第一話 『崩れ行く日常と世界』(Side B)
――実に嫌な夢を見て目が覚めた。
ふざけた格好をした道化師に、ただひたすらに追いかけられ、最後には私が殺されてしまう夢だ。不死の奇術師と呼ばれ、数々の手品を成功させてきた私であっても、やはり死は恐ろしいものだ。
我に返ると背中に冷や汗をびっしりかいていた。冬場ということもあり、汗の気化熱が更なる体の冷え込みを誘う。このままでは風邪をひいてしまうかもしれない。着替えた方が良さそうだ。
新しい衣服に着替えるため、一旦上体を起こした。隣には、私の恋人である江下手里奈が規則正しい寝息で寝ていた。今は見ることは叶わないが、美しい宝石のような青い瞳も、セミロングの茶色い髪も何もかもが愛おしい。
彼女に触れたいという邪な心理が働き、ついつい彼女の頭を撫でてしまう。サラサラとした彼女の髪が、私の指の隙間を滑り落ちていった。微かに漂うシャンプーの匂いが、私の鼻孔をくすぐった。私も同じシャンプーを使っているので、ついつい嬉しくなってしまう。
そのままベッドから降り、窓の方を向いてみると、外はまだ暗かった。時計を見ていないから分からないが、恐らく深夜付近だろう。まじまじと窓の外を見ていると、漆黒の中に自分の意識まで溶け込んでいくように思えた。
「……いけない。だいぶ疲れてるな」
私は目頭を両指で押さえながら、他の誰でもない自分に向けて独白を吐く。その有様は、一人で芝居するしか能がないしがない大根役者に思えた。
その状況を払拭するため、自身の首を大きく左右に振ると、そのまま寝室を後にする。そして自分の部屋に足を運び、クローゼットを開けた。クローゼットの中身から、別の寝間着を取り出すと、自分が着ていた衣類を脱いで、そのまま新しい衣類に着替える。
寝汗でびっしょり濡れてしまったこの衣類は、洗濯かごに入れて明日洗うとしよう。洗うのは私だから、例え明日洗濯物が増えたとしても、里奈はそれほど嫌がらないだろう。
着替えが終わったところで、脱いだ洗濯物を手に持つ。そして、そのまま部屋を出ようとした時、部屋の中にある鏡の中の自分と目が合った。その鏡の世界で立ち尽くすだけ男の顔を見て、私は実に忌々しい気持ちになった。
私は自分の容姿が嫌いだった。否――大嫌いだった。
私の母親が亡くなった時、葬式に現れた親戚達は口々に私の容姿を褒めた。私の容姿は自分の母親に生き写しだとか、そして死んだ母親の分まで生きてくれとか言われた。この時の私は、悲劇の少年ならぬ悲劇のヒロインの扱いだったのかもしれない。
問題はその後だった。母親が死んだことで、私の父親は酷く荒れた。酒に溺れるようになり、私は父から暴力を受けることが日常茶飯事となった。特に年々母親に似てくる私の顔が気に食わなかったのか、父親は時々何かに取り憑かれたかのように何度も私の顔を殴った。私はこの苦痛から逃れるため、ただひたすらにやめて、やめてと叫んだが、決して彼はやめてくれることはなかった。
そんな地獄の日常だったが、ある時急に終止符を迎えることとなった。父親は酒帯運転をしており、アルコールが抜ける前に運転したことで、電柱に正面衝突をして死んでしまった。この時、巻き込み事故にならなかったのは、不幸中の幸いと言えた。母親が死んだときもそうだったが、人の命というのは、何ともあっけないと思ったのも良く覚えている。
こうして私は二人の親を立て続けに亡くし、天涯孤独の時代を過ごすことになった。皮肉なことに、私は再び神から悲劇のヒロインの役を与えられたのだ。
だからこそ自分は自分の力でこの社会で生きていくと強く心に決めたのだ。
私の容姿が中性的で美しいだとか、綺羅星の如く現れた美人奇術師だなんだと世間では騒ぎ立てられたが、個人的には嬉しくもなんともなかった。私は自分自身の手品の実力で、私という人間を世間に認めて欲しかったのだ。
「私って一体何なんだろうな?」
鏡の向こうにいる自分に問いかけてみる。しかし、鏡の向こうにいる私は、あくまで私の行動を模倣するだけだ。決して私の問いに回答してくれることはない。それは永遠帰ってくることはない無意味な質問だった。
そのまま自分の部屋を出て、自分の寝室に戻る。パタンと大きな音を立てて里奈が起きないよう、細心の注意を払いながら扉を閉める。洗濯物は洗濯機横のかごの中に入れてきたので、後は寝るだけだ。
何だか異様に疲れてしまった。明日の仕事に影響が出ないようすぐに寝なければならない。睡眠不足は社会人にとっての天敵以外の何物でもないのだ。
――と、私がベッドに戻ろうとしたその時だった。
リモコンの電源スイッチを押していないも関わらず、息を吹き返したが如くテレビがつき始めたのだ。
「……ア……ア……アアア……」
テレビの砂嵐に交じって、男の呻き声のようなものが聞こえてくる。テレビの不調かと思って、テレビの息の根を止めようとテレビのリモコンに手を延ばそうと考えた。
その時――私は初めて自分の異変に気付いた。
自分の体が全く動かなくなっていたのだ。それどころか、声を上げることもできない。金縛りにあったのだと理解するのに、時間はかからなかった。
本能的にこれはヤバいと感じる。しかし体が動かない。足が石像になってしまったかのように、一歩も動くことができないのだ。
ふいに訪れた現実的ではない世界。その世界に足を持っていかれそうになっているにもかかわらず、私は自分でも驚くほど冷静だった。幽体離脱をして自分を眺めている錯覚に陥る。
どうにかして里奈に助けを求めようと思う気持ちと、ここで起こしてしまうと里奈も大きな災いに巻き込まれるのではないかという相反する気持ちがせめぎ合う。
「ア……ア……壊……れ……る」
壊れたレコーダーが無理矢理絞り出しているような異様な声が、テレビのスピーカーから聞こえてくる。私は何とかして顔をテレビから背けようとするが、体が全く言うことを聞かない。
「……壊れる。壊れる。壊れる。壊れる。壊れる。壊れる。壊れる。壊れる。壊れる。壊れる。壊れる。壊れる。壊れる。壊れる。壊れる。壊れる。壊れる。壊れる。壊れる。壊れる。壊れる。壊れる。壊れる。壊れる。壊れる。壊れる。壊れる。壊れる。壊れる。壊れる。壊れる。壊れる。壊れる。壊れる。壊れる。壊れる。壊れる。壊れる。壊れる。壊れる。壊れる。壊れる。壊れる。壊れる。壊れる。壊れる。壊れる。壊れる。壊れる。壊れる。壊れる。壊れる。壊れる。壊れる。壊れる。壊れる。壊れる。壊れる。壊れる。壊れる。壊れる。壊れる。壊れる――」
それこそ壊れたテープレコーダーが再生しているかのように、狂った台詞がループする。聞いているだけで頭がおかしくなりそうだが、私はテレビの引力に引きずり込まれてしまい、瞬きすらできないでいた。
「……壊れる。次に壊れるのは――お前」
テレビから聞こえてきた声が、ふいに私の耳元で聞こえた。辛うじて動く自分の目を使って、視線を声のした方に向けると、そこに男がいた。
体中の皮膚はただれており、肉がところどころ剥がれ落ちているその男。視覚の都合上、半分までしか見えないが、その男はどこか嘲笑っているかのように見えた。テレビに起因する薄く青い光を借り、その化け物は確かに姿を現したのだ。
恐怖に取り付かれた私は、心の中で力一杯声を上げた。しかし現実で叫んだつもりの私の声は、不可視の力によって、消されてしまった。
そんな私の心の内を知ってか知らずか、男は肉のみならず、骨などが浮き彫りになったその両手で私の顔を鷲掴みにする。
私は目の前の恐怖に耐えられず、ぷつりと自分の意識を手放した。
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