘴気は魔力と違い触れるだけで他の生物を害するものであり、魔物は瘴気をその身に宿しているからこそ危険とされた。
例えば、ブラッドベアという野生の熊が魔物化したモンスターがいる。もちろん危険な魔物だ。だが一方で、普通の熊でも人を襲うことはある。ブラッドベアと人を襲う熊の違いとは、体に瘴気を宿しているかどうかにある。
瘴気を宿した生物は多くが凶暴化し、獲物の血肉のみならず魔力でも生きられるようになる。そのため他の魔力を持った生物、特に人間をよく襲う。人間は他の生き物に比べてずっと多くの魔力を持っているからだ。逆に言えば、たとえどれほど多くの人間を食い殺した熊や狼がいようと、瘴気を宿していなければあくまで野生の生物の範疇である。
この瘴気は慣れてくると普通の人間でも五感で感じ取ることができる。針に刺されたよう、氷に触れたよう、害虫の羽音のよう……感じ方は人それぞれだが、総じて瘴気は普通の生物にとって不快な感覚を持って現れる。人類ははるか古代からこの瘴気を感知する魔法を開発し続けており、現在では数十km先の瘴気さえ探知できるほどその能力は上がっている。
大きな都市はたいていこの瘴気探査魔導具を街の中心に置いており、街を襲ってくる魔物の探知に役立てている。ただこの瘴気探査、魔物の個体を調べるという点ではあまり精度が良くない。北東へ10km先に魔物の群れがいることはわかっても、具体的にどんな種類の魔物が何頭いるのか? その強さは? といったことはわからない。瘴気探査では遠くの瘴気を一つの塊として捉えてしまうからだ。探査に引っかかるだけの大きな瘴気――数十頭の魔物の群れか、単体でも強力な竜やキメラと言った上級の魔物の存在がわかるだけなのだ。たとえばゴブリンやオークが一匹、群れからはぐれてさまよっているようなのを探知はできない。存在する瘴気が少なすぎるためである。500メートルほどまで近づいてくれば個々の識別もできるが、その頃には肉眼でも確認できるため意味がない。また今のところ、瘴気探査用魔導具は総じて巨大であり、小型化、携帯化には成功していない。よって瘴気探査は早期警戒網としての役割を主に担っている。
対して魔力探査は、魔物の魔力を魔法によって探知するものだ。これは瘴気探査と逆に、探索範囲は狭いものの魔物の個体識別や魔力量など詳細な情報を知ることができる。さらに魔物だけでなく人類同士の戦いでも有効である。エイルは瘴気探査と魔力探査を併用して敵の警戒に使っていた。
実のところ、パナケイア聖騎士団の戦法に索敵の重視というものは今までなかった。籠城戦を始めるにあたって索敵室を作ったのも、そこへ瘴気探査と魔力探査両方に人を配したのも全てエイルの発案だ。パナケイア聖騎士団に限らずこの世界の常識として、魔物は高い塔の上などから目視で探すものであり瘴気探査で周囲全てを警戒するという発想は今までなかった。
しかしエイルは、むしろ肉眼に頼らなくても魔物の存在にすぐ気付けるよう努力を払っていた。たとえば魔力探査では騎士団の中から探査魔法の得意なものを選び、さらに魔法の精度と出力を底上げする魔法陣を準備して探索を行っていた。魔力探査の範囲が1kmというのは人類の術師としては屈指の広さだ。
索敵室そのものにも気を配った。索敵室内では全員、最も安楽な姿勢を取ることが許可されている。飲食や嗜好品のたぐいも自由だ。部屋の一部に仮眠用のソファやベッドまで入れている。索敵任務そのものも6時間おきの4交代制となっている。普段の騎士団の歩哨は3交代制だから、これも団員を疲労させないよう配慮されている。
瘴気探査用魔導具によって常に魔物の群れは警戒しているので、魔力探査は定時か瘴気探査に反応があったときでいい。常に敵を警戒して緊張するのではなく、探るべきときに集中してそれ以外はゆっくり休む……エイルはそのような体制を作り上げた。
エイルの作った索敵室はすぐに効果を上げた。まず夜間の警戒任務が大幅に縮小され、ほとんどの者が夜ぐっすり眠れるようになった。また魔物の被害として特に多かった夜間突然の奇襲も、これで心配しなくていい。今までは肉眼による警戒のみだったため夜目の効く魔物に一方的にやられることが多かったのだが、瘴気探査があれば奇襲されることはない。索敵室という新たな部署の設置に当初戸惑っていた団員たちも、すぐにその有効性を実感することとなった。
「エイル様、おはようございます」
「あ、ラウラさんおはよう」
いつの間に来たのだろうか、ラウラがお盆を持ってそばに立っていた。銀盆の上には湯気の立つカップがある。
「カフェラテをお入れしました。よろしければ」
「ありがと〜」
礼を言ってカップを受け取る。香りを嗅いで驚いた。エイルの好みを反映して、ソラン風のカフェオレではなくちゃんとラティアノ風のカフェラテだった。一口飲めばエスプレッソの香りとミルクの甘みがエイルの体を内からじんわり温める。
「…………」
「お口に合いませんでしたか」
「いやいや全然! とってもおいしいよ。さすがラウラさん」
「恐縮でございます」
完璧な角度で腰を折ってラウラが一礼する。おいしいカフェラテを飲みつつ、エイルは内心首を傾げた。
『……いまさらだけどラウラさんって何者なんだろう。エルフのはずなのに従者として万能すぎない? 人間の飲み物にまでくわしくてラティアノ風のカッフェからリバート風の紅茶まで全部完璧に淹れられるなんて』
「エイル様、なにか?」
「あ、ううん、なんでもない」
仮にそれを尋ねても「私は300年生きていますから」の一言で終わってしまいそうなのでエイルは何も問わなかった。
疑問の視線に気づいているのかいないのか、ラウラは従者のお手本のような姿勢で壁際に佇立している。
その時、索敵室のドアが乱暴にノックされる。返事も待たずに入室してきたのはリフィアだ。めずらしく顔色を変え、髪もわずかに乱れている。
「リフィア? どうしたの、そんなにあわてて」
「ぜっ、はあっ、今、飛鳥便が来て……、けほっ」
一度咳き込んでから、リフィアは顔を上げる。
「帝都からの知らせよ。魔王軍の攻撃でカロガンツの街が、陥落したわ」